23 / 36
第23話:彼女の偉大さ
ゲイル商会に残された時間は、砂時計の砂のように音もなく、確実に減っていた。
契約破棄という醜聞は、瞬く間に業界を駆け巡った。
もはや愛と魔法の言い訳は通用しない。
マティアスに残された起死回生の策はただ一つ。
王立研究所の所長、ハミルトン侯爵から依頼されていた、軍用望遠鏡の特注レンズを、完璧な品質で納品することだった。
これが成功すれば、汚名は返上できる。
逆に失敗すれば、商会の信用は完全に失墜し、倒産は免れない。
「金に糸目はつけるな。王都で一番の腕を持つ職人を集めろ」
マティアスは金庫を開け、残りの運転資金を鷲掴みにした。
彼は焦っていた。
だが、まだ勝機はあると信じていた。
クララがいなくとも、彼女が残したマニュアルと、彼女が整えた最高設備の工房がある。
そこに、高い技術を持つベテラン職人を投入すれば、理論上は同じものが作れるはずだ。
それが、マティアスの信奉する交換可能な歯車としての経営論理だった。
翌日、地下工房には三人の老練な職人が招集された。
いずれも他の工房で親方と呼ばれていた腕利きたちだ。
彼らは高額な報酬と引き換えに、急遽雇われた傭兵のような存在だった。
「へえ、これがゲイル商会の工房か。いい機械を揃えてやがる」
リーダー格の職人、サイモンが口髭を撫でながら感心した声を上げた。
マティアスは胸を張った。
「当然だ。設備投資には金を惜しんでいない。さあ、これが設計図と工程表だ。期限は一週間。頼んだぞ」
マティアスは、例の分厚い革表紙のファイル――『業務引継書・完全版』をサイモンに手渡した。
彼は無造作にページを開いた。
そして、数秒後。
彼の眉間の皺が、深く、険しく刻まれた。
「……おい、旦那。こりゃあ何の冗談だ?」
「冗談? 正確な指示書のはずだが」
「正確すぎて、人間業じゃねえよ」
彼は呆れたように吐き捨て、ページを指差した。
『工程7:研磨圧は0.5ニュートンで一定。ただし、レンズ表面温度が25度を超えた瞬間、冷却剤の滴下速度を毎秒0.3ミリリットル増加させ、同時に圧力を3%減じること』
「あのなぁ、俺たちは機械じゃねえ。0.5ニュートンだの3%だの、そんなもん感覚でやるもんだ。いちいち計算してたら日が暮れちまうぞ」
「前の担当者はそれをやっていたぞ」
マティアスは冷ややかに返した。
「君たちはプロだろう? それとも、彼女より腕が劣るのか?」
職人のプライドを刺激されたサイモンは、顔を真っ赤にして鼻息を荒くした。
「若造が偉そうに。やってやろうじゃねえか! おい、野郎ども! 機械を回せ!」
職人たちがそれぞれの研磨機に向かう。
マティアスは腕を組み、高みから見下ろすようにそれを見守った。
そうだ、感情などいらない。
必要なのは正確な動作だ。
金で雇った彼らが、マニュアル通りに動けばそれでいい。
研磨機が唸りを上げた。
サイモンが原石をセットし、回転する砥石に近づける。
その時だった。
耳をつんざくような金属音が響き渡った。
ガラスが砕ける音ではない。
機械そのものが悲鳴を上げているような、不快な高周波だ。
「な、なんだ!?」
サイモンが慌てて緊急停止ボタンを叩く。
他の職人の機械からも異音や、黒煙が上がり始めた。
「おい、この機械、軸がブレてやがるぞ!」
「こっちもだ! 砥石の角度がおかしい。こんな状態でまともに磨けるわけがねえ!」
職人たちが口々に叫ぶ。
マティアスは狼狽した。
「馬鹿な! その機械は最新式だぞ? 先週までクララが問題なく使っていたはずだ!」
マティアスはサイモンの機械に駆け寄った。
サイモンは油まみれの手で機械のカバーを外し、中の構造を覗き込んでいた。
そして、信じられないものを見るような目でマティアスを睨みつけた。
「最新式? ……違げえな。こいつは改造品だ」
「改造?」
「見ろよ、ここだ」
サイモンが指差した先には、微細なギアが複雑に噛み合う機構があった。
「純正の部品じゃねえ。手製のパーツが組み込まれてやがる。しかも、恐ろしく精密だ。バネの強度からギア比まで、全部イジってある」
マティアスは言葉を失った。
そういえば、クララは夜な夜な工具を片手に機械をいじっていた。
「メンテナンスです」と言っていたが、あれは単なる掃除ではなかったのか。
マティアスはようやく、クララというの存在の大きさに気づき始めていた。
契約破棄という醜聞は、瞬く間に業界を駆け巡った。
もはや愛と魔法の言い訳は通用しない。
マティアスに残された起死回生の策はただ一つ。
王立研究所の所長、ハミルトン侯爵から依頼されていた、軍用望遠鏡の特注レンズを、完璧な品質で納品することだった。
これが成功すれば、汚名は返上できる。
逆に失敗すれば、商会の信用は完全に失墜し、倒産は免れない。
「金に糸目はつけるな。王都で一番の腕を持つ職人を集めろ」
マティアスは金庫を開け、残りの運転資金を鷲掴みにした。
