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第24話:商会の心臓
「この機械はな、前の使い手の癖に合わせて極限までチューニングされてるんだ」
サイモンは汚れた布で手を拭いながら、忌々しげに言った。
「右利きの力加減、指の長さ、呼吸のリズム……。そういう人間側の要素に合わせて、機械の方が進化してやがる。だから、他人が触った途端に拒絶反応を起こすんだよ」
――拒絶反応。
マティアスは、沈黙した鉄の塊を見つめた。
ただの道具だと思っていた。
金を出せば買える、代替可能な資産だと。
だが、違った。
この工房のすべての機械は、クララの一部だったのだ。
彼女の手足となり、彼女の思考を物理世界に具現化するための、専用の義肢のようなものだったのだ。
「直せないのか?」
マティアスは震える声で尋ねた。
「元の、標準的な設定に戻せばいいだろう」
サイモンは鼻で笑った。
「無理だな。この改造に使われてるネジ一本でさえ、市場には出回ってない特注品だ。設計図もなしにバラしたら、二度と組み立てられねえぞ」
「そんな……」
マティアスは膝から崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。
マニュアルは難解すぎて読めない。
機械は所有者を失って動かない。
工房は、死んでいた。
クララが出て行ったあの日、ここはただの空っぽの箱になったのではなく、生命維持装置を失った死体へと変わっていたのだ。
「……旦那。あんた、とんでもない名工を逃がしちまったな」
サイモンが憐れむような目でマティアスを見た。
「このマニュアルもそうだ。最初はデタラメかと思ったが、よく見りゃあ、物理法則の裏の裏まで計算して書いてある。俺たちじゃ逆立ちしても理解できねえ神の領域の代物だ」
彼は革表紙のファイルを、宝物のように、あるいは恐ろしい呪物のように机に戻した。
「悪いが、俺たちには手に負えねえ。金はいらねえから、帰らせてもらう」
「ま、待ってくれ! 君たちがいなくなったら、誰が作るんだ!」
マティアスは懇願した。
プライドもかなぐり捨てて、老職人の袖を掴んだ。
だが、サイモンはその手を静かに振り払った。
「前の担当者はあんたの奥さんなんだろう? だったら、あんたの奥さん連れて来な。このじゃじゃ馬を手懐けられるのは、世界中で彼女一人だけだ」
職人たちは道具をまとめ、逃げるように去っていった。
ガランとした地下室に、再び静寂が戻る。
マティアスは一人、動かない研磨機の前で立ち尽くした。
機械の表面には、クララが使い込んだ痕跡――塗装の剥げや、小さな傷が残っている。
かつて彼は、それを「汚い」と罵った。
新品に買い換えろと言った。
だが、その汚れこそが、この機械に命を吹き込んでいた魂だったのだ。
「……クララ」
初めて、彼の中に純粋な焦燥以外の感情が芽生えた。
それは、自分がとてつもなく巨大な喪失の只中にいるという、遅すぎる自覚だった。
彼は革表紙のファイルを手に取った。
パラパラとめくる。
そこには、彼女の文字でびっしりと書き込まれた数字がある。
それは暗号ではない。
彼女が二年間、孤独な夜に積み上げてきた、彼への無言の献身の記録だった。
効率という名の暴力で彼が切り捨ててきた過程のすべてが、そこに凝縮されていた。
マティアスは眼鏡を外し、顔を覆った。
動かない機械たちは、主人の帰還を待つ忠犬のように、沈黙を守り続けている。
しかし、その主人はもう、二度と帰ってこない。
納期まで、あと三日。
ゲイル商会の心臓は、完全に停止した。
サイモンは汚れた布で手を拭いながら、忌々しげに言った。
「右利きの力加減、指の長さ、呼吸のリズム……。そういう人間側の要素に合わせて、機械の方が進化してやがる。だから、他人が触った途端に拒絶反応を起こすんだよ」
――拒絶反応。
マティアスは、沈黙した鉄の塊を見つめた。
ただの道具だと思っていた。
金を出せば買える、代替可能な資産だと。
だが、違った。
この工房のすべての機械は、クララの一部だったのだ。
彼女の手足となり、彼女の思考を物理世界に具現化するための、専用の義肢のようなものだったのだ。
「直せないのか?」
マティアスは震える声で尋ねた。
「元の、標準的な設定に戻せばいいだろう」
サイモンは鼻で笑った。
「無理だな。この改造に使われてるネジ一本でさえ、市場には出回ってない特注品だ。設計図もなしにバラしたら、二度と組み立てられねえぞ」
「そんな……」
マティアスは膝から崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。
マニュアルは難解すぎて読めない。
機械は所有者を失って動かない。
工房は、死んでいた。
クララが出て行ったあの日、ここはただの空っぽの箱になったのではなく、生命維持装置を失った死体へと変わっていたのだ。
「……旦那。あんた、とんでもない名工を逃がしちまったな」
サイモンが憐れむような目でマティアスを見た。
「このマニュアルもそうだ。最初はデタラメかと思ったが、よく見りゃあ、物理法則の裏の裏まで計算して書いてある。俺たちじゃ逆立ちしても理解できねえ神の領域の代物だ」
彼は革表紙のファイルを、宝物のように、あるいは恐ろしい呪物のように机に戻した。
「悪いが、俺たちには手に負えねえ。金はいらねえから、帰らせてもらう」
「ま、待ってくれ! 君たちがいなくなったら、誰が作るんだ!」
マティアスは懇願した。
プライドもかなぐり捨てて、老職人の袖を掴んだ。
だが、サイモンはその手を静かに振り払った。
「前の担当者はあんたの奥さんなんだろう? だったら、あんたの奥さん連れて来な。このじゃじゃ馬を手懐けられるのは、世界中で彼女一人だけだ」
職人たちは道具をまとめ、逃げるように去っていった。
ガランとした地下室に、再び静寂が戻る。
マティアスは一人、動かない研磨機の前で立ち尽くした。
機械の表面には、クララが使い込んだ痕跡――塗装の剥げや、小さな傷が残っている。
かつて彼は、それを「汚い」と罵った。
新品に買い換えろと言った。
だが、その汚れこそが、この機械に命を吹き込んでいた魂だったのだ。
「……クララ」
初めて、彼の中に純粋な焦燥以外の感情が芽生えた。
それは、自分がとてつもなく巨大な喪失の只中にいるという、遅すぎる自覚だった。
彼は革表紙のファイルを手に取った。
パラパラとめくる。
そこには、彼女の文字でびっしりと書き込まれた数字がある。
それは暗号ではない。
彼女が二年間、孤独な夜に積み上げてきた、彼への無言の献身の記録だった。
効率という名の暴力で彼が切り捨ててきた過程のすべてが、そこに凝縮されていた。
マティアスは眼鏡を外し、顔を覆った。
動かない機械たちは、主人の帰還を待つ忠犬のように、沈黙を守り続けている。
しかし、その主人はもう、二度と帰ってこない。
納期まで、あと三日。
ゲイル商会の心臓は、完全に停止した。
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4/1「エステルに対する殺意」の内容を一部変更しました。