「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上

文字の大きさ
13 / 37

第13話:選ばれなかった妻

 その夜、アッシュフォード邸の玄関ホールには、冷ややかな緊張が張り詰めていた。

 ヴィクトリアは、夜空を映したような濃紺のベルベットのドレスに身を包んでいた。
 
 首元にはスターリング家から譲り受けた銀細工のチョーカーが光り、その立ち姿は一本の剣のように鋭く、美しかった。

 今日は鉱山組合が主催する年次晩餐会。

 アッシュフォード家にとっては、先日契約した新規取引先や、銀行の頭取たちと顔を合わせる極めて重要な場である。

 馬車はすでに待機している。
 だが、夫のギルバートが降りてこない。

 ヴィクトリアが懐中時計を確認し、眉をひそめたその時だった。
 二階から、女性の悲鳴のような声と、バタバタという足音が響いてきた。

「嫌ぁっ! 暗い、怖い……!」

「大丈夫だ、シルヴィア! 落ち着いて!」

 ギルバートの声だ。
 ヴィクトリアは静かに階段を見上げた。

 正装したギルバートが、震えるシルヴィアの肩を抱きながら踊り場に現れた。

 外では遠雷が鳴り響いている。
 今日の天気は下り坂で、時折、窓ガラスがガタガタと揺れた。

「……ギルバート様。出発のお時間です」

 ヴィクトリアは冷静に声をかけた。
 ギルバートは焦燥しきった顔でヴィクトリアを見下ろし、信じられないことを口にした。

「ヴィクトリア、すまない。僕は行けない」

「……はい?」

「見てくれ、この雷だ! シルヴィアがパニックを起こしている。彼女を置いていくなんてできない!」

 シルヴィアは両手で耳を塞ぎ、ギルバートの燕尾服にしがみついていた。

「一人にしないで……。お願い、ギルバート様……」

 ヴィクトリアはゆっくりと息を吐き出した。
 雷が苦手なのは分かった。

 だが、屋敷には使用人が何人もいる。
 メイド長もいる。

 大の男がつきっきりでなければならない理由にはならない。

「ギルバート様。今夜の晩餐会は、我が家の事業拡大にとって不可欠な場です。頭取もいらっしゃいます。当主である貴方が欠席すれば、どれほどの信用を失うか――」

「信用、信用、またそれか!」

 ギルバートが苛立ったように叫んだ。

「君はいつも体裁ばかり気にする! 目の前で苦しんでいる人間より、銀行の頭取の方が大事だと言うのか!?」

「ええ。こと、アッシュフォード家の当主としては、そうでなければなりません」

 ヴィクトリアは即答した。
 貴族の義務とはそういうものだ。

 個人の感情よりも、家と領民を背負う責任が優先される。
 だが、ギルバートの顔には軽蔑の色が浮かんだ。

「君には失望したよ、ヴィクトリア。そんなに冷たい人間だとは思わなかった」

「……」

「僕は残る。君一人で行ってくれ。君なら上手くやれるだろう? いつもみたいに、完璧な笑顔で嘘をついて、取り繕えばいい」

 吐き捨てるように言い放ち、ギルバートはシルヴィアを抱きかかえて部屋へと戻っていった。

「ありがとう、ギルバート様……」というシルヴィアの甘い声が、階段の上に消えていく。

 ヴィクトリアは一人、玄関ホールに取り残された。
 使用人たちが気まずそうに目を伏せている。

「……奥様」

「馬車を出して」

 ヴィクトリアの声は、氷のように冷徹だった。
 彼女は背筋を伸ばし、一度も振り返ることなく馬車へと乗り込んだ。

 晩餐会の会場は、煌びやかなシャンデリアの光と、着飾った貴族たちの喧騒に満ちていた。
 ヴィクトリアが会場に入ると、数人の紳士が近づいてきた。

「おや、アッシュフォード伯爵夫人。今夜はお一人かな?」

「ご主人はいかがされました?」

 当然の質問だ。夫婦同伴が基本のこの場で、妻だけの出席は不自然極まりない。
 ヴィクトリアは扇子を広げ、口元を優雅に隠して微笑んだ。

「申し訳ございません。夫は急な発熱でして。皆様にお会いできるのを楽しみにしていたのですが、感染症の疑いもありましたので、大事をとらせましたの」

 嘘だ。
 彼は今頃、健康そのものの体で、元恋人の頭を撫でている。

 だが、その真実を口にすれば、アッシュフォード家の恥となる。
 ヴィクトリアは献身的な妻の仮面を被り、夫の不始末を完璧にカバーした。

「それはお気の毒に。どうぞお大事に」

「ですが、夫人は相変わらずお美しい。今期の鉱山業績も素晴らしいと伺っておりますぞ」

 ヴィクトリアは社交の波に一人で立ち向かった。

 ある時は融資担当者に笑顔で挨拶し、ある時は資材業者と鋭い価格交渉を行い、またある時はライバル企業の嫌味を柳のように受け流した。

「……ええ、次回の納入については、ぜひ書面で」

「主人がおりましたら、きっと同じことを申しましたでしょう」

 グラスを片手に、絶え間なく言葉を紡ぐ。
 足はヒールで痛み、喉は渇き、作り笑いで頬が引きつりそうだった。

 本来ならば、隣に立つ夫が盾となり、彼女を支えるべき場面だ。
 だが、彼女の隣には誰もいない。

 あるのは、冷たい空気だけだった。

あなたにおすすめの小説

婚約破棄された公爵令嬢は、もう助けません

エスビ
恋愛
「君との婚約は破棄する。――君は、もう必要ない」 王太子から一方的に突きつけられた婚約破棄。 その理由は、新たに寵愛する令嬢の存在と、「君は優秀すぎて扱いづらい」という身勝手な評価だった。 だが、公爵令嬢である彼女は泣かない。 怒りに任せて復讐もしない。 ただ静かに、こう告げる。 「承知しました。――もう、誰の答えも借りませんわ」 王国のために尽くし、判断を肩代わりし、失敗すら引き受けてきた日々。 だが婚約破棄を機に、彼女は“助けること”をやめる。 答えを与えない。 手を差し伸べない。 代わりに、考える機会と責任だけを返す。 戸惑い、転び、失敗しながらも、王国は少しずつ変わっていく。 依存をやめ、比較をやめ、他人の成功を羨まなくなったとき―― そこに生まれたのは、静かで確かな自立だった。 派手な断罪も、劇的な復讐もない。 けれどこれは、 「奪われたものを取り戻す物語」ではなく、 「もう取り戻す必要がなくなった物語」。 婚約破棄ざまぁの、その先へ。 知性と覚悟で未来を選び取る、静かな逆転譚。

