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第8話:妻の決断
「……些細なプライド、でございますか」
「そうだ。君はいつもそうだ。形だの、秩序だの、そんなことばかり。もっと柔軟になれないのか?」
ヴィクトリアの中で、何かが音を立てて崩れ落ちるのと同時に、別の何かが強固に組み上がっていくのを感じた。
それは諦めという名の、分厚い壁だった。
ギルバートには分からない。
あの席が、単なる椅子ではなく、ヴィクトリアがこの家の運営責任者として背負ってきた重圧の象徴であることを。
あのカップが、実家を離れ、借金まみれの家に嫁いできた孤独な夜を慰めてくれた、唯一の友であることを。
説明しても無駄だ。
可哀想なシルヴィアの前では、ヴィクトリアの苦労など、強者の戯言にしか聞こえないのだから。
ヴィクトリアは、ふわりと微笑んだ。
それは、完璧に計算された、貴族の仮面だった。
「……おっしゃる通りですわ、ギルバート様」
彼女はマーサに目配せをし、下がるように指示した。
そして、自らシルヴィアに近づき、優しく背中に手を添えた。
「私が狭量でしたわ、シルヴィア様。どうぞ、その席をお使いください。私はゲスト用の席で構いませんので」
「え……、で、でも……」
「構いませんのよ。たかが椅子、ですものね」
ヴィクトリアは、ギルバートの言葉をそのまま返した。
皮肉としてではなく、心からの同意を装って。
そう、たかが椅子だ。
もう、この家にヴィクトリアの座るべき場所などないのかもしれないのだから。
「さあ、冷めないうちにいただきましょう。マーサ、新しいカップを持ってきて」
ヴィクトリアは、自分が座るはずだった席にシルヴィアを座らせ、自分は客人用の席――夫から最も遠い席――に腰を下ろした。
「ありがとう、ヴィクトリア! やっぱり君は話が分かる!」
ギルバートは安堵し、また無邪気な笑顔に戻った。
シルヴィアも、涙目のまま「ありがとうございます……」と小さく笑った。
食事が再開される。
ギルバートはシルヴィアに「ジャムはいるかい?」「この卵料理は絶品だよ」と甲斐甲斐しく世話を焼いている。
その光景は、まるで平和な家庭の食卓だ。
ヴィクトリアという異物を除いては。
ヴィクトリアは黙々とパンを口に運んだ。
味はしなかった。
目の前で繰り広げられるのは、無自覚な悪意と、無邪気な毒だ。
悪気はないという免罪符を掲げ、彼らはヴィクトリアの聖域を少しずつ、だが確実に浸食していく。
(……甘かったわ)
ヴィクトリアは、紅茶を飲み干した。
これは一時的な嵐ではない。
屋敷の土台を腐らせる、白蟻のようなものだ。
彼女の視界の端で、シルヴィアがヴィクトリアのカップに口をつけるのが見えた。
そのカップの縁についた口紅の跡を見た瞬間、ヴィクトリアは心の中で静かに決めた。
あのカップは、もう捨てよう。
二度と使うことはない。
「ごちそうさまでした。……仕事がありますので」
ヴィクトリアは食事が終わるのを待たずに席を立った。
夫は「ああ、頑張って」と、手も止めずに言っただけだった。
扉を閉めた瞬間、ヴィクトリアの顔から表情が消え失せた。
廊下に控えていたマーサが、悔しそうに涙を溜めて頭を下げる。
「奥様……、申し訳ございません。私が余計なことを……」
「いいえ、マーサ。貴女は正しいわ」
ヴィクトリアは歩き出しながら、冷徹な声で告げた。
「でも、これからは何も言わなくていいわ。彼女の好きなようにさせなさい」
「……え?」
「あの人たちが正しいと思う世界を、存分に味あわせてあげましょう。……それがどういう結果になるのか、身をもって知るまで」
