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第9話:逆転する評価 ―酢になったワイン―
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ヴォルガード領の冬は早いが、屋敷の執務室はかつてないほどの熱気に包まれていた。
暖炉の火のせいではない。
机の上に山積みになった、大量の手紙のせいだ。
「……おい、セレナ。また増えたぞ」
アレクシス様が、呆れ顔で新たな手紙の束をドサリと置く。
その全てに、大陸全土の有名な学者や、大商会の紋章が押されている。
「モテモテだな。王都の貴族連中より、よほど熱烈だ」
「からかわないでください、閣下。これは恋文ではなく嘆願書です」
私はペーパーナイフで封を切り、中身を確認した。
『拝啓、ヴォルガードの賢者様。貴殿が執筆されたという「土壌改良マニュアル・改訂版』を拝読し、感涙いたしました。つきましては、我が領地の塩害対策についてご教示願いたく――』
差出人は、王立アカデミーの権威ある農学博士だ。
かつて私の論文を「女の妄想」と笑った老人の一人である。
「……商人の手によって私のマニュアルが広まり、彼らの目に留まったようですね。王都では見向きもされなかった知識が、今や最先端の秘儀扱いとは。皮肉なものです」
「お前の知識が本物だったという証明だ。……鼻が高いな」
アレクシス様が、自分のことのように誇らしげに胸を張る。
私のマニュアルは、今や大陸中の農業関係者のバイブルとなりつつあった。
だが、光が強ければ影も濃くなる。
外部からの評価が高まるにつれ、王都の闇はより深くなっていた。
*
視点は王都へ。
かつて栄華を極めた夜会は、今やお通夜のような雰囲気に包まれていた。
「……こ、これは……」
グラスを口にした大貴族が、顔を顰めて固まる。
手元にあるのは、この国が誇る最高級ヴィンテージワイン……、のはずだった。
「酸っぱい! なんだこれは、酢じゃないか!」
「腐っているぞ! 毒でも盛ったのか!」
貴族たちが次々とグラスをテーブルに叩きつける。
給仕たちが震え上がる中、主催者であるヘリオス王太子は、青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「な、なぜだ……。このワインも、王室御用達のワイナリーで作らせた、最高傑作のはずだぞ……」
「殿下、ご報告申し上げます」
醸造組合の代表が、憔悴しきった様子で進み出た。
「今年の葡萄は……、全滅です。糖度が全く上がらず、酵母が活動する前に、土壌に潜んでいた酢酸菌が異常繁殖しました。ワインになる前に、全て酢になってしまったのです」
「酢酸菌だと? なぜそんなものが!」
「セレナ様がいらっしゃった頃は、土中の微生物バランスを顕微鏡でチェックし、拮抗作用のある有用菌を撒いて抑制していました。しかし、彼女がいなくなってからは『自然のままが一番』というリリィ様の指示で放置され……、結果、悪い菌だけが勝ってしまったのです」
「また……、またセレナか」
ヘリオスは拳を握りしめた。
ワインだけではない。
会場のご婦人方からは、別の悲鳴が上がっていた。
「イヤだわ、私の香水……、もう売っていないの?」
「香水ギルドが生産停止したそうですわ。原料の花が咲かなくなったとか」
貴婦人たちの怒りの矛先は、王太子の隣で縮こまっているリリィに向けられた。
「リリィ様。貴女がセレナ嬢の代わりなのでしょう? 何とかしてくださらない?」
「お花とお話ができるのでしたっけ? なら、咲くように命じてくださいな」
「それとも、貴女ができるのは、人様の婚約者を奪うことだけなのかしら?」
口元を隠した冷徹な皮肉の集中砲火。
リリィは「ひっ……、ごめんなさい、私、わかんない……」と涙目で後ずさるが、もはや誰も「可哀想」とは言ってくれない。
彼女の可愛らしさは、経済的損失という現実の前では無価値だった。
そこへ、止めの一撃となる報告が入る。
「殿下! たった今、隣国のヴォルガード辺境伯領から、今年の新酒ワインが届きました!」
「……ヴォルガードだと? あんな荒れ地のワインなど、泥水のような味だろう」
ヘリオスは吐き捨てるように言ったが、側近が恐る恐る栓を抜くと、会場に芳醇でフルーティーな香りが爆発的に広がった。
「なっ……!?」
「素晴らしい香りだ! まるで宝石のような……!」
「酸味と甘味のバランスが完璧だわ!」
貴族たちが目の色を変えて群がる。
そのボトルには、『監修:セレナ・アグリエル』のラベルが輝いていた。