彼は焦っていた。
だが、まだ勝機はあると信じていた。
クララがいなくとも、彼女が残したマニュアルと、彼女が整えた最高設備の工房がある。
そこに、高い技術を持つベテラン職人を投入すれば、理論上は同じものが作れるはずだ。
それが、マティアスの信奉する交換可能な歯車としての経営論理だった。
翌日、地下工房には三人の老練な職人が招集された。
いずれも他の工房で親方と呼ばれていた腕利きたちだ。
彼らは高額な報酬と引き換えに、急遽雇われた傭兵のような存在だった。
「へえ、これがゲイル商会の工房か。いい機械を揃えてやがる」
リーダー格の職人、サイモンが口髭を撫でながら感心した声を上げた。
マティアスは胸を張った。
「当然だ。設備投資には金を惜しんでいない。さあ、これが設計図と工程表だ。期限は一週間。頼んだぞ」
マティアスは、例の分厚い革表紙のファイル――『業務引継書・完全版』をサイモンに手渡した。
彼は無造作にページを開いた。
そして、数秒後。
彼の眉間の皺が、深く、険しく刻まれた。
「……おい、旦那。こりゃあ何の冗談だ?」
「冗談? 正確な指示書のはずだが」
「正確すぎて、人間業じゃねえよ」
彼は呆れたように吐き捨て、ページを指差した。
『工程7:研磨圧は0.5ニュートンで一定。ただし、レンズ表面温度が25度を超えた瞬間、冷却剤の滴下速度を毎秒0.3ミリリットル増加させ、同時に圧力を3%減じること』
「あのなぁ、俺たちは機械じゃねえ。0.5ニュートンだの3%だの、そんなもん感覚でやるもんだ。いちいち計算してたら日が暮れちまうぞ」
「前の担当者はそれをやっていたぞ」
マティアスは冷ややかに返した。
「君たちはプロだろう? それとも、彼女より腕が劣るのか?」
職人のプライドを刺激されたサイモンは、顔を真っ赤にして鼻息を荒くした。
「若造が偉そうに。やってやろうじゃねえか! おい、野郎ども! 機械を回せ!」
職人たちがそれぞれの研磨機に向かう。
マティアスは腕を組み、高みから見下ろすようにそれを見守った。
そうだ、感情などいらない。
必要なのは正確な動作だ。
金で雇った彼らが、マニュアル通りに動けばそれでいい。
研磨機が唸りを上げた。
サイモンが原石をセットし、回転する砥石に近づける。
その時だった。
耳をつんざくような金属音が響き渡った。
ガラスが砕ける音ではない。
機械そのものが悲鳴を上げているような、不快な高周波だ。
「な、なんだ!?」
サイモンが慌てて緊急停止ボタンを叩く。
他の職人の機械からも異音や、黒煙が上がり始めた。
「おい、この機械、軸がブレてやがるぞ!」
「こっちもだ! 砥石の角度がおかしい。こんな状態でまともに磨けるわけがねえ!」
職人たちが口々に叫ぶ。
マティアスは狼狽した。
「馬鹿な! その機械は最新式だぞ? 先週までクララが問題なく使っていたはずだ!」
マティアスはサイモンの機械に駆け寄った。
サイモンは油まみれの手で機械のカバーを外し、中の構造を覗き込んでいた。
そして、信じられないものを見るような目でマティアスを睨みつけた。
「最新式? ……違げえな。こいつは改造品だ」
「改造?」
「見ろよ、ここだ」
サイモンが指差した先には、微細なギアが複雑に噛み合う機構があった。
「純正の部品じゃねえ。手製のパーツが組み込まれてやがる。しかも、恐ろしく精密だ。バネの強度からギア比まで、全部イジってある」
マティアスは言葉を失った。
そういえば、クララは夜な夜な工具を片手に機械をいじっていた。
「メンテナンスです」と言っていたが、あれは単なる掃除ではなかったのか。
マティアスはようやく、クララというの存在の大きさに気づき始めていた。
あなたにおすすめの小説
「通訳など辞書で足りる」と追放された令嬢——三国会談で、婚約者は一言も話せなくなった
歩人
ファンタジー
宮廷通訳官エレノーラは五つの言語を操り、婚約者クラウスの外交を陰で支えてきた。
だがクラウスは言った。「通訳など辞書で足りる。お前は要らない」
追放されたエレノーラは隣国で新たな道を歩み始める。
一方、クラウスは三国会談の場で辞書片手に立ち往生。
誤訳が外交問題に発展し、窮地に陥ったその場に、隣国の通訳官として現れたのは——。
「その言葉は、もう翻訳できません」
結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です
柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。
そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。
真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。
けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。
