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第19話:誰にでもできる単純作業
クララが姿を消してから三日が過ぎた。
ゲイル商会の経営は、表面上は順調そのものだった。
マティアスは旅行の成果を整理し、イザベラは新しいドレスでサロンを飛び回り、客たちに愛嬌を振りまいている。
しかし、その平穏は在庫という名の砂時計が落ちきるまでの猶予に過ぎなかった。
そして、その時は来た。
「旦那様、至急の案件です。星屑のレンズの在庫が切れました。追加注文の五十個、明後日の納品に間に合わせる必要があります」
執事のセバスチャンが、焦りを隠せない様子で報告に来た。
マティアスは優雅に紅茶を飲み干し、カップをソーサーに戻した。
「慌てるな。想定の範囲内だ」
彼は銀縁眼鏡を押し上げ、余裕の笑みを浮かべた。
「クララが残したマニュアルがある。あれに従えば、誰でも同じ品質のものが作れるはずだ。製造ラインを止めなければいいだけの話だろう?」
マティアスは隣でマカロンを摘まんでいたイザベラに視線を向けた。
「イザベラ、出番だ。君に工房を任せる」
「えっ、私?」
イザベラは目を丸くし、口元の粉をナプキンで拭った。「でもマティアス様、私、機械なんて触ったことないわよ? 手が荒れちゃうし……」
「大丈夫だ。君は何度もクララの作業を見ていただろう? ただ石を機械に押し当てて、磨くだけの単純作業だ。それに、君にはセンスがある」
マティアスは甘言を弄した。
「君が仕上げれば、それは君の手柄になる。客も『あの美しいイザベラ嬢が磨いたレンズ』と聞けば、倍の値段でも買うだろう」
「あら……! そういうことなら、任せて!」
イザベラは単純だった。
称賛と注目、そして金になる話には目がない。
彼女はスカートを翻し、意気揚々と立ち上がった。
「私、やってみるわ! クララ様みたいな地味な磨き方じゃなくて、もっと情熱的に、愛を込めて仕上げてみせるわね!」
三十分後。
地下工房には、かつてない騒音が響き渡っていた。
耳をつんざくような不協和音。
ガラスと砥石が悲鳴を上げている音だ。
かつてクララが奏でていた規則正しいリズムとは似ても似つかない。
「きゃっ! 何これ、すごい粉!」
イザベラは咳き込みながら、顔の前で手を振った。
舞い上がったガラスの微粉末が彼女の巻き髪や高価なドレスに降り注いでいる。
「ちょっと、どうなってるのよこの機械! 全然言うことを聞かないじゃない!」
イザベラは、マティアスから渡された分厚い革表紙のファイル――『業務引継書・完全版』をバサリと作業台に広げた。
そこには、クララの几帳面な文字でびっしりと指示が書かれている。
『工程3:粗研磨。回転数1200rpmを維持しつつ、接触角を15度に固定。加重は200gを超えないこと。摩擦熱による膨張係数を考慮し、五分ごとに冷却水を……』
「はあ? 何よこれ、意味わかんない!」
イザベラは叫んだ。
rpm?
接触角?
膨張係数?
