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25 さて次の馬鹿へ
姉上はしばらく黙っていた。私はその横顔を見つめる。
白い頬、伏せられた睫毛、きゅっと結ばれた唇。人が見れば、まだ儚げだと言うのかもしれない。でも私は知っている。今の姉上は、逃げているのではなく、ちゃんと受け止めているだけだ。
やがて姉上が顔を上げた。
「謝罪は受け取ります」
静かな声だった。
「ありがとうございます」
「ですが」
姉上は続けた。
「許すこととは別です」
「……」
「私は、あの家で軽く扱われました。物も、席も、私自身も」
「ええ」
「それを、なかったことにはいたしません」
侯爵夫妻は何も言わなかった。言えないのだろう。
たぶん、この場に来るまでは“署名もした、謝罪もする、それでひとまず収まる”くらいには考えていたかもしれない。でも姉上のその一言で、そうではないともう十分にわかったはずだ。
父上が言った。
「補償の件は、別紙の通り進める」
「承知している」
侯爵が答える。
「不足分、損傷分ともに」
「加えて」
母上が穏やかに言う。
「今後、パールに関する不名誉な物言いが貴家から出ぬよう、改めて約してくださいませ」
「約束しよう」
「家人にも?」
「……家人にも」
「愛人にも?」
つい私の口からも漏れる。兄上も今度は止めなかった。
ドルメーユ侯爵夫人が、初めて私を見る。少し疲れた目だった。
「アーシャにも、です」
「そう」
私は小さくうなずく。
「でしたら、よろしいですわ」
ほんとうは、全然よろしくない。でも今ここで必要なのは、こちらがきちんと聞いたことを示すことだ。
母上は机の上の文書へ手を置いた。
「では、この謝罪文は当家で預かります」
「……はい」
「返還と補償については、すでに受領した分を含め、改めて一覧にて照合いたします」
「そのように」
侯爵が答える。
「そして」
父上が続ける。
「本日の件は、これで終わりではない」
「承知している」
侯爵の声は少し掠れた。
「ベルジャン侯爵」
「何だ」
「……迷惑をかけた」
それは、当主同士の言葉だった。
飾りのない、短い詫び。でも短いからこそ、かえって重かった。
父上はしばらく相手を見て、それから低く返した。
「娘が受けた分には足りん」
「……だろうな」
「だが、署名したことは覚えておく」
侯爵は、そこで初めて小さく頭を下げた。その頭の下げ方は、貴族としての礼を崩さないぎりぎりの深さだった。崩さないけれど、軽くもない。
私はそれを見ながら、ああ、この家はようやく本当に痛み始めたのだな、と思った。
見栄や体面だけではない。自分たちの名で認めたことが、これからじわじわ効いてくるのだ。
◇
侯爵夫妻が帰ったあと、応接間には長く沈黙が残った。雨はまだ降っている。窓を伝う雫が、庭の白い石をぼかしていた。
最初に動いたのは兄上だった。
「……父上」
「何だ」
「俺、いま少しだけ気が済みました」
「少しか」
「少しです」
「まだ足りません」
母上が言う。
「ええ」
兄上は素直に頷いた。
「でも少しは、です」
私はそこでようやく息を吐いた。
「姉上」
「何?」
「大丈夫?」
「ええ」
姉上は答えて、それからほんの少し笑った。
「不思議ね」
「何が?」
「もっと苦しいかと思っていたの。でも、違ったわ」
「うん」
「たぶん、ちゃんとこちらを見て謝られたから」
「……そう」
私はその言葉を聞いて、少しだけ胸が熱くなった。
謝罪で全部が戻るわけじゃない。許せるわけでもない。でも、奪われた側に向かって、きちんと名を出して謝る。
それだけで違うことは、たしかにあるのだ。
母上が文書をたたみ、封筒へ戻す。
「これで一つ」
「ええ」
父上が言う。
「次だ」
兄上が椅子の背に寄りかかる。
「次、か」
「何ですか、兄上」
「ラヴェルディの長男だ」
「ああ」
そうだった。こちらが重たい一つを片づけたところで、もう一人の馬鹿が消えたわけではない。
私は窓の外の雨を見た。灰色の空の下、庭は静かだった。
でもその静けさの向こうで、まだ終わっていない話がある。
ドルメーユ家は、ようやく自分たちの名前で謝った。それは一つの区切りだ。
