「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上

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第20話:引かれた境界線

「左様でございますね。……あいにく、昨日のお掃除のおかげで、一からやり直さなければならない仕事が山積みですので」

「うんうん、そうだろう。頑張ってくれ。君の努力にはいつも感謝しているよ」

 皮肉が通じない。

 ギルバートは掃除という単語に込められた棘に気づかず、むしろ「自分が彼女の仕事環境を整えてやった」という認識で頷いている。

 ヴィクトリアは、心の中で赤い線を引いた。
 ここが境界線だ。

 これ以上、彼に言葉を尽くす必要はない。
 期待する必要もない。

 彼はもう、対話可能な人間ではない。

 経営資源の一部、あるいは負債として処理すべき対象だ。

 食事が終わり、ギルバートが立ち上がった。
 彼が首元のネクタイに手をやる。

 少し結び目が曲がっていた。
 これまでは、ヴィクトリアが近づいて直してあげるのが、夫婦の朝の習慣だった。

 ギルバートはヴィクトリアを見た。
 期待のこもった目で、彼女が近づいてくるのを待っている。

 だが、ヴィクトリアは動かなかった。
 彼女は近くに控えていたマーサに、目だけで合図を送った。

「……マーサ。旦那様の身なりを」

「は、はい」

 マーサが慌てて近づき、ギルバートのクラバットを直す。
 ギルバートは虚を突かれたように、ヴィクトリアとマーサを交互に見た。

「……ヴィクトリア?」

「何か不都合が?」

「いや……、いつもは君がやってくれるだろう?」

「私は不器用ですので。プロであるマーサに任せた方が、より美しく仕上がりますわ」

 ヴィクトリアは時計を見た。

「では、私はこれで失礼いたします。……アッシュフォード様、シルヴィア様、良き一日を」

 一礼し、踵を返す。
 背後でギルバートが何か言いたげに口を開いた気配がしたが、ヴィクトリアは振り返らなかった。

 廊下に出ると、ヴィクトリアは執務室ではなく、自室へと向かった。

 執務室はもう、シルヴィアの侵入によって汚染された場所だ。
 重要な思考を行うには適さない。

 自室の鍵をかけ、彼女は隠しておいた黒革の手帳を開いた。
 そこに書き込まれているのは、アッシュフォード家の家計簿ではない。

『離縁に向けた資産分与計画書』

 ヴィクトリアはペンを取り、サラサラと記述を始めた。
 感情のブレがない文字は、かつてないほど美しく、読みやすい。

「……第一段階、完了。心理的依存の断絶」

 ヴィクトリアは小さく呟いた。

 夫に期待しないこと。
 夫を愛さないこと。

 これが、この計画の最も困難で、最も重要な前提条件だった。
 そして今、それは完全に達成された。

 次は、物理的な準備だ。 

 彼女の頭脳は、製鉄所の炉の温度を計算するのと同じ冷静さで、夫を破滅させず、かつ自分が無傷で脱出するためのルートを計算し始めた。

 いや、破滅しても構わない。
 それは彼自身の責任だ。

 重要なのは、ヴィクトリアが被害者として、正当に、そして美しくこの家を去ること。

「鉱山の権利書……、特許の名義変更……、実家への根回し……」

 項目をリストアップしていく。
 その横顔は、恋に悩む妻の顔ではなく、冷徹な軍師の顔だった。

 ふと、窓の外を見る。
 庭では、ギルバートとシルヴィアが楽しそうに散歩をしているのが見えた。

 無邪気で、残酷で、そして哀れな人々。

 ヴィクトリアは口角を上げた。
 心からの笑顔ではない。

 獲物が罠にかかるのを待つ、狩人のような、冷ややかな嘲笑だった。

「せいぜい今のうちに楽しんでくださいませ。……その砂上の楼閣が崩れるまで」

 ペンを置く音だけが、静かな部屋に響いた。

 境界線は引かれた。
 もう、誰もこちら側へは入れない。

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