彼女の辞書には「カワイイ」「キラキラ」「すごい」といった言葉しかない。
物理学の用語など、異国の呪文にしか見えなかった。
「要するに、ツルツルになるまで磨けばいいんでしょ? いちいち細かすぎてイライラするわね、あの女!」
彼女はマニュアルをパタンと閉じ、ゴミのように脇へ追いやった。
そして、自分の勘だけを頼りに、再び硝子材を回転する砥石に押し当てた。
「大事なのは愛よ、愛! 綺麗になぁれ!」
力任せに押し付けられたガラスが高熱を持ち、焼けるような臭いが立ち込める。
イザベラは汗だくになりながら、数時間格闘した。
彼女の指先は汚れ、爪は割れ、化粧は崩れていたが、本人は職人ごっこに陶酔していた。
「できた……!」
夕方になり、マティアスが視察に訪れた時、イザベラは誇らしげにトレーを差し出した。
そこには、十数個のレンズが並んでいた。
「見てください、マティアス様! 私、頑張りましたわ! これで納品もバッチリです!」
マティアスは頷き、トレーから一つを手に取った。
「流石だな。やはり単純作業など、君の才能にかかれば――」
しかし、彼の誉め言葉は、途中で止まった。
ゲイル商会の経営は、表面上は順調そのものだった。
マティアスは旅行の成果を整理し、イザベラは新しいドレスでサロンを飛び回り、客たちに愛嬌を振りまいている。
しかし、その平穏は在庫という名の砂時計が落ちきるまでの猶予に過ぎなかった。
そして、その時は来た。
「旦那様、至急の案件です。星屑のレンズの在庫が切れました。追加注文の五十個、明後日の納品に間に合わせる必要があります」
執事のセバスチャンが、焦りを隠せない様子で報告に来た。
マティアスは優雅に紅茶を飲み干し、カップをソーサーに戻した。
「慌てるな。想定の範囲内だ」
彼は銀縁眼鏡を押し上げ、余裕の笑みを浮かべた。
「クララが残したマニュアルがある。あれに従えば、誰でも同じ品質のものが作れるはずだ。製造ラインを止めなければいいだけの話だろう?」
マティアスは隣でマカロンを摘まんでいたイザベラに視線を向けた。
「イザベラ、出番だ。君に工房を任せる」
「えっ、私?」
イザベラは目を丸くし、口元の粉をナプキンで拭った。「でもマティアス様、私、機械なんて触ったことないわよ? 手が荒れちゃうし……」
「大丈夫だ。君は何度もクララの作業を見ていただろう? ただ石を機械に押し当てて、磨くだけの単純作業だ。それに、君にはセンスがある」
マティアスは甘言を弄した。
「君が仕上げれば、それは君の手柄になる。客も『あの美しいイザベラ嬢が磨いたレンズ』と聞けば、倍の値段でも買うだろう」
「あら……! そういうことなら、任せて!」
イザベラは単純だった。
称賛と注目、そして金になる話には目がない。
彼女はスカートを翻し、意気揚々と立ち上がった。
「私、やってみるわ! クララ様みたいな地味な磨き方じゃなくて、もっと情熱的に、愛を込めて仕上げてみせるわね!」
三十分後。
地下工房には、かつてない騒音が響き渡っていた。
耳をつんざくような不協和音。
ガラスと砥石が悲鳴を上げている音だ。
かつてクララが奏でていた規則正しいリズムとは似ても似つかない。
「きゃっ! 何これ、すごい粉!」
イザベラは咳き込みながら、顔の前で手を振った。
舞い上がったガラスの微粉末が彼女の巻き髪や高価なドレスに降り注いでいる。
「ちょっと、どうなってるのよこの機械! 全然言うことを聞かないじゃない!」
イザベラは、マティアスから渡された分厚い革表紙のファイル――『業務引継書・完全版』をバサリと作業台に広げた。
そこには、クララの几帳面な文字でびっしりと指示が書かれている。
『工程3:粗研磨。回転数1200rpmを維持しつつ、接触角を15度に固定。加重は200gを超えないこと。摩擦熱による膨張係数を考慮し、五分ごとに冷却水を……』
「はあ? 何よこれ、意味わかんない!」
イザベラは叫んだ。
rpm?
接触角?
膨張係数?
彼女の辞書には「カワイイ」「キラキラ」「すごい」といった言葉しかない。
物理学の用語など、異国の呪文にしか見えなかった。
「要するに、ツルツルになるまで磨けばいいんでしょ? いちいち細かすぎてイライラするわね、あの女!」
彼女はマニュアルをパタンと閉じ、ゴミのように脇へ追いやった。
そして、自分の勘だけを頼りに、再び硝子材を回転する砥石に押し当てた。
「大事なのは愛よ、愛! 綺麗になぁれ!」
力任せに押し付けられたガラスが高熱を持ち、焼けるような臭いが立ち込める。
イザベラは汗だくになりながら、数時間格闘した。
彼女の指先は汚れ、爪は割れ、化粧は崩れていたが、本人は職人ごっこに陶酔していた。
「できた……!」
夕方になり、マティアスが視察に訪れた時、イザベラは誇らしげにトレーを差し出した。
そこには、十数個のレンズが並んでいた。
「見てください、マティアス様! 私、頑張りましたわ! これで納品もバッチリです!」
マティアスは頷き、トレーから一つを手に取った。
「流石だな。やはり単純作業など、君の才能にかかれば――」
しかし、彼の誉め言葉は、途中で止まった。
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