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第13話:選ばれなかった妻
その夜、アッシュフォード邸の玄関ホールには、冷ややかな緊張が張り詰めていた。
ヴィクトリアは、夜空を映したような濃紺のベルベットのドレスに身を包んでいた。
首元にはスターリング家から譲り受けた銀細工のチョーカーが光り、その立ち姿は一本の剣のように鋭く、美しかった。
今日は鉱山組合が主催する年次晩餐会。
アッシュフォード家にとっては、先日契約した新規取引先や、銀行の頭取たちと顔を合わせる極めて重要な場である。
馬車はすでに待機している。
だが、夫のギルバートが降りてこない。
ヴィクトリアが懐中時計を確認し、眉をひそめたその時だった。
二階から、女性の悲鳴のような声と、バタバタという足音が響いてきた。
「嫌ぁっ! 暗い、怖い……!」
「大丈夫だ、シルヴィア! 落ち着いて!」
ギルバートの声だ。
ヴィクトリアは静かに階段を見上げた。
正装したギルバートが、震えるシルヴィアの肩を抱きながら踊り場に現れた。
外では遠雷が鳴り響いている。
今日の天気は下り坂で、時折、窓ガラスがガタガタと揺れた。
「……ギルバート様。出発のお時間です」
ヴィクトリアは冷静に声をかけた。
ギルバートは焦燥しきった顔でヴィクトリアを見下ろし、信じられないことを口にした。
「ヴィクトリア、すまない。僕は行けない」
「……はい?」
「見てくれ、この雷だ! シルヴィアがパニックを起こしている。彼女を置いていくなんてできない!」
シルヴィアは両手で耳を塞ぎ、ギルバートの燕尾服にしがみついていた。
「一人にしないで……。お願い、ギルバート様……」
ヴィクトリアはゆっくりと息を吐き出した。
雷が苦手なのは分かった。
だが、屋敷には使用人が何人もいる。
メイド長もいる。
大の男がつきっきりでなければならない理由にはならない。
「ギルバート様。今夜の晩餐会は、我が家の事業拡大にとって不可欠な場です。頭取もいらっしゃいます。当主である貴方が欠席すれば、どれほどの信用を失うか――」
「信用、信用、またそれか!」
ギルバートが苛立ったように叫んだ。
「君はいつも体裁ばかり気にする! 目の前で苦しんでいる人間より、銀行の頭取の方が大事だと言うのか!?」
「ええ。こと、アッシュフォード家の当主としては、そうでなければなりません」
ヴィクトリアは即答した。
貴族の義務とはそういうものだ。
個人の感情よりも、家と領民を背負う責任が優先される。
だが、ギルバートの顔には軽蔑の色が浮かんだ。
「君には失望したよ、ヴィクトリア。そんなに冷たい人間だとは思わなかった」
「……」
「僕は残る。君一人で行ってくれ。君なら上手くやれるだろう? いつもみたいに、完璧な笑顔で嘘をついて、取り繕えばいい」
吐き捨てるように言い放ち、ギルバートはシルヴィアを抱きかかえて部屋へと戻っていった。
「ありがとう、ギルバート様……」というシルヴィアの甘い声が、階段の上に消えていく。
ヴィクトリアは一人、玄関ホールに取り残された。
使用人たちが気まずそうに目を伏せている。
「……奥様」
「馬車を出して」
ヴィクトリアの声は、氷のように冷徹だった。
彼女は背筋を伸ばし、一度も振り返ることなく馬車へと乗り込んだ。
晩餐会の会場は、煌びやかなシャンデリアの光と、着飾った貴族たちの喧騒に満ちていた。
ヴィクトリアが会場に入ると、数人の紳士が近づいてきた。
「おや、アッシュフォード伯爵夫人。今夜はお一人かな?」
「ご主人はいかがされました?」
当然の質問だ。夫婦同伴が基本のこの場で、妻だけの出席は不自然極まりない。
ヴィクトリアは扇子を広げ、口元を優雅に隠して微笑んだ。
「申し訳ございません。夫は急な発熱でして。皆様にお会いできるのを楽しみにしていたのですが、感染症の疑いもありましたので、大事をとらせましたの」
嘘だ。
彼は今頃、健康そのものの体で、元恋人の頭を撫でている。
だが、その真実を口にすれば、アッシュフォード家の恥となる。
ヴィクトリアは献身的な妻の仮面を被り、夫の不始末を完璧にカバーした。
「それはお気の毒に。どうぞお大事に」
「ですが、夫人は相変わらずお美しい。今期の鉱山業績も素晴らしいと伺っておりますぞ」
ヴィクトリアは社交の波に一人で立ち向かった。
ある時は融資担当者に笑顔で挨拶し、ある時は資材業者と鋭い価格交渉を行い、またある時はライバル企業の嫌味を柳のように受け流した。
「……ええ、次回の納入については、ぜひ書面で」
「主人がおりましたら、きっと同じことを申しましたでしょう」
グラスを片手に、絶え間なく言葉を紡ぐ。
足はヒールで痛み、喉は渇き、作り笑いで頬が引きつりそうだった。
本来ならば、隣に立つ夫が盾となり、彼女を支えるべき場面だ。