ヴィクトリアの足音だけが、静かな廊下に響いた。
「そうだ。君はいつもそうだ。形だの、秩序だの、そんなことばかり。もっと柔軟になれないのか?」
ヴィクトリアの中で、何かが音を立てて崩れ落ちるのと同時に、別の何かが強固に組み上がっていくのを感じた。
それは諦めという名の、分厚い壁だった。
ギルバートには分からない。
あの席が、単なる椅子ではなく、ヴィクトリアがこの家の運営責任者として背負ってきた重圧の象徴であることを。
あのカップが、実家を離れ、借金まみれの家に嫁いできた孤独な夜を慰めてくれた、唯一の友であることを。
説明しても無駄だ。
可哀想なシルヴィアの前では、ヴィクトリアの苦労など、強者の戯言にしか聞こえないのだから。
ヴィクトリアは、ふわりと微笑んだ。
それは、完璧に計算された、貴族の仮面だった。
「……おっしゃる通りですわ、ギルバート様」
彼女はマーサに目配せをし、下がるように指示した。
そして、自らシルヴィアに近づき、優しく背中に手を添えた。
「私が狭量でしたわ、シルヴィア様。どうぞ、その席をお使いください。私はゲスト用の席で構いませんので」
「え……、で、でも……」
「構いませんのよ。たかが椅子、ですものね」
ヴィクトリアは、ギルバートの言葉をそのまま返した。
皮肉としてではなく、心からの同意を装って。
そう、たかが椅子だ。
もう、この家にヴィクトリアの座るべき場所などないのかもしれないのだから。
「さあ、冷めないうちにいただきましょう。マーサ、新しいカップを持ってきて」
ヴィクトリアは、自分が座るはずだった席にシルヴィアを座らせ、自分は客人用の席――夫から最も遠い席――に腰を下ろした。
「ありがとう、ヴィクトリア! やっぱり君は話が分かる!」
ギルバートは安堵し、また無邪気な笑顔に戻った。
シルヴィアも、涙目のまま「ありがとうございます……」と小さく笑った。
食事が再開される。
ギルバートはシルヴィアに「ジャムはいるかい?」「この卵料理は絶品だよ」と甲斐甲斐しく世話を焼いている。
その光景は、まるで平和な家庭の食卓だ。
ヴィクトリアという異物を除いては。
ヴィクトリアは黙々とパンを口に運んだ。
味はしなかった。
目の前で繰り広げられるのは、無自覚な悪意と、無邪気な毒だ。
悪気はないという免罪符を掲げ、彼らはヴィクトリアの聖域を少しずつ、だが確実に浸食していく。
(……甘かったわ)
ヴィクトリアは、紅茶を飲み干した。
これは一時的な嵐ではない。
屋敷の土台を腐らせる、白蟻のようなものだ。
彼女の視界の端で、シルヴィアがヴィクトリアのカップに口をつけるのが見えた。
そのカップの縁についた口紅の跡を見た瞬間、ヴィクトリアは心の中で静かに決めた。
あのカップは、もう捨てよう。
二度と使うことはない。
「ごちそうさまでした。……仕事がありますので」
ヴィクトリアは食事が終わるのを待たずに席を立った。
夫は「ああ、頑張って」と、手も止めずに言っただけだった。
扉を閉めた瞬間、ヴィクトリアの顔から表情が消え失せた。
廊下に控えていたマーサが、悔しそうに涙を溜めて頭を下げる。
「奥様……、申し訳ございません。私が余計なことを……」
「いいえ、マーサ。貴女は正しいわ」
ヴィクトリアは歩き出しながら、冷徹な声で告げた。
「でも、これからは何も言わなくていいわ。彼女の好きなようにさせなさい」
「……え?」
「あの人たちが正しいと思う世界を、存分に味あわせてあげましょう。……それがどういう結果になるのか、身をもって知るまで」
ヴィクトリアの足音だけが、静かな廊下に響いた。
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