片や酢、片や神の雫。
その差が管理者の能力にあることは、誰の目にも明らかだった。
「おのれ……、おのれ、セレナァァァッ!!」
ヘリオスはプライドを粉々に砕かれ、絶叫した。
しかし、彼の思考回路は相変わらず斜め上だった。
「あいつは、王家の秘伝である農業知識を盗んで辺境に持ち出したのだ! だからヴォルガードだけが栄えている! これは国家反逆罪だ!」
「そ、そうですわ殿下! 私が失敗したのは、セレナ様が意地悪をして、大事なメモを隠して持っていったからです! 泥棒です!」
リリィも便乗して叫ぶ。
自分たちの無能さを認めるより、他者を悪者にする方が精神的に楽だからだ。
「行くぞ、リリィ。北へ向かう」
ヘリオスは血走った目で宣言した。
「セレナを連れ戻す。いや、捕縛する! 彼女の知識は僕のものだ。辺境の野蛮人などに渡してなるものか!」
王太子は近衛騎士団を招集し、強引に出発の準備を始めた。
それが、虎の尾を踏む行為であるとも知らずに……。
*
ヴォルガード領。
アレクシス様が、王都の密偵から届いた『王太子出立』の報告書を握りつぶしていた。
「……来るか。バカな連中だ」
彼の手の中で、紙屑が粉々になる。
その声音は地を這うように低く、部屋の温度が数度下がったような殺気を帯びている。
「俺の領地で、セレナに指一本でも触れられると思っているのか?」
「閣下、顔が怖いです。獣より殺気立っていますよ」
私はそう言いながら、内心では溜息をついた。
わざわざ辺境までご足労とは。
馬の飼料代の無駄遣いである。
「彼らは、私を連れ戻せば全て元通りになるとでも思っているのでしょう。土壌環境が崩壊するのに半年かかったなら、再生には三年はかかります。魔法のように一瞬で治ると思っている時点で、学習能力が欠如しています」
「議論の余地なし、か。……セレナ、お前はどうしたい?」
アレクシス様が私を真っ直ぐに見る。
守ってやるという意思と、お前の意思を尊重するという信頼が入り混じった瞳だ。
私は眼鏡を指で押し上げ、ニヤリと笑った。
「せっかくのお客様です。現実を突きつけて差し上げましょう。……私が撒いた種が、彼らの中でどう育ったのか。最後の収穫作業です」
「……ククッ、いい性格だ。惚れ直したぞ」
アレクシス様は獰猛に笑い、腰の剣を撫でた。
「よし。総員、迎撃準備だ!」
私たちは立ち上がった。
王都の崩壊と、辺境の繁栄。
そのコントラストを決定づける、最後の対決が迫っていた。
暖炉の火のせいではない。
机の上に山積みになった、大量の手紙のせいだ。
「……おい、セレナ。また増えたぞ」
アレクシス様が、呆れ顔で新たな手紙の束をドサリと置く。
その全てに、大陸全土の有名な学者や、大商会の紋章が押されている。
「モテモテだな。王都の貴族連中より、よほど熱烈だ」
「からかわないでください、閣下。これは恋文ではなく嘆願書です」
私はペーパーナイフで封を切り、中身を確認した。
『拝啓、ヴォルガードの賢者様。貴殿が執筆されたという「土壌改良マニュアル・改訂版』を拝読し、感涙いたしました。つきましては、我が領地の塩害対策についてご教示願いたく――』
差出人は、王立アカデミーの権威ある農学博士だ。
かつて私の論文を「女の妄想」と笑った老人の一人である。
「……商人の手によって私のマニュアルが広まり、彼らの目に留まったようですね。王都では見向きもされなかった知識が、今や最先端の秘儀扱いとは。皮肉なものです」
「お前の知識が本物だったという証明だ。……鼻が高いな」
アレクシス様が、自分のことのように誇らしげに胸を張る。
私のマニュアルは、今や大陸中の農業関係者のバイブルとなりつつあった。
だが、光が強ければ影も濃くなる。
外部からの評価が高まるにつれ、王都の闇はより深くなっていた。
*
視点は王都へ。
かつて栄華を極めた夜会は、今やお通夜のような雰囲気に包まれていた。
「……こ、これは……」
グラスを口にした大貴族が、顔を顰めて固まる。
手元にあるのは、この国が誇る最高級ヴィンテージワイン……、のはずだった。
「酸っぱい! なんだこれは、酢じゃないか!」
「腐っているぞ! 毒でも盛ったのか!」
貴族たちが次々とグラスをテーブルに叩きつける。
給仕たちが震え上がる中、主催者であるヘリオス王太子は、青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「な、なぜだ……。このワインも、王室御用達のワイナリーで作らせた、最高傑作のはずだぞ……」