だが、彼女の隣には誰もいない。
あるのは、冷たい空気だけだった。
ヴィクトリアは、夜空を映したような濃紺のベルベットのドレスに身を包んでいた。
首元にはスターリング家から譲り受けた銀細工のチョーカーが光り、その立ち姿は一本の剣のように鋭く、美しかった。
今日は鉱山組合が主催する年次晩餐会。
アッシュフォード家にとっては、先日契約した新規取引先や、銀行の頭取たちと顔を合わせる極めて重要な場である。
馬車はすでに待機している。
だが、夫のギルバートが降りてこない。
ヴィクトリアが懐中時計を確認し、眉をひそめたその時だった。
二階から、女性の悲鳴のような声と、バタバタという足音が響いてきた。
「嫌ぁっ! 暗い、怖い……!」
「大丈夫だ、シルヴィア! 落ち着いて!」
ギルバートの声だ。
ヴィクトリアは静かに階段を見上げた。
正装したギルバートが、震えるシルヴィアの肩を抱きながら踊り場に現れた。
外では遠雷が鳴り響いている。
今日の天気は下り坂で、時折、窓ガラスがガタガタと揺れた。
「……ギルバート様。出発のお時間です」
ヴィクトリアは冷静に声をかけた。
ギルバートは焦燥しきった顔でヴィクトリアを見下ろし、信じられないことを口にした。
「ヴィクトリア、すまない。僕は行けない」
「……はい?」
「見てくれ、この雷だ! シルヴィアがパニックを起こしている。彼女を置いていくなんてできない!」
シルヴィアは両手で耳を塞ぎ、ギルバートの燕尾服にしがみついていた。
「一人にしないで……。お願い、ギルバート様……」
ヴィクトリアはゆっくりと息を吐き出した。
雷が苦手なのは分かった。
だが、屋敷には使用人が何人もいる。
メイド長もいる。
大の男がつきっきりでなければならない理由にはならない。
「ギルバート様。今夜の晩餐会は、我が家の事業拡大にとって不可欠な場です。頭取もいらっしゃいます。当主である貴方が欠席すれば、どれほどの信用を失うか――」
「信用、信用、またそれか!」
ギルバートが苛立ったように叫んだ。
「君はいつも体裁ばかり気にする! 目の前で苦しんでいる人間より、銀行の頭取の方が大事だと言うのか!?」
「ええ。こと、アッシュフォード家の当主としては、そうでなければなりません」
ヴィクトリアは即答した。
貴族の義務とはそういうものだ。
個人の感情よりも、家と領民を背負う責任が優先される。
だが、ギルバートの顔には軽蔑の色が浮かんだ。
「君には失望したよ、ヴィクトリア。そんなに冷たい人間だとは思わなかった」
「……」
「僕は残る。君一人で行ってくれ。君なら上手くやれるだろう? いつもみたいに、完璧な笑顔で嘘をついて、取り繕えばいい」
吐き捨てるように言い放ち、ギルバートはシルヴィアを抱きかかえて部屋へと戻っていった。
「ありがとう、ギルバート様……」というシルヴィアの甘い声が、階段の上に消えていく。
ヴィクトリアは一人、玄関ホールに取り残された。
使用人たちが気まずそうに目を伏せている。
「……奥様」
「馬車を出して」
ヴィクトリアの声は、氷のように冷徹だった。
彼女は背筋を伸ばし、一度も振り返ることなく馬車へと乗り込んだ。
晩餐会の会場は、煌びやかなシャンデリアの光と、着飾った貴族たちの喧騒に満ちていた。
ヴィクトリアが会場に入ると、数人の紳士が近づいてきた。
「おや、アッシュフォード伯爵夫人。今夜はお一人かな?」
「ご主人はいかがされました?」
当然の質問だ。夫婦同伴が基本のこの場で、妻だけの出席は不自然極まりない。
ヴィクトリアは扇子を広げ、口元を優雅に隠して微笑んだ。
「申し訳ございません。夫は急な発熱でして。皆様にお会いできるのを楽しみにしていたのですが、感染症の疑いもありましたので、大事をとらせましたの」
嘘だ。
彼は今頃、健康そのものの体で、元恋人の頭を撫でている。
だが、その真実を口にすれば、アッシュフォード家の恥となる。
ヴィクトリアは献身的な妻の仮面を被り、夫の不始末を完璧にカバーした。
「それはお気の毒に。どうぞお大事に」
「ですが、夫人は相変わらずお美しい。今期の鉱山業績も素晴らしいと伺っておりますぞ」
ヴィクトリアは社交の波に一人で立ち向かった。
ある時は融資担当者に笑顔で挨拶し、ある時は資材業者と鋭い価格交渉を行い、またある時はライバル企業の嫌味を柳のように受け流した。
「……ええ、次回の納入については、ぜひ書面で」
「主人がおりましたら、きっと同じことを申しましたでしょう」
グラスを片手に、絶え間なく言葉を紡ぐ。
足はヒールで痛み、喉は渇き、作り笑いで頬が引きつりそうだった。
本来ならば、隣に立つ夫が盾となり、彼女を支えるべき場面だ。
だが、彼女の隣には誰もいない。
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