壮大な未来を語っていたのに、私の夢のための資金を、初恋相手のサロンへの投資で溶かすクズでしたか。~最低夫を待ち受ける地獄のように残酷な現実~

水上
恋愛
没落寸前の伯爵家を、銀細工の腕一つで支える私の夫は、実務を一切せずに壮大な未来を語り、「君は視野が狭い」「君の泥臭い作業はコスパが悪い」と見下し、的外れな説教ばかり。  それでも、王都の一等地に自身のお店を持つという夢のために、数年をかけて資金を貯めていた。 しかし、ある日、夫が初恋相手の令嬢の怪しいサロンに、その資金を全額投資していたことが発覚する。 「女の小遣い稼ぎより、僕の先行投資の方が有意義だろう? ヒステリーを起こすなよ」 悪びれない夫を見た瞬間、彼に対する愛は完全に死んだ。 私は離縁状を叩きつけて独立し、職人として成功を手にする。 一方、うまい投資話で浮かれていたはずの夫は、少しずつ運命の歯車が狂い始め……。

《完結》氷の侯爵令息 あなたが子供はいらないと言ったから

ヴァンドール
恋愛
氷の侯爵令息と言われたアラン。彼は結婚相手の伯爵令嬢にとにかく冷たい態度で接する。 彼女は義姉イライザから夫が子供はいらないと言ったと聞き、衝撃を受けるが気持ちを切り替え生きていく。

愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました

由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。 尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。 けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。 そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。 再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。 一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。 “尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。 静かに離婚しただけなのに、 なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。

【完結】要らないと言っていたのに今更好きだったなんて言うんですか?

星野真弓
恋愛
 十五歳で第一王子のフロイデンと婚約した公爵令嬢のイルメラは、彼のためなら何でもするつもりで生活して来た。  だが三年が経った今では冷たい態度ばかり取るフロイデンに対する恋心はほとんど冷めてしまっていた。  そんなある日、フロイデンが「イルメラなんて要らない」と男友達と話しているところを目撃してしまい、彼女の中に残っていた恋心は消え失せ、とっとと別れることに決める。  しかし、どういうわけかフロイデンは慌てた様子で引き留め始めて――

「君は視野が狭い」と笑うモラハラ夫は、私の手柄を奪ってご満悦だったので捨てることにしました。~「君が必要だ」と泣きついてきても遅いです~

水上
恋愛
「君のアイデアという原石を、僕が磨いてあげた」 夫はいつも穏やかな笑顔で、私の血の滲むような努力と手柄を横取りする。 さらに「視野が狭い」とマウントを取られ、愛嬌だけの専属秘書である彼の幼馴染みからは「女を捨てて可哀想」と哀れまれる日々。 ある日、秘書のミスで莫大な損害が出たのに「君のマネジメント不足だ」と夫から理不尽に責任転嫁された瞬間、私の心は氷点下まで冷めきった。 離縁届を残して実家の商会に戻った私は、技術を活かしてブランドを立ち上げ、大成功を手にする。 一方、私の技術の結晶を「簡単な作業」と侮っていた夫の商会は、泥水のような粗悪品しか作れず崩壊していく。 今さら「君が必要だ」と泣きついてきても、もう遅いです。

「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして

東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。 破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。

【完結】五年苦しんだの、次は貴方の番です。~王太子妃は許す気はありません~

なか
恋愛
「フィリア、頼む」  私の名前を呼びながら、彼が両膝を地面に落とす。  真紅の髪に添えられた碧色の瞳が、乞うように私を見上げていた。  彼––エリクはハーヴィン王国の王太子であり、隣国のシルヴァン国の王女の私––フィリアは彼の元へ嫁いだ。  しかし嫁いだ先にて……私は『子が産めない』身である事を告げられる。  絶望の中でエリクは、唯一の手を差し伸べてくれた。  しかし待っていたのは苦しみ、耐え続けねばならぬ日々。 『子が産めない』私は、全ての苦痛を耐え続けた……全ては祖国の民のため。  しかし、ある事実を知ってその考えは変わる。  そして…… 「頼む。俺と離婚してほしい」  その言葉を、他でもないエリクから告げさせる事が叶った。  実り叶ったこの瞬間、頭を落として頼み込むエリクに、私は口元に微笑みを刻む。    これまで苦しんできた日々、約五年。  それがようやく報われる。  でもね、許す気はない。  さぁ、エリク。 『次は貴方の番です』    ◇◇◇◇  ざまぁを多めにしたお話。  強い女性が活躍する爽快さを目指しております。  読んでくださると嬉しいです!