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第19話:穏やかな日常の裏側
翌朝、ヴィクトリアが目覚めたとき、世界は驚くほど静謐だった。
カーテンの隙間から差し込む光は、昨日までと同じはずだ。
けれど、彼女の網膜に映る景色は、まるで解像度が上がったかのように鮮明で、そして恐ろしく無機質だった。
胸の奥にあった重苦しい鉛のような塊――夫への期待、愛されたいという渇望、理解されない苦しみ――が、綺麗さっぱり消え失せている。
代わりにそこにあるのは、広大で冷たい、氷原のような空白だけだった。
「……おはようございます、マーサ」
ヴィクトリアは寝室に入ってきたマーサに声をかけた。
その声は、完璧に調律された楽器のように美しく、そして温度がなかった。
「お、おはようございます、奥様。……お顔色が、よろしいようですね」
マーサが恐る恐るヴィクトリアの顔を覗き込む。
昨日の修羅場を知る彼女は、主人が憔悴しているのではないかと心配していたのだ。
だが、ヴィクトリアは鏡の前で微笑んだ。
それは、社交界で見せる他人のための笑顔そのものだった。
「ええ、とても。憑き物が落ちたようですわ」
ヴィクトリアは淡い水色のドレスを選んだ。
レースやフリルの少ない、機能的で、どこか軍服を思わせるようなデザインだ。
髪をきつく結い上げ、最後に銀のヘアピンを挿す。
カチリ、という金属音が、彼女の決意のスイッチのように響いた。
食堂に向かう足取りに、もはや迷いはない。
今日から、彼女はギルバートの妻ではない。
アッシュフォード家の共同経営者という仮面を被った、ただの同居人だ。
食堂の扉を開ける。
そこには既に、ギルバートとシルヴィアが座っていた。
シルヴィアは今日もヴィクトリアの席に座り、ギルバートと楽しげに談笑している。
昨日までは胃が焼けるような光景だったが、今のヴィクトリアには、道端の石ころを見るのと変わらない感慨しかなかった。
「おはよう、ヴィクトリア! よく眠れたかい?」
ギルバートが明るく声をかけてきた。
彼は機嫌が良かった。
昨日、ヴィクトリアが反省し、従順な態度を見せたからだ。
彼の頭の中では、家庭の危機は去り、雨降って地固まる、という都合の良い物語が完成しているのだろう。
「おはようございます、アッシュフォード様。シルヴィア様」
ヴィクトリアは完璧なカーテシーをして、二人に挨拶をした。
ギルバートが、少しだけ怪訝な顔をする。
「……アッシュフォード様? どうしたんだい、そんな他人行儀な呼び方をして。ギルバートでいいじゃないか」
「いいえ。公私を混同して感情的になるのは私の悪い癖でしたから。これからは家長として、敬意を持って接することにいたしました」
ヴィクトリアは表情を崩さずに答えた。
嘘ではない。
ただし、その敬意の中身は、取引先の長に対する儀礼的なものであり、夫への親愛ではない。
「そ、そうか……? まあ、君がそうしたいなら構わないけど」
ギルバートはまんざらでもない様子で鼻を鳴らした。
妻が自分を立ててくれることに、男としての自尊心が満たされたのだ。
単純な男である。
「ヴィクトリア様、昨日はごめんなさい……。私、お掃除のつもりで……」
シルヴィアがおずおずと切り出してきた。
ヴィクトリアは彼女の方を向き、目尻を下げて優しく微笑んだ。
「謝る必要はありませんわ、シルヴィア様。貴女は何も悪くありません。私が狭量だっただけですもの」
「ほ、本当ですか……?」
「ええ。貴女のその……、無垢な感性は、とても貴重ですわ。どうぞそのままでいてください」
(そのまま、何も学ばず、何も気付かず、ただの無能なお人形のままでいてください)
心の中の補足を飲み込み、ヴィクトリアは席に着いた。
もちろん、客人用の席に。
食事が始まる。
以前なら、ヴィクトリアはギルバートの皿を見て、「お野菜も召し上がってください」と世話を焼いただろう。
あるいは、今日のスケジュールの確認をしていただろう。
だが、今のヴィクトリアは一言も発しない。
ただ黙々と、機械的に食事を口に運ぶだけだ。
その沈黙を、ギルバートは従順さと受け取ったようだ。
彼は上機嫌でシルヴィアに話しかけ続ける。
「今度、街に新しい劇場ができるんだ。シルヴィア、気晴らしに行こうか」
「わぁ、素敵! ……でも、ヴィクトリア様もご一緒に……」
「ヴィクトリアは忙しいからね。研究熱心な彼女の邪魔をしちゃいけないよ。ね、ヴィクトリア?」
ギルバートが同意を求めてくる。
ヴィクトリアはナプキンで口元を拭った。
