「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~

水上

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第25話:最後の晩餐

 その日の夕暮れ、アッシュフォード邸の主寝室――現在はヴィクトリアの私室となっている部屋――に、一通の手紙が届いた。

 差出人は、ヴィクトリアの父、スターリング伯爵だ。
 封蝋には、スターリング家の紋章である、精錬された銀塊が押されている。

 ヴィクトリアはペーパーナイフで封を切ると、中身を素早く確認した。
 父の筆跡は相変わらず無骨で、挨拶もそこそこに用件だけが記されていた。

『要請を受諾する。北部の第二製鉄所、所長のポストを用意した。お前の設計した新型溶鉱炉の稼働試験を任せる。あそこなら、女だてらに現場に出ても文句を言う者はおらん。鉄と炎だけが、お前の正当な評価者だ。――戻ってこい、ヴィクトリア』

 短い文面だったが、そこには父なりの不器用な愛情と、何より技術者としてのヴィクトリアへの最大限の敬意が込められていた。

 出戻りの娘としてではなく、有能な技術責任者としての帰還。
 これ以上の好条件はない。

「……交渉成立ですね」

 ヴィクトリアは手紙を小さく折りたたみ、暖炉の火にくべた。
 紙が燃え上がり、灰になっていく。

 これで、彼女をこの屋敷に繋ぎ止める鎖は、物理的にも、社会的にも、すべて断ち切られた。

「奥様、夕食の準備が整いました」

 マーサが呼びに来る。
 彼女の声は少し震えていた。

 ヴィクトリアが荷造りを始めていることを、決して口外はしない。
 それが彼女なりの忠誠心だと、ヴィクトリアは知っていた。

「ええ、参りましょう。……今夜は、特別な夜になりそうですから」

 ヴィクトリアは鏡の前で、自分の顔を確認した。

 完璧だ。
 微かな憂いを含んだ淑女の微笑み。

 夫を立て、静かに寄り添う妻の仮面。
 今夜、この仮面を被るのが最後だと思うと、不思議な高揚感が胸に湧き上がってくるのを感じた。

 食堂には、既にギルバートとシルヴィアが待っていた。
 シャンデリアの光が、テーブルに並べられた銀食器を煌びやかに照らしている。

 メインディッシュは仔羊のロースト。
 芳醇な香りが漂っているはずだが、ヴィクトリアの鼻には何も感じられなかった。

「やあ、ヴィクトリア。遅かったね」

 ギルバートがワイングラスを傾けながら言った。

 彼は上機嫌だった。
 シルヴィアが彼の隣で、甲斐甲斐しくパンを取り分けている。

「申し訳ありません。実家からの手紙を読んでおりましたので」

「お義父さんから? 何か言っていたかい?」

「ええ。『近いうちに顔を見せに来なさい』と」

「ははは、相変わらず娘溺愛だなあ。まあ、仕事が落ち着いたら行くといいよ。僕も一緒に行きたいところだけど、最近はシルヴィアとの仕事が忙しくてね」

 ギルバートは仕事という言葉を、誇らしげに使った。

 実際には、シルヴィアとのおしゃべりや、現場を混乱させるだけの視察ごっこのことだが、彼の中では経営改革ということになっているらしい。

「左様でございますか。……残念ですわ」

 ヴィクトリアは席に着いた。
 シルヴィアが、「ヴィクトリア様、どうぞ」とワインを注ごうとする。

 ヴィクトリアは手で制した。

「いいえ、結構です。食欲がありませんので」

「え? どうしてですか? 今日のメニュー、私がシェフと相談して決めたんですよぉ」

 シルヴィアが悲しそうな顔をする。
 ギルバートも眉をひそめた。

「ヴィクトリア、せっかくシルヴィアが気を使ってくれたんだ。一口くらい食べたらどうだい?」

「申し訳ありません。……胸がいっぱいで」

 ヴィクトリアは皿の上の肉を見つめた。
 それは、まるで泥の塊のように見えた。

 この家で提供されるもの、この夫が与えてくれるもの、それら全てが、今のヴィクトリアにとっては生理的な拒絶反応を引き起こす毒物だった。

 もう、一口たりとも飲み込みたくない。
 彼らの善意という名の毒を、これ以上体に入れたくない。

「……そうか。まあ、無理強いは良くないな」

 ギルバートは肩をすくめ、自分の肉を切り分けた。

「じゃあ、僕がもらうよ。シルヴィアが選んでくれたんだ、残すのは失礼だからね」

「わぁ、ギルバート様、優しい! いっぱい食べてくださいね!」

 二人は楽しげに食事を進める。
 話題は、来月の避暑地の話、秋の舞踏会のドレスの話、そして来年の鉱山拡張計画の話へと移っていった。

「来年は、もっと大きな鉱脈が見つかるはずだ。そうしたら、新しい別荘を建てよう。シルヴィアの部屋も作ってあげないとね」

「えへへ、楽しみです! 私、海の近くがいいなぁ」

「いいねえ。ヴィクトリアも海は好きだろう?」

 ギルバートが話を振ってくる。

 未来の話。
 彼の中では、この奇妙な三角関係の生活が、永遠に、そして平和に続くと信じて疑わないのだ。

 ヴィクトリアが黙って微笑み、全てを許容し続ける限り。

 滑稽だった。
 そして、哀れだった。

 彼が夢見ている来年など、どこにも存在しないのに。
 ヴィクトリアという土台を失ったアッシュフォード家が、来年の今頃どうなっているか。

 想像するだけで、背筋がゾクゾクするような暗い愉悦を覚えた。

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