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第14話:期待することをやめた妻
ふと、会場の隅で仲睦まじく談笑する夫婦の姿が目に入った。
夫が妻の腰に手を回し、妻が夫を見上げて信頼の眼差しを向けている。
かつて、ヴィクトリアもあれを夢見たことがあった。
ギルバートとなら、互いに支え合い、共に歩んでいけると。
(……馬鹿馬鹿しい)
ヴィクトリアはシャンパンを一気に煽り、その甘い幻想を喉の奥へと流し込んだ。
彼は選んだのだ。
この社交場での責任よりも、泣き真似をする女の機嫌を取ることを。
ヴィクトリアと共に戦うことよりも、彼女に全てを押し付けて、良い人でいることを。
「アッシュフォード夫人? 顔色が優れないようですが」
「いいえ、少し酔いが回ったようですわ。……お気になさらず」
ヴィクトリアは微笑み直し、再び戦場へと戻っていった。
彼女の心は、ドレスよりも冷たく硬化し始めていた。
日付が変わる頃、ヴィクトリアはようやく屋敷に戻った。
体は鉛のように重かったが、成果は上々だった。
新規の融資枠を確保し、老朽化したトロッコの入れ替え予算も承認させた。
すべて、彼女一人の手腕によるものだ。
玄関に入ると、屋敷は静まり返っていた。
執事がコートを受け取る際、申し訳なさそうに視線を逸らした。
その理由を、ヴィクトリアはすぐに理解した。
リビングの方から、パチパチという暖炉の音と、楽しげな話し声が聞こえてきたからだ。
「……本当? ギルバート様、すごぉい!」
「ははは、昔の話だよ。あの時は大変だったなぁ」
ヴィクトリアは音もなくリビングの扉に近づき、少しだけ開いた隙間から中を覗いた。
そこには、信じがたい光景があった。
暖炉の前で、ギルバートとシルヴィアが向かい合って座っていた。
テーブルの上には、ワインとチーズ、そして果物が並んでいる。
シルヴィアは雷への恐怖など微塵も感じさせない様子で、頬を赤らめて笑っていた。
ギルバートもリラックスしきって、グラスを揺らしている。
「やっぱり、ギルバート様と一緒にいると安心するわ。雷なんて、もう怖くないみたい」
「そうだろう? 僕がついていれば大丈夫だ」
「ふふ、優しいのね。……ヴィクトリア様は、お強いから。きっと一人でも平気よね」
「ああ。彼女は鉄のような女だからね。僕がいなくても、立派にやってのけるさ」
ギルバートは、褒め言葉のつもりで言ったのだろう。
だが、その言葉はヴィクトリアの胸を鋭利な刃物のように切り裂いた。
鉄のような女。
一人でも平気。
――違う。
平気なわけがない。
一人で数百人の視線に晒され、家の看板を背負い、侮られないように気を張り続けることが、どれほど孤独ですり減るものか。
貴方はそれを強さと呼んで、押し付けただけだ。
ヴィクトリアは、扉を開けて彼らを糾弾しようとした手を止めた。
怒鳴り込んでも、どうせギルバートは「疲れていた彼女を慰めていただけだ」「君は心が狭い」と言うだけだろう。
そして、そんな言い争いをする気力さえ、今のヴィクトリアには残っていなかった。
(……そう。貴方にとって私は、都合の良い鉄の盾でしかないのね)
ヴィクトリアは静かに扉を閉めた。
音一つ立てずに。
彼女の中で、ギルバートに対する夫としての認識が完全に消滅した。
彼はもうパートナーではない。
アッシュフォード家という組織における、ただの飾りであり、お荷物だ。
ヴィクトリアはドレスの裾を翻し、自室へと向かった。
階段を上る足取りは、不思議と軽かった。
期待することをやめた瞬間、人はこれほどまでに自由になれるのかと、冷たい驚きを感じながら。
「……おやすみなさいませ」
誰もいない廊下で、ヴィクトリアは小さく呟いた。
その夜、彼女は一度も涙を流すことなく、泥のように眠った。