もちろん、彼にかける言葉は決まっている。
ヴィクトリアは姿勢を正して、ギルバートを見据えた。
カーテンの隙間から差し込む光は、昨日までと同じはずだ。
けれど、彼女の網膜に映る景色は、まるで解像度が上がったかのように鮮明で、そして恐ろしく無機質だった。
胸の奥にあった重苦しい鉛のような塊――夫への期待、愛されたいという渇望、理解されない苦しみ――が、綺麗さっぱり消え失せている。
代わりにそこにあるのは、広大で冷たい、氷原のような空白だけだった。
「……おはようございます、マーサ」
ヴィクトリアは寝室に入ってきたマーサに声をかけた。
その声は、完璧に調律された楽器のように美しく、そして温度がなかった。
「お、おはようございます、奥様。……お顔色が、よろしいようですね」
マーサが恐る恐るヴィクトリアの顔を覗き込む。
昨日の修羅場を知る彼女は、主人が憔悴しているのではないかと心配していたのだ。
だが、ヴィクトリアは鏡の前で微笑んだ。
それは、社交界で見せる他人のための笑顔そのものだった。
「ええ、とても。憑き物が落ちたようですわ」
ヴィクトリアは淡い水色のドレスを選んだ。
レースやフリルの少ない、機能的で、どこか軍服を思わせるようなデザインだ。
髪をきつく結い上げ、最後に銀のヘアピンを挿す。
カチリ、という金属音が、彼女の決意のスイッチのように響いた。
食堂に向かう足取りに、もはや迷いはない。
今日から、彼女はギルバートの妻ではない。
アッシュフォード家の共同経営者という仮面を被った、ただの同居人だ。
食堂の扉を開ける。
そこには既に、ギルバートとシルヴィアが座っていた。
シルヴィアは今日もヴィクトリアの席に座り、ギルバートと楽しげに談笑している。
昨日までは胃が焼けるような光景だったが、今のヴィクトリアには、道端の石ころを見るのと変わらない感慨しかなかった。
「おはよう、ヴィクトリア! よく眠れたかい?」
ギルバートが明るく声をかけてきた。
彼は機嫌が良かった。
昨日、ヴィクトリアが反省し、従順な態度を見せたからだ。
彼の頭の中では、家庭の危機は去り、雨降って地固まる、という都合の良い物語が完成しているのだろう。
「おはようございます、アッシュフォード様。シルヴィア様」
ヴィクトリアは完璧なカーテシーをして、二人に挨拶をした。
ギルバートが、少しだけ怪訝な顔をする。
「……アッシュフォード様? どうしたんだい、そんな他人行儀な呼び方をして。ギルバートでいいじゃないか」
「いいえ。公私を混同して感情的になるのは私の悪い癖でしたから。これからは家長として、敬意を持って接することにいたしました」
ヴィクトリアは表情を崩さずに答えた。
嘘ではない。
ただし、その敬意の中身は、取引先の長に対する儀礼的なものであり、夫への親愛ではない。
「そ、そうか……? まあ、君がそうしたいなら構わないけど」
ギルバートはまんざらでもない様子で鼻を鳴らした。
妻が自分を立ててくれることに、男としての自尊心が満たされたのだ。
単純な男である。
「ヴィクトリア様、昨日はごめんなさい……。私、お掃除のつもりで……」
シルヴィアがおずおずと切り出してきた。
ヴィクトリアは彼女の方を向き、目尻を下げて優しく微笑んだ。
「謝る必要はありませんわ、シルヴィア様。貴女は何も悪くありません。私が狭量だっただけですもの」
「ほ、本当ですか……?」
「ええ。貴女のその……、無垢な感性は、とても貴重ですわ。どうぞそのままでいてください」
(そのまま、何も学ばず、何も気付かず、ただの無能なお人形のままでいてください)
心の中の補足を飲み込み、ヴィクトリアは席に着いた。
もちろん、客人用の席に。
食事が始まる。
以前なら、ヴィクトリアはギルバートの皿を見て、「お野菜も召し上がってください」と世話を焼いただろう。
あるいは、今日のスケジュールの確認をしていただろう。
だが、今のヴィクトリアは一言も発しない。
ただ黙々と、機械的に食事を口に運ぶだけだ。
その沈黙を、ギルバートは従順さと受け取ったようだ。
彼は上機嫌でシルヴィアに話しかけ続ける。
「今度、街に新しい劇場ができるんだ。シルヴィア、気晴らしに行こうか」
「わぁ、素敵! ……でも、ヴィクトリア様もご一緒に……」
「ヴィクトリアは忙しいからね。研究熱心な彼女の邪魔をしちゃいけないよ。ね、ヴィクトリア?」
ギルバートが同意を求めてくる。
ヴィクトリアはナプキンで口元を拭った。
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