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第30話:目を背ける哀れな男
「……な、なんだこれは?」
ギルバートの声が上擦った。
冗談だ。
悪趣味な冗談だ。
(ヴィクトリアが、僕と離縁? あり得ない。彼女は僕を愛しているはずだ。僕がいなければ生きていけないはずだ。だって、彼女は鉄の女と呼ばれ、社交界でも浮いている。僕だけが彼女の理解者だったじゃないか)
「ギルバート様? どうしたんですか、顔色が……」
シルヴィアが心配そうに覗き込む。
ギルバートは慌てて離縁届を隠そうとしたが、その手から紙が滑り落ち、床に舞った。
さらに、もう一つの黒い表紙の書類――『最終事業報告書』――に貼り付けられたメモが目に入った。
『ご希望通り、全てを貴方達にお任せします。この報告書が、私の最後の妻としての務めです』
ギルバートは、口をパクパクとさせた。
言葉が出てこない。
脳が事実の処理を拒絶している。
「……いないのか? 本当に?」
彼は執務室を飛び出し、寝室へと走った。
「ヴィクトリア! 隠れていないで出てきてくれ! 面白くないぞ!」
ヴィクトリアの私室の扉を開ける。
そこは、抜け殻のようだった。
クローゼットの扉は開いたままで、彼女が愛用していたシンプルなドレスや、実務用の鞄だけが消えていた。
一方で、ギルバートが贈った派手なドレスや宝石は、そのまま残されている。
まるで、「貴方との思い出は一つもいらない」と言わんばかりに。
「……嘘だろう?」
ギルバートはベッドの縁に座り込んだ。
膝から力が抜け、立ち上がれない。
「ギルバート様……。ヴィクトリア様、家出したんですか?」
追いついてきたシルヴィアが、怯えたように尋ねる。
家出という言葉に、ギルバートはハッと顔を上げた。
「そ、そうだよ! 家出だ! ちょっとした喧嘩の延長さ!」
ギルバートは自分に言い聞かせるように、早口でまくし立てた。
「彼女は少し疲れていたんだ。それに、僕たちが仲良くしているのを見て、嫉妬したに違いない。可愛いところがあるじゃないか。実家に帰って、僕が迎えに来るのを待っているんだよ」
「そ、そうですよね? 離縁なんて、そんな……」
「当たり前だ! アッシュフォード家の夫人は彼女しかいない。彼女だって、この家の事業を放り出すなんて無責任なこと、できるわけがない!」
ギルバートは立ち上がり、無理やりに笑みを作った。
顔面は蒼白で、引きつっていたが、シルヴィアを安心させるため、そして何より自分自身の崩れそうな心を支えるために。
「大丈夫さ。二、三日もすれば頭を冷やして戻ってくるよ。それか、泣きついてくるかもしれない。『やっぱり私には貴方が必要です』ってね」
「よかったぁ……。私、ヴィクトリア様がいなくなったらどうしようかと思いました」
シルヴィアは胸を撫で下ろし、再びピンクのマニュアルを抱きしめた。
「じゃあ、ヴィクトリア様が戻ってくるまで、私がこのマニュアルで頑張りますね! 留守番くらい、ちゃんとできないと!」
「ああ、頼むよシルヴィア。君ならできるさ」
ギルバートはシルヴィアの肩を抱いたが、その視線は床に落ちた黒い報告書に釘付けになっていた。
無機質な黒い表紙が、まるで墓標のように見えた。
読まなければならない気がした。
だが、本能が警鐘を鳴らしていた。
『あれを開くな。開けば、お前の幸せな幻想は終わる』と。
「……腹が減ったな。食事にしよう」
ギルバートは報告書から目を逸らし、逃げるように部屋を出た。
しかし、食堂に行っても、夕食は用意されていなかった。
料理人も、メイドも、誰一人としていない。
冷たい台所と、空っぽのテーブルがあるだけだ。
「……マーサ? おい、誰かいないのか!」
虚しく響く自分の声に、ギルバートは初めて、背筋が凍るような恐怖を感じた。
妻がいない。
使用人がいない。
この屋敷には今、何もできない自分と元恋人しかいない。
窓の外では、日が完全に沈み、闇が屋敷を飲み込もうとしていた。
それは、アッシュフォード家に訪れる、長く冷たい冬の始まりだった。
