「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上

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第15話:失われた妻の努力と苦労の結晶

 翌朝のアッシュフォード邸は、不気味なほど爽やかな日差しに包まれていた。
 ヴィクトリアはいつものように、朝食を済ませるとすぐに執務室へと向かった。

 昨晩の夜会での疲労は残っていたが、休むわけにはいかない。

 今日こそ開発中の新合金、アッシュフォード鋼の最終配合比率を確定させなければならないからだ。

 それは、従来の鉄よりも軽く、かつ錆びにくい画期的な素材だ。
 これが完成すれば、アッシュフォード家の鉱山事業は今後数十年、安泰となる。

 数ヶ月にわたる実験と失敗の繰り返し、膨大なデータの蓄積によって、ようやく正解が見え始めていた。

(あとは、昨日の実験データと照らし合わせるだけ……)

 ヴィクトリアは執務室の扉を開けた。
 そして、その場で凍りついた。

 部屋が、変わっていた。

 机の上に積み上げられていた書類の山がない。
 床に広げてあった図面がない。

 棚から溢れ出していた専門書の数々が、背表紙の色ごとに整然と並べ替えられている。

 まるで、ホテルの客室のように、生活感と仕事の匂いが完全に消し去られていた。

「あっ、おはようございます! ヴィクトリア様!」

 部屋の奥から、明るい声が飛んできた。
 シルヴィアだ。

 彼女は白いエプロンをつけ、手に羽箒を持っていた。
 額にうっすらと汗をかき、達成感に満ちた笑顔を向けてくる。

「見てください! お部屋、綺麗にしておきました!」

 ヴィクトリアの心臓が、早鐘を打ち始めた。
 嫌な予感が背筋を駆け上がる。

「……シルヴィア様。机の上にあった、赤い革紐で綴じた束は? それに、メモの山はどこですか?」

 ヴィクトリアの声は、自分でも驚くほど震えていた。
 シルヴィアは小首を傾げ、無邪気に答えた。

「ああ、あの汚い紙ですか? 散らかっていて可哀想だったので、全部片付けましたよ」

「片付けた、とは……、具体的にどこへ?」

「えっと、古新聞と一緒にまとめて、今朝の回収馬車に……」

 ヴィクトリアの視界がぐらりと揺れた。

 回収馬車。
 それは、屋敷から出たゴミを焼却場へと運ぶ定期便だ。

 今朝なら、もうとっくに屋敷を出発し、街の焼却炉で灰になっている頃だ。

「……嘘でしょう」

 ヴィクトリアは膝から力が抜けるのを感じ、近くの椅子に手をついた。

 あのメモには、炉の温度変化と炭素含有量の微細な相関データが記されていた。
 清書する前の、現場で走り書きした生のデータだ。

 あれがなければ、また一から――いや、数ヶ月前から実験をやり直さなければならない。

 季節が変われば湿度も変わる。
 全く同じ条件での再現は不可能に近い。

 数千枚の金貨に匹敵する価値が、たった今、掃除という名の善意によって灰にされたのだ。

「え? どうなさいました? 綺麗になって、スッキリしましたよね?」

 シルヴィアが褒めてほしそうに近づいてくる。

 彼女には理解できていないのだ。
 自分が何をしたのか。

 ヴィクトリアにとっての宝が、彼女にとってはただのゴミに見えた。
 その認識のズレが、取り返しのつかない破壊を生んだ。

 ヴィクトリアの体の中で、何かが限界を超えて軋んだ。

 それは、これまで理性の箍で抑え込んでいた、ドス黒い怒りだった。

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