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第39話:永久債としてのプロポーズ
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王都の広場は、かつてないほどの熱気に包まれていましたが、それはヘリオス殿下の時代の狂騒とは質が異なりました。
石畳は磨き上げられ、市場にはノルト領から届いた新鮮な野菜と、再稼働した工場で作られた安価な日用品が並んでいます。
行き交う市民たちの服は質素ですが、清潔で、何よりその表情には、明日も食べていけるという安堵の色がありました。
「……経済指標は全て安定。失業率は過去最低を更新中。治安維持コストも大幅に低下しています」
私は王城のバルコニーから街を見下ろし、手帳にチェックを入れました。
「完璧な復興ですわ。これなら、どこの国の王が来ても恥ずかしくありません」
「君のおかげだ、エリーゼ」
背後から、重厚なマントを羽織ったルーカス閣下が歩み寄ってきました。
明日に控えた戴冠式のための礼服姿です。
無駄な装飾を削ぎ落とした、黒と銀を基調としたデザイン。
それは彼の冷徹な知性と、実務家としての姿勢を体現しているようでした。
「似合っておられますよ、次期国王陛下。……ただし、そのマントの裾、あと二センチ詰めた方が動きやすいのでは? 執務の邪魔になります」
「やれやれ。君は戴冠式の前日だというのに、まだ効率の話をするのか」
閣下は苦笑しながら、私の隣に並びました。
二人で並んで見る王都の夕景。
廃材と計算式から始まった私たちの戦いが、一つの到達点に達した瞬間でした。
「エリーゼ。君との契約についてだが」
不意に、閣下の声色が真剣なものに変わりました。
「契約、ですか? 宰相としての雇用契約なら、すでにドラフトを作成済みですが」
「いや、それではない」
閣下は懐から、一枚の羊皮紙を取り出しました。
そこには何も書かれていません。
白紙です。
「我々のこれまでの関係は、あくまでビジネスパートナーだった。王国の再建というプロジェクトを完遂するための、期間限定の共同経営者だ」
「ええ。プロジェクトは成功しました。国民への配当も十分です」
「だが、これからは違う。国を維持し、発展させるという事業には、終わりがない」
閣下は私の方を向き、そのアイスブルーの瞳で私を射抜きました。
「僕は、君という頭脳を失うリスクを許容できない。君が他の国に引き抜かれたり、あるいは別の商売を始めて去っていくことは、我が国にとって最大の機会損失だ」
「……それで?」
「だから、君を独占契約したい。期間は無期限。解約不能。その代わり、僕の持つ全ての権限と、人生という資産を担保として差し出す」
閣下は白紙の羊皮紙を私に手渡しました。
「条件は君が書き込んでくれ。報酬、休暇、待遇……、好きなだけ要求していい。僕がサインする」
私は羊皮紙を受け取り、呆れてため息をつきました。
これは、遠回しな――いえ、これ以上ないほど彼らしい、合理的で不器用なプロポーズです。
「……馬鹿げた契約ですわ。リスク管理がなっていません」
「何?」
「無期限の独占契約なんて、もし私が暴走したり、価値が暴落したらどうするおつもりです? それに、私の維持コストは高いですよ? 毎日美味しい紅茶が必要ですし、たまには論理的でないワガママも言うかもしれません」
「構わない。君の価値が暴落することなど、数学的にあり得ないからな」
閣下は一歩近づき、私の手を取りました。
その手は温かく、強く、震えていませんでした。
「エリーゼ。僕は君という変数を、僕の人生の恒久的な定数にしたいんだ。……王妃として、僕の隣にいてくれないか?」
王妃。
かつてヘリオス殿下の婚約者だった頃、それは義務であり仕事でした。
しかし、今、この人が口にするその言葉は、全く違う響きを持っていました。
それは信頼であり、共犯であり、そして……。
私は眼鏡のブリッジを押し上げ、熱くなる頬を隠しました。
「……計算外ですわ。まさか、私が感情という非合理なパラメータに流されるなんて」
私は懐から万年筆を取り出し、白紙の羊皮紙にサラサラと一文だけ書き込みました。
『甲(ルーカス)は乙(エリーゼ)に対し、生涯にわたり、世界で一番面白い計算問題を提供し続けること』
そして、その下にサインをして、彼に突き返しました。
「契約成立、です。……覚悟してくださいね、ルーカス陛下。私は一度掴んだ優良物件は、骨の髄までしゃぶり尽くすタイプですから」
「望むところだ、我が宰相。……いや、我が愛しき妻よ」
夕陽が沈み、王都に明かりが灯り始めます。
その光の一つ一つが、私たちが積み上げてきたレンガのように輝いて見えました。
口づけは、甘くはありませんでした。
珈琲とインクの香りがする、私たちに相応しい、静かで確かな契約の封印でした。
翌日、戴冠式。
新王ルーカスの隣には、冷徹な王妃である私、エリーゼの姿がありました。
民衆は知っています。
この国を動かしているのは、玉座に座る王だけでなく、その隣で分厚い手帳を開き、鋭い眼差しで世界を見つめる私であることを。
そして、その手帳の最後のページには、まだ書ききれないほどの未来の計画が記されていることを。
私の復讐劇は終わりました。