けれど、区切りがついたからこそ、次に片づけるべき馬鹿の姿も、前よりはっきり見えてきていた。
白い頬、伏せられた睫毛、きゅっと結ばれた唇。人が見れば、まだ儚げだと言うのかもしれない。でも私は知っている。今の姉上は、逃げているのではなく、ちゃんと受け止めているだけだ。
やがて姉上が顔を上げた。
「謝罪は受け取ります」
静かな声だった。
「ありがとうございます」
「ですが」
姉上は続けた。
「許すこととは別です」
「……」
「私は、あの家で軽く扱われました。物も、席も、私自身も」
「ええ」
「それを、なかったことにはいたしません」
侯爵夫妻は何も言わなかった。言えないのだろう。
たぶん、この場に来るまでは“署名もした、謝罪もする、それでひとまず収まる”くらいには考えていたかもしれない。でも姉上のその一言で、そうではないともう十分にわかったはずだ。
父上が言った。
「補償の件は、別紙の通り進める」
「承知している」
侯爵が答える。
「不足分、損傷分ともに」
「加えて」
母上が穏やかに言う。
「今後、パールに関する不名誉な物言いが貴家から出ぬよう、改めて約してくださいませ」
「約束しよう」
「家人にも?」
「……家人にも」
「愛人にも?」
つい私の口からも漏れる。兄上も今度は止めなかった。
ドルメーユ侯爵夫人が、初めて私を見る。少し疲れた目だった。
「アーシャにも、です」
「そう」
私は小さくうなずく。
「でしたら、よろしいですわ」
ほんとうは、全然よろしくない。でも今ここで必要なのは、こちらがきちんと聞いたことを示すことだ。
母上は机の上の文書へ手を置いた。
「では、この謝罪文は当家で預かります」
「……はい」
「返還と補償については、すでに受領した分を含め、改めて一覧にて照合いたします」
「そのように」
侯爵が答える。
「そして」
父上が続ける。
「本日の件は、これで終わりではない」
「承知している」
侯爵の声は少し掠れた。
「ベルジャン侯爵」
「何だ」
「……迷惑をかけた」
それは、当主同士の言葉だった。
飾りのない、短い詫び。でも短いからこそ、かえって重かった。
父上はしばらく相手を見て、それから低く返した。
「娘が受けた分には足りん」
「……だろうな」
「だが、署名したことは覚えておく」
侯爵は、そこで初めて小さく頭を下げた。その頭の下げ方は、貴族としての礼を崩さないぎりぎりの深さだった。崩さないけれど、軽くもない。
私はそれを見ながら、ああ、この家はようやく本当に痛み始めたのだな、と思った。
見栄や体面だけではない。自分たちの名で認めたことが、これからじわじわ効いてくるのだ。
◇
侯爵夫妻が帰ったあと、応接間には長く沈黙が残った。雨はまだ降っている。窓を伝う雫が、庭の白い石をぼかしていた。
最初に動いたのは兄上だった。
「……父上」
「何だ」
「俺、いま少しだけ気が済みました」
「少しか」
「少しです」
「まだ足りません」
母上が言う。
「ええ」
兄上は素直に頷いた。
「でも少しは、です」
私はそこでようやく息を吐いた。
「姉上」
「何?」
「大丈夫?」
「ええ」
姉上は答えて、それからほんの少し笑った。
「不思議ね」
「何が?」
「もっと苦しいかと思っていたの。でも、違ったわ」
「うん」
「たぶん、ちゃんとこちらを見て謝られたから」
「……そう」
私はその言葉を聞いて、少しだけ胸が熱くなった。
謝罪で全部が戻るわけじゃない。許せるわけでもない。でも、奪われた側に向かって、きちんと名を出して謝る。
それだけで違うことは、たしかにあるのだ。
母上が文書をたたみ、封筒へ戻す。
「これで一つ」
「ええ」
父上が言う。
「次だ」
兄上が椅子の背に寄りかかる。
「次、か」
「何ですか、兄上」
「ラヴェルディの長男だ」
「ああ」
そうだった。こちらが重たい一つを片づけたところで、もう一人の馬鹿が消えたわけではない。
私は窓の外の雨を見た。灰色の空の下、庭は静かだった。
でもその静けさの向こうで、まだ終わっていない話がある。
ドルメーユ家は、ようやく自分たちの名前で謝った。それは一つの区切りだ。
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