翌朝からは、完璧なビジネスパートナーとしての顔だけを、彼らに見せることになるだろう。
夫が妻の腰に手を回し、妻が夫を見上げて信頼の眼差しを向けている。
かつて、ヴィクトリアもあれを夢見たことがあった。
ギルバートとなら、互いに支え合い、共に歩んでいけると。
(……馬鹿馬鹿しい)
ヴィクトリアはシャンパンを一気に煽り、その甘い幻想を喉の奥へと流し込んだ。
彼は選んだのだ。
この社交場での責任よりも、泣き真似をする女の機嫌を取ることを。
ヴィクトリアと共に戦うことよりも、彼女に全てを押し付けて、良い人でいることを。
「アッシュフォード夫人? 顔色が優れないようですが」
「いいえ、少し酔いが回ったようですわ。……お気になさらず」
ヴィクトリアは微笑み直し、再び戦場へと戻っていった。
彼女の心は、ドレスよりも冷たく硬化し始めていた。
日付が変わる頃、ヴィクトリアはようやく屋敷に戻った。
体は鉛のように重かったが、成果は上々だった。
新規の融資枠を確保し、老朽化したトロッコの入れ替え予算も承認させた。
すべて、彼女一人の手腕によるものだ。
玄関に入ると、屋敷は静まり返っていた。
執事がコートを受け取る際、申し訳なさそうに視線を逸らした。
その理由を、ヴィクトリアはすぐに理解した。
リビングの方から、パチパチという暖炉の音と、楽しげな話し声が聞こえてきたからだ。
「……本当? ギルバート様、すごぉい!」
「ははは、昔の話だよ。あの時は大変だったなぁ」
ヴィクトリアは音もなくリビングの扉に近づき、少しだけ開いた隙間から中を覗いた。
そこには、信じがたい光景があった。
暖炉の前で、ギルバートとシルヴィアが向かい合って座っていた。
テーブルの上には、ワインとチーズ、そして果物が並んでいる。
シルヴィアは雷への恐怖など微塵も感じさせない様子で、頬を赤らめて笑っていた。
ギルバートもリラックスしきって、グラスを揺らしている。
「やっぱり、ギルバート様と一緒にいると安心するわ。雷なんて、もう怖くないみたい」
「そうだろう? 僕がついていれば大丈夫だ」
「ふふ、優しいのね。……ヴィクトリア様は、お強いから。きっと一人でも平気よね」
「ああ。彼女は鉄のような女だからね。僕がいなくても、立派にやってのけるさ」
ギルバートは、褒め言葉のつもりで言ったのだろう。
だが、その言葉はヴィクトリアの胸を鋭利な刃物のように切り裂いた。
鉄のような女。
一人でも平気。
――違う。
平気なわけがない。
一人で数百人の視線に晒され、家の看板を背負い、侮られないように気を張り続けることが、どれほど孤独ですり減るものか。
貴方はそれを強さと呼んで、押し付けただけだ。
ヴィクトリアは、扉を開けて彼らを糾弾しようとした手を止めた。
怒鳴り込んでも、どうせギルバートは「疲れていた彼女を慰めていただけだ」「君は心が狭い」と言うだけだろう。
そして、そんな言い争いをする気力さえ、今のヴィクトリアには残っていなかった。
(……そう。貴方にとって私は、都合の良い鉄の盾でしかないのね)
ヴィクトリアは静かに扉を閉めた。
音一つ立てずに。
彼女の中で、ギルバートに対する夫としての認識が完全に消滅した。
彼はもうパートナーではない。
アッシュフォード家という組織における、ただの飾りであり、お荷物だ。
ヴィクトリアはドレスの裾を翻し、自室へと向かった。
階段を上る足取りは、不思議と軽かった。
期待することをやめた瞬間、人はこれほどまでに自由になれるのかと、冷たい驚きを感じながら。
「……おやすみなさいませ」
誰もいない廊下で、ヴィクトリアは小さく呟いた。
その夜、彼女は一度も涙を流すことなく、泥のように眠った。
翌朝からは、完璧なビジネスパートナーとしての顔だけを、彼らに見せることになるだろう。
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