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第36話:ガラスの靴は、もう磨かない
マティアスが大切に保管していた物。
それは、『No.0925 - M.G.』と刻印された、あの最初のレンズだ。
彼はそれを震える手で取り出し、そっと優しく撫でた。
冷たいガラスの感触だけが、彼に残された唯一の温もりだった。
「……今日は、いい天気だな、クララ」
彼はレンズに向かって独り言ちた。
もちろん、返事はない。
かつて彼が「感情は無駄だ」と切り捨てた妻は、今や手の届かない場所で、彼が失った輝きそのものになっていた。
街で彼女の噂を聞くたび、心臓を抉られるような痛みが走る。
その称賛は、かつて彼が独占していたものだった。
彼だけがその価値を知り、守り育てることができたはずの宝石だった。
だが、彼はそれを自らドブに捨て、イザベラというメッキの石ころを拾ったのだ。
その代償は、一生かけても支払い切れない後悔という名の負債だった。
マティアスはレンズを布で包み、引き出しの奥に戻した。
彼にはもう、彼女に会いに行く資格さえない。
ただ、遠くから彼女の成功を祈り、自分の愚かさを噛み締めながら、灰色の余生を送り続けること。
それが、彼に与えられた唯一の贖罪なのだろう。
彼は再びペンを取り、赤字だらけの帳簿に向かった。
その背中は、以前よりもずっと小さく、寂しげに見えた。
クララの工房。
エマが遠慮がちに尋ねた。
「先生。先ほど、あちらの通りで……、少し古びた服を着た男性が、ずっとこの店を見ていました。眼鏡をかけた方でしたが、お知り合いですか?」
クララは紅茶を一口飲み、静かに首を横に振った。
「いいえ。知らない人よ」
その声には、迷いも未練もなかった。
彼女にとって、マティアスはもう過去のデータに過ぎない。
憎しみも、悲しみも、すでに風化している。
今、彼女の心にあるのは、目の前の宝石をどう輝かせるかという情熱と、自分を慕ってくれる弟子たちへの愛情、そして何より、自分自身を大切にできるという安らぎだけだ。
クララは立ち上がり、新しい設計図を広げた。
そこには、複雑な数式と共に、美しいティアラのデザインが描かれている。
それは、今度の王太子妃の成婚式のために依頼されたものだ。
「さあ、仕事に戻りましょう。この石が、一番美しく輝く角度を見つけてあげないと」
彼女は微笑んだ。
その笑顔は、かつて夫の前で見せていた作り物の微笑みではない。
内側から溢れ出る自信と、人生を自分の足で歩んでいる者だけが持つ、眩しいほどの輝きに満ちていた。
窓から差し込む光が、彼女の手元のサファイアを照らす。
その青い煌めきは、彼女の瞳と同じ色をしていた。
誰のためでもない。
彼女自身の人生を照らす、嘘のない光。
硝子の靴は、もう磨かない。
彼女はこの足で、どこへだって行けるのだから。
それは、『No.0925 - M.G.』と刻印された、あの最初のレンズだ。
彼はそれを震える手で取り出し、そっと優しく撫でた。
冷たいガラスの感触だけが、彼に残された唯一の温もりだった。
「……今日は、いい天気だな、クララ」
彼はレンズに向かって独り言ちた。
もちろん、返事はない。
かつて彼が「感情は無駄だ」と切り捨てた妻は、今や手の届かない場所で、彼が失った輝きそのものになっていた。
街で彼女の噂を聞くたび、心臓を抉られるような痛みが走る。
その称賛は、かつて彼が独占していたものだった。
彼だけがその価値を知り、守り育てることができたはずの宝石だった。
だが、彼はそれを自らドブに捨て、イザベラというメッキの石ころを拾ったのだ。
その代償は、一生かけても支払い切れない後悔という名の負債だった。
マティアスはレンズを布で包み、引き出しの奥に戻した。
彼にはもう、彼女に会いに行く資格さえない。
ただ、遠くから彼女の成功を祈り、自分の愚かさを噛み締めながら、灰色の余生を送り続けること。
それが、彼に与えられた唯一の贖罪なのだろう。
彼は再びペンを取り、赤字だらけの帳簿に向かった。
その背中は、以前よりもずっと小さく、寂しげに見えた。
クララの工房。
エマが遠慮がちに尋ねた。
「先生。先ほど、あちらの通りで……、少し古びた服を着た男性が、ずっとこの店を見ていました。眼鏡をかけた方でしたが、お知り合いですか?」
クララは紅茶を一口飲み、静かに首を横に振った。
「いいえ。知らない人よ」
その声には、迷いも未練もなかった。
彼女にとって、マティアスはもう過去のデータに過ぎない。
憎しみも、悲しみも、すでに風化している。
今、彼女の心にあるのは、目の前の宝石をどう輝かせるかという情熱と、自分を慕ってくれる弟子たちへの愛情、そして何より、自分自身を大切にできるという安らぎだけだ。
クララは立ち上がり、新しい設計図を広げた。
そこには、複雑な数式と共に、美しいティアラのデザインが描かれている。
それは、今度の王太子妃の成婚式のために依頼されたものだ。
「さあ、仕事に戻りましょう。この石が、一番美しく輝く角度を見つけてあげないと」
彼女は微笑んだ。
その笑顔は、かつて夫の前で見せていた作り物の微笑みではない。
内側から溢れ出る自信と、人生を自分の足で歩んでいる者だけが持つ、眩しいほどの輝きに満ちていた。
窓から差し込む光が、彼女の手元のサファイアを照らす。
その青い煌めきは、彼女の瞳と同じ色をしていた。
誰のためでもない。
彼女自身の人生を照らす、嘘のない光。
硝子の靴は、もう磨かない。
彼女はこの足で、どこへだって行けるのだから。
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