「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」
彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。
アンリは実は、亡き国王の婚外子。
皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。
必要とされなくても、私はここにいます
あう
恋愛
辺境公爵カーネル・クリスのもとへ嫁ぐことになったフィレ・バーナード。
けれど彼女は、理想の妻になろうとも、誰かの上に立とうともしなかった。
口出ししない。
判断を奪わない。
必要以上に関わらない。
ただ静かに、そこにいるだけ。
そんな彼女の在り方は、少しずつ屋敷の空気を変えていく。
張りつめていた人々の距離はやわらぎ、日々の営みは穏やかに整いはじめる。
何かを勝ち取る物語ではない。
誰かを打ち負かす物語でもない。
それでも確かに、彼女がいることで守られていくものがある。
これは、
声高に愛を叫ばなくても伝わる想いと、
何も奪わないからこそ育っていく信頼を描く、
静かでやさしい結婚生活の物語。
幼馴染が最優先な婚約者など、私の人生には不要です。
たると
恋愛
シュタイン伯爵家の長女エルゼは、公爵子息フィリップに恋をしていた。
彼の婚約者として選ばれた時は涙を流して喜んだが、その喜びもいまは遠い。
『君は一人でも大丈夫だろう。この埋め合わせは必ずする。愛している』
「……『愛している』、ですか」
いつも幼馴染を優先するアルベルトに、恋心はすっかり冷めてしまった。
「病弱な従妹に思いやりがない」? 婚約者様、それが私に何の関係が?
さんけい
恋愛
婚約者リチャードは、約束のたびに「病弱な従妹エミリーが」と言ってイブリンを後回しにした。最初は思いやりだと信じていた。だが、それが一度や二度ではなく、婚約者としての敬意も誠実さも踏みにじられ続けた末、イブリンはついに婚約の継続を拒む。
ところが、事はただの婚約破棄では終わらなかった。
弱々しく見える従妹エミリーは、どうにも“ただ可哀想なだけの娘”ではない。人によって態度を変え、相手の良心につけ込み、じわじわと人間関係を侵していくその姿に、イブリンの家族は次第に違和感を強めていく。やがてその違和感は、婚約者個人の未熟さだけでなく、相手の家そのものが抱える歪みへとつながっていき――。
家族に守られながら婚約解消へ進むヒロインと、見えているのに見誤り続けた婚約者。
そして“病弱な従妹”の奥に潜んでいたものとは。
婚約破棄から始まる、じわりと不穏で、最後にはきっちり決着する人間ドラマ。
全90回。予約投稿済みです。
6時と17時に更新致します。
何もしなかっただけです
希臘楽園
ファンタジー
公爵令嬢であり王太子の婚約者であった私は、「地味だ」という理由で婚約を破棄され、王宮を去った。
それまで私が担っていた役目を、誰も知らないまま。
――ただ何もしなくなっただけで、すべては静かに崩れていく。
AIに書かせてみた第14弾は、「追放ざまぁ」系の短編。
婚約破棄された悪役令嬢ですが、面倒なので全部放置します
かきんとう
恋愛
王都の大広間に、どよめきが広がった。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、何百もの蝋燭の光を反射し、きらきらと輝いている。その光の中心に立つ私は、妙に他人事のような気分で、その場の空気を眺めていた。
「エレノア・フォン・リーベルト! 私は貴様との婚約をここに破棄する!」
高らかに宣言したのは、第一王子であり私の婚約者でもあったアルベルト殿下だった。
周囲の貴族たちが一斉に息を呑み、次の瞬間には小声のざわめきが連鎖のように広がっていく。
――ああ、ついに来たのね。
【完結】私ではなく義妹を選んだ婚約者様
水月 潮
恋愛
セリーヌ・ヴォクレール伯爵令嬢はイアン・クレマン子爵令息と婚約している。
セリーヌは留学から帰国した翌日、イアンからセリーヌと婚約解消して、セリーヌの義妹のミリィと新たに婚約すると告げられる。
セリーヌが外国に短期留学で留守にしている間、彼らは接触し、二人の間には子までいるそうだ。
セリーヌの父もミリィの母もミリィとイアンが婚約することに大賛成で、二人でヴォクレール伯爵家を盛り立てて欲しいとのこと。
お父様、あなたお忘れなの? ヴォクレール伯爵家は亡くなった私のお母様の実家であり、お父様、ひいてはミリィには伯爵家に関する権利なんて何一つないことを。
※設定は緩いので、物語としてお楽しみ頂けたらと思います
※最終話まで執筆済み
完結保証です
*HOTランキング10位↑到達(2021.6.30)
感謝です*.*
HOTランキング2位(2021.7.1)