「殿下、ご報告申し上げます」
醸造組合の代表が、憔悴しきった様子で進み出た。
「今年の葡萄は……、全滅です。糖度が全く上がらず、酵母が活動する前に、土壌に潜んでいた酢酸菌が異常繁殖しました。ワインになる前に、全て酢になってしまったのです」
「酢酸菌だと? なぜそんなものが!」
「セレナ様がいらっしゃった頃は、土中の微生物バランスを顕微鏡でチェックし、拮抗作用のある有用菌を撒いて抑制していました。しかし、彼女がいなくなってからは『自然のままが一番』というリリィ様の指示で放置され……、結果、悪い菌だけが勝ってしまったのです」
「また……、またセレナか」
ヘリオスは拳を握りしめた。
ワインだけではない。
会場のご婦人方からは、別の悲鳴が上がっていた。
「イヤだわ、私の香水……、もう売っていないの?」
「香水ギルドが生産停止したそうですわ。原料の花が咲かなくなったとか」
貴婦人たちの怒りの矛先は、王太子の隣で縮こまっているリリィに向けられた。
「リリィ様。貴女がセレナ嬢の代わりなのでしょう? 何とかしてくださらない?」
「お花とお話ができるのでしたっけ? なら、咲くように命じてくださいな」
「それとも、貴女ができるのは、人様の婚約者を奪うことだけなのかしら?」
口元を隠した冷徹な皮肉の集中砲火。
リリィは「ひっ……、ごめんなさい、私、わかんない……」と涙目で後ずさるが、もはや誰も「可哀想」とは言ってくれない。
彼女の可愛らしさは、経済的損失という現実の前では無価値だった。
そこへ、止めの一撃となる報告が入る。
「殿下! たった今、隣国のヴォルガード辺境伯領から、今年の新酒ワインが届きました!」
「……ヴォルガードだと? あんな荒れ地のワインなど、泥水のような味だろう」
ヘリオスは吐き捨てるように言ったが、側近が恐る恐る栓を抜くと、会場に芳醇でフルーティーな香りが爆発的に広がった。
「なっ……!?」
「素晴らしい香りだ! まるで宝石のような……!」
「酸味と甘味のバランスが完璧だわ!」
貴族たちが目の色を変えて群がる。
そのボトルには、『監修:セレナ・アグリエル』のラベルが輝いていた。
片や酢、片や神の雫。
その差が管理者の能力にあることは、誰の目にも明らかだった。
「おのれ……、おのれ、セレナァァァッ!!」
ヘリオスはプライドを粉々に砕かれ、絶叫した。
しかし、彼の思考回路は相変わらず斜め上だった。
「あいつは、王家の秘伝である農業知識を盗んで辺境に持ち出したのだ! だからヴォルガードだけが栄えている! これは国家反逆罪だ!」
「そ、そうですわ殿下! 私が失敗したのは、セレナ様が意地悪をして、大事なメモを隠して持っていったからです! 泥棒です!」
リリィも便乗して叫ぶ。
自分たちの無能さを認めるより、他者を悪者にする方が精神的に楽だからだ。
「行くぞ、リリィ。北へ向かう」
ヘリオスは血走った目で宣言した。
「セレナを連れ戻す。いや、捕縛する! 彼女の知識は僕のものだ。辺境の野蛮人などに渡してなるものか!」
王太子は近衛騎士団を招集し、強引に出発の準備を始めた。
それが、虎の尾を踏む行為であるとも知らずに……。
*
ヴォルガード領。
アレクシス様が、王都の密偵から届いた『王太子出立』の報告書を握りつぶしていた。
「……来るか。バカな連中だ」
彼の手の中で、紙屑が粉々になる。
その声音は地を這うように低く、部屋の温度が数度下がったような殺気を帯びている。
「俺の領地で、セレナに指一本でも触れられると思っているのか?」
「閣下、顔が怖いです。獣より殺気立っていますよ」
私はそう言いながら、内心では溜息をついた。
わざわざ辺境までご足労とは。
馬の飼料代の無駄遣いである。
「彼らは、私を連れ戻せば全て元通りになるとでも思っているのでしょう。土壌環境が崩壊するのに半年かかったなら、再生には三年はかかります。魔法のように一瞬で治ると思っている時点で、学習能力が欠如しています」
「議論の余地なし、か。……セレナ、お前はどうしたい?」
アレクシス様が私を真っ直ぐに見る。
守ってやるという意思と、お前の意思を尊重するという信頼が入り混じった瞳だ。
私は眼鏡を指で押し上げ、ニヤリと笑った。
「せっかくのお客様です。現実を突きつけて差し上げましょう。……私が撒いた種が、彼らの中でどう育ったのか。最後の収穫作業です」
「……ククッ、いい性格だ。惚れ直したぞ」
アレクシス様は獰猛に笑い、腰の剣を撫でた。
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