「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上

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第17話:色を失った世界

 彼らにとってあのデータは、たかが紙切れなのだ。

 ヴィクトリアが半年間、寝食を忘れて鉱山に通い詰め、現場の職人たちと泥まみれになって採取したサンプル。

 数千回の計算、数百回の失敗の上に積み上げられた、アッシュフォード家を救うための唯一の解。
 そのすべてが、「たかが」の一言で否定された。

 悲しみすらも、凍りついて結晶化していく。
 まるで、真っ赤に焼けた鉄を、氷点下の水に一気に浸した時のように。

 急激な冷却は、鋼を硬くする。
 だが同時に、柔軟性を奪い、二度と元の形には戻らなくする。

 ヴィクトリアの心臓が、冷たい鋼鉄へと変質した瞬間だった。

「ヴィクトリア! 聞いているのか!?」

 ギルバートが、反応のないヴィクトリアに苛立って一歩詰め寄る。

「君は頭が良いかもしれないが、人として一番大切なものを欠いている! シルヴィアを見てみろ。彼女は君のために、良かれと思って掃除をしてくれたんだぞ? その優しさをゴミ扱いするなんて、君の心は石でできているのか!」

 石ではない。
 鉄だ。

 ヴィクトリアは、ぼんやりとそう思った。
 視界から、急速に色が失われていく。

 ギルバートの美しい栗色の髪も、シルヴィアの派手なピンク色のドレスも、全てが色あせたモノクロームの映像に見えた。

 彼らは人間ではない。
 ただの障害物だ。

 ヴィクトリアの人生における、不純物。

 ヴィクトリアは、ゆっくりと息を吐き出した。
 肺の中の空気が全て入れ替わる。

 そして、顔を上げた時――彼女の表情は、完璧に整えられていた。

 口角は正確に十五度上がり、眉は申し訳なさそうに八の字に下がり、瞳は潤んでいるように見せかけて、その奥は深海のように暗く静まり返っている。

 社交界で身につけた、貴族令嬢としての仮面だ。
 だが、これほど分厚く、精巧な仮面を被ったことは、今まで一度もなかった。

「……おっしゃる通りでございます、ギルバート様」

 ヴィクトリアの声は、鈴を転がすように澄んでいて、穏やかだった。
 先ほどまでの激情は嘘のように消え失せている。

 ギルバートが、虚を突かれたように目を瞬いた。

「え……?」

「私が間違っておりました。シルヴィア様の善意を理解せず、感情的になってしまったこと、深くお詫び申し上げます」

 ヴィクトリアは、優雅にカーテシーをした。

 その所作は、王族の前で行うそれのように完璧で、そして他人のように冷ややかだった。

「……そ、そうか。分かってくれればいいんだ」

 ギルバートは、ヴィクトリアの急激な変化に戸惑いながらも、自分の説得が通じたのだと解釈したようだった。

 彼の表情が緩み、満足げな色が広がる。

「君も疲れていたんだろう。大切な書類だったのは分かるが、また作ればいい。君の優秀な頭脳なら、造作もないことだろう?」

「はい、おっしゃる通りですわ」

 ヴィクトリアは肯定した。
 二度と作らないけれど。

(私の頭脳は、もう貴方のために使うことはないわ)

 ヴィクトリアはゆっくりと、シルヴィアの方へ向いた。
 シルヴィアは怯えた瞳でヴィクトリアを見ている。

 そんな彼女に、ヴィクトリアは言葉を紡ぎ始めた。

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