しかし、私の建国計画は、まだ第一章が終わったばかり。
数式と煉瓦で積み上げる、私たちの完璧な王国。
その物語は、これからも続いていくのです。
石畳は磨き上げられ、市場にはノルト領から届いた新鮮な野菜と、再稼働した工場で作られた安価な日用品が並んでいます。
行き交う市民たちの服は質素ですが、清潔で、何よりその表情には、明日も食べていけるという安堵の色がありました。
「……経済指標は全て安定。失業率は過去最低を更新中。治安維持コストも大幅に低下しています」
私は王城のバルコニーから街を見下ろし、手帳にチェックを入れました。
「完璧な復興ですわ。これなら、どこの国の王が来ても恥ずかしくありません」
「君のおかげだ、エリーゼ」
背後から、重厚なマントを羽織ったルーカス閣下が歩み寄ってきました。
明日に控えた戴冠式のための礼服姿です。
無駄な装飾を削ぎ落とした、黒と銀を基調としたデザイン。
それは彼の冷徹な知性と、実務家としての姿勢を体現しているようでした。
「似合っておられますよ、次期国王陛下。……ただし、そのマントの裾、あと二センチ詰めた方が動きやすいのでは? 執務の邪魔になります」
「やれやれ。君は戴冠式の前日だというのに、まだ効率の話をするのか」
閣下は苦笑しながら、私の隣に並びました。
二人で並んで見る王都の夕景。
廃材と計算式から始まった私たちの戦いが、一つの到達点に達した瞬間でした。
「エリーゼ。君との契約についてだが」
不意に、閣下の声色が真剣なものに変わりました。
「契約、ですか? 宰相としての雇用契約なら、すでにドラフトを作成済みですが」
「いや、それではない」
閣下は懐から、一枚の羊皮紙を取り出しました。
そこには何も書かれていません。
白紙です。
「我々のこれまでの関係は、あくまでビジネスパートナーだった。王国の再建というプロジェクトを完遂するための、期間限定の共同経営者だ」
「ええ。プロジェクトは成功しました。国民への配当も十分です」
「だが、これからは違う。国を維持し、発展させるという事業には、終わりがない」
閣下は私の方を向き、そのアイスブルーの瞳で私を射抜きました。
「僕は、君という頭脳を失うリスクを許容できない。君が他の国に引き抜かれたり、あるいは別の商売を始めて去っていくことは、我が国にとって最大の機会損失だ」
「……それで?」
「だから、君を独占契約したい。期間は無期限。解約不能。その代わり、僕の持つ全ての権限と、人生という資産を担保として差し出す」
閣下は白紙の羊皮紙を私に手渡しました。
「条件は君が書き込んでくれ。報酬、休暇、待遇……、好きなだけ要求していい。僕がサインする」
私は羊皮紙を受け取り、呆れてため息をつきました。
これは、遠回しな――いえ、これ以上ないほど彼らしい、合理的で不器用なプロポーズです。
「……馬鹿げた契約ですわ。リスク管理がなっていません」
「何?」
「無期限の独占契約なんて、もし私が暴走したり、価値が暴落したらどうするおつもりです? それに、私の維持コストは高いですよ? 毎日美味しい紅茶が必要ですし、たまには論理的でないワガママも言うかもしれません」
「構わない。君の価値が暴落することなど、数学的にあり得ないからな」
閣下は一歩近づき、私の手を取りました。
その手は温かく、強く、震えていませんでした。
「エリーゼ。僕は君という変数を、僕の人生の恒久的な定数にしたいんだ。……王妃として、僕の隣にいてくれないか?」
王妃。
かつてヘリオス殿下の婚約者だった頃、それは義務であり仕事でした。
しかし、今、この人が口にするその言葉は、全く違う響きを持っていました。
それは信頼であり、共犯であり、そして……。
私は眼鏡のブリッジを押し上げ、熱くなる頬を隠しました。
「……計算外ですわ。まさか、私が感情という非合理なパラメータに流されるなんて」
私は懐から万年筆を取り出し、白紙の羊皮紙にサラサラと一文だけ書き込みました。
『甲(ルーカス)は乙(エリーゼ)に対し、生涯にわたり、世界で一番面白い計算問題を提供し続けること』
そして、その下にサインをして、彼に突き返しました。
「契約成立、です。……覚悟してくださいね、ルーカス陛下。私は一度掴んだ優良物件は、骨の髄までしゃぶり尽くすタイプですから」
「望むところだ、我が宰相。……いや、我が愛しき妻よ」
夕陽が沈み、王都に明かりが灯り始めます。
その光の一つ一つが、私たちが積み上げてきたレンガのように輝いて見えました。
口づけは、甘くはありませんでした。
珈琲とインクの香りがする、私たちに相応しい、静かで確かな契約の封印でした。
翌日、戴冠式。
新王ルーカスの隣には、冷徹な王妃である私、エリーゼの姿がありました。
民衆は知っています。
この国を動かしているのは、玉座に座る王だけでなく、その隣で分厚い手帳を開き、鋭い眼差しで世界を見つめる私であることを。
そして、その手帳の最後のページには、まだ書ききれないほどの未来の計画が記されていることを。
私の復讐劇は終わりました。
しかし、私の建国計画は、まだ第一章が終わったばかり。
数式と煉瓦で積み上げる、私たちの完璧な王国。
その物語は、これからも続いていくのです。
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