「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上

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第21話:素晴らしいチームワーク

 アッシュフォード邸の執務室は、奇妙なほど穏やかな空気に包まれていた。
 数日前までの、張り詰めた緊張感や、ヒステリックな怒声は嘘のように消え失せている。

 窓際にある、かつてヴィクトリアが愛用していた上質なマホガニーの机には、今やシルヴィアが座っている。

 彼女は鼻歌交じりに羽ペンを動かし、時折「んー?」と可愛らしく首を傾げながら、書類に向かっていた。

 一方、ヴィクトリアは部屋の隅にある簡素な書き物机を使っていた。
 そこは本来、臨時の書記官や使用人が使う場所だ。

 だが、今の彼女にとって、場所などどうでもよかった。
 重要なのは仕事が進むことと、彼らに気づかれないことの二点だけだ。

「ヴィクトリア様ぁ、できましたぁ!」

 シルヴィアが声を弾ませ、一枚の羊皮紙をひらひらと振った。
 ヴィクトリアは手元の黒革の手帳を素早く閉じ、完璧な営業用スマイルを浮かべて振り返る。

「お疲れ様です、シルヴィア様。拝見しますわ」

 ヴィクトリアが受け取った書類は、過去五年の鉱石取引先のリストを名前順に並べ替えるという作業の結果だった。

 本来、取引先リストは取引量順や信用度順で管理しなければ意味がない。
 名前順など、実務においては何の役にも立たないデータだ。

 しかも、シルヴィアの文字は丸く、装飾過多で読みにくい上、いくつかの商会名がスペルミスで別の会社になっている。

(……屑籠行きですね)

 ヴィクトリアは脳内で即座に判定を下す。
 だが、彼女の口から出た言葉は、真逆のものだった。

「素晴らしいですわ、シルヴィア様。とても丁寧に書かれていますね」

「本当ですか!? 私、お役に立てていますか?」

「ええ、もちろんです。これほど綺麗な文字は、私には書けませんもの。これで古い台帳も見やすくなります」

 ヴィクトリアは嘘をついた。
 息をするように自然に、そして優雅に。

 シルヴィアの瞳がキラキラと輝く。
 彼女は褒められることに飢えている子供のようだ。

「よかったぁ! 私、難しい計算とかはできないけど、こういうのなら得意みたいです!」

「ふふ、頼もしい限りです。では次は、こちらの書類をお願いできますか? 昨年の領収書を文字が多い順にしていただきたいのです」

「文字が多い順、ですか?」

「ええ。整理整頓の基本ですわ」

 もちろん、そんな基本はない。
 だが、シルヴィアに仕事をしている気分を味わわせ、かつ実害のない作業という時間潰しをさせるには最適だった。

「はい! やってみます!」

 シルヴィアは嬉々として領収書の山に取り掛かった。
 ヴィクトリアは静かに自分の席に戻る。

 これでいい。
 彼女が満足している間に、ヴィクトリアは着々と本物の仕事を進められる。

 彼女が広げた黒革の手帳には、アッシュフォード家の鉱山運営に関する真のマニュアルが記されつつあった。

 表向きの業務日誌には書かれない、ヴィクトリアの頭の中にしかなかったノウハウの全てだ。

『炭鉱夫組合の長、ドノバン氏は酒を好むが、交渉の場では甘い菓子を手土産にする方が話が通じやすい』

『梅雨時期の鉄鉱石は水分量が多いため、乾燥工程を二割増しにする必要がある』

 これらは、ヴィクトリアが現場に足を運び、職人たちと対話し、失敗を重ねて得た生きた知識だ。

 これらがなければ、いくら立派な設備があっても、アッシュフォードの鉱山は一ヶ月と持たないだろう。

 ヴィクトリアは、この手帳を誰のために書いているわけでもない。

 ただ、自分の功績を客観的に整理し、いかに自分がこの家に貢献してきたか、そして、これがないとどうなるかを可視化するためだ。

 それは、離縁の際の強力な交渉材料になると同時に、彼女自身のプライドの証明でもあった。

(……この手帳一冊に、私の二年間が詰まっている)

 インクの染み一つない、整然とした文字の列。
 ヴィクトリアは、そこに哀愁を感じることはなかった。

 あるのは、冷静な分析だけだ。

 コンコン、とノックの音がして、ギルバートが顔を出した。
 彼は最近、執務室に来るのが楽しみで仕方がないらしい。

「やあ、二人とも。仕事は順調かい?」

「あ、ギルバート様! 見て見て、私、こんなに整理したの!」

 シルヴィアが色分けされた領収書の山――端から見れば、ただの紙遊び――を自慢げに見せる。
 ギルバートは目を細め、大げさに驚いて見せた。

「すごいじゃないか、シルヴィア! これなら仕事も楽しくなるね」

「でしょう? ヴィクトリア様が、私の文字が綺麗だって褒めてくださったの!」

「ほう、それはすごい。ヴィクトリアが人を褒めるなんて珍しいことだよ」

 ギルバートはヴィクトリアの方を向き、満足げに頷いた。

「どうだい、ヴィクトリア。僕の言った通りだろう? シルヴィアには才能があるんだ。君一人で抱え込んでいた仕事を、こうして彼女が分担してくれている。素晴らしいチームワークじゃないか」

 ヴィクトリアはペンを置き、穏やかに微笑みながら話し始めた。

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