ギルバートの声が上擦った。
冗談だ。
悪趣味な冗談だ。
(ヴィクトリアが、僕と離縁? あり得ない。彼女は僕を愛しているはずだ。僕がいなければ生きていけないはずだ。だって、彼女は鉄の女と呼ばれ、社交界でも浮いている。僕だけが彼女の理解者だったじゃないか)
「ギルバート様? どうしたんですか、顔色が……」
シルヴィアが心配そうに覗き込む。
ギルバートは慌てて離縁届を隠そうとしたが、その手から紙が滑り落ち、床に舞った。
さらに、もう一つの黒い表紙の書類――『最終事業報告書』――に貼り付けられたメモが目に入った。
『ご希望通り、全てを貴方達にお任せします。この報告書が、私の最後の妻としての務めです』
ギルバートは、口をパクパクとさせた。
言葉が出てこない。
脳が事実の処理を拒絶している。
「……いないのか? 本当に?」
彼は執務室を飛び出し、寝室へと走った。
「ヴィクトリア! 隠れていないで出てきてくれ! 面白くないぞ!」
ヴィクトリアの私室の扉を開ける。
そこは、抜け殻のようだった。
クローゼットの扉は開いたままで、彼女が愛用していたシンプルなドレスや、実務用の鞄だけが消えていた。
一方で、ギルバートが贈った派手なドレスや宝石は、そのまま残されている。
まるで、「貴方との思い出は一つもいらない」と言わんばかりに。
「……嘘だろう?」
ギルバートはベッドの縁に座り込んだ。
膝から力が抜け、立ち上がれない。
「ギルバート様……。ヴィクトリア様、家出したんですか?」
追いついてきたシルヴィアが、怯えたように尋ねる。
家出という言葉に、ギルバートはハッと顔を上げた。
「そ、そうだよ! 家出だ! ちょっとした喧嘩の延長さ!」
ギルバートは自分に言い聞かせるように、早口でまくし立てた。
「彼女は少し疲れていたんだ。それに、僕たちが仲良くしているのを見て、嫉妬したに違いない。可愛いところがあるじゃないか。実家に帰って、僕が迎えに来るのを待っているんだよ」
「そ、そうですよね? 離縁なんて、そんな……」
「当たり前だ! アッシュフォード家の夫人は彼女しかいない。彼女だって、この家の事業を放り出すなんて無責任なこと、できるわけがない!」
ギルバートは立ち上がり、無理やりに笑みを作った。
顔面は蒼白で、引きつっていたが、シルヴィアを安心させるため、そして何より自分自身の崩れそうな心を支えるために。
「大丈夫さ。二、三日もすれば頭を冷やして戻ってくるよ。それか、泣きついてくるかもしれない。『やっぱり私には貴方が必要です』ってね」
「よかったぁ……。私、ヴィクトリア様がいなくなったらどうしようかと思いました」
シルヴィアは胸を撫で下ろし、再びピンクのマニュアルを抱きしめた。
「じゃあ、ヴィクトリア様が戻ってくるまで、私がこのマニュアルで頑張りますね! 留守番くらい、ちゃんとできないと!」
「ああ、頼むよシルヴィア。君ならできるさ」
ギルバートはシルヴィアの肩を抱いたが、その視線は床に落ちた黒い報告書に釘付けになっていた。
無機質な黒い表紙が、まるで墓標のように見えた。
読まなければならない気がした。
だが、本能が警鐘を鳴らしていた。
『あれを開くな。開けば、お前の幸せな幻想は終わる』と。
「……腹が減ったな。食事にしよう」
ギルバートは報告書から目を逸らし、逃げるように部屋を出た。
しかし、食堂に行っても、夕食は用意されていなかった。
料理人も、メイドも、誰一人としていない。
冷たい台所と、空っぽのテーブルがあるだけだ。
「……マーサ? おい、誰かいないのか!」
虚しく響く自分の声に、ギルバートは初めて、背筋が凍るような恐怖を感じた。
妻がいない。
使用人がいない。
この屋敷には今、何もできない自分と元恋人しかいない。
窓の外では、日が完全に沈み、闇が屋敷を飲み込もうとしていた。
それは、アッシュフォード家に訪れる、長く冷たい冬の始まりだった。
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