3 / 38
第3話:傷心している妹
傷心している妹のソフィア。
彼女が発作――過呼吸や癇癪――を起こすのは、これが初めてではない。
彼女が婚約者に婚約破棄を言い渡されてから、事あるごとに騒ぎ立てている。
もちろん、家族だから心配ではある。
だが、実家には両親がいる。
使用人も大勢いる。
医師だってすぐに呼べるはずだ。
なぜ、別の家庭を持っている義理の兄であるエリアスが、結婚記念日の夜に駆けつけなければならないのか。
――君は強くて賢い女性だ。僕がいなくても、一人で食事を楽しめるだろう?
手紙のその一文が、鋭利な刃物のように胸に突き刺さった。
一人で楽しむ?
冷めきった料理と、誰もいない椅子を前にして?
私が強いから?
だから、私との約束は破ってもいいと?
「……奥様」
サイラスの痛ましげな声で、アデライドは我に返った。
自分がどんな顔をしているのか、自分でも分からない。
もしかしたら、鬼のような形相をしているかもしれない。
あるいは、惨めに泣き出しそうになっているかもしれない。
アデライドは深く息を吸い込み、肺の中で冷たい空気を循環させた。
そして、顔を上げる。
その唇には、洗練された完璧な微笑みが浮かんでいた。
「仕方ありませんわね」
その声は、驚くほど平坦だった。
「ソフィアは繊細な子ですもの。エリアス様がお優しくて、放っておけなかったのでしょう。夫が人助けをしているのです、妻として誇りに思いこそすれ、責めるわけにはいきませんわ」
サイラスが目を見開いた。
彼には分かっていたのだろう。
その笑顔が、感情を完全に遮断した結果であることを。
アデライドは立ち上がり、冷めた鴨のコンフィを見下ろした。
「これを下げてちょうだい。もう食欲がないわ」
「……承知いたしました。何か、温かいハーブティーでもお持ちしましょうか」
「いいえ、結構よ。疲れたから休むわ。エリアス様が戻られたら、起こさないようにと伝えて」
アデライドは背を向け、ダイニングルームを出て行く。
ドレスの裾が床を擦る音だけが、静寂の中に響いた。
寝室に戻り、一人でドレスの紐を解く。
鏡に映る自分の顔は、能面のように無表情だった。
怒りたかった。
悲しみで叫びたかった。
「私のために帰ってきて」と言いたかった。
でも、そんなことをすれば、心の狭い姉、理解のない妻のレッテルを貼られるだけだ。
エリアスは悪人ではない。
ソフィアも、ただ弱いだけだ。
誰も悪くない。
だからこそ、この窒息しそうな苦しみには行き場がない。
アデライドは冷たいシーツに潜り込み、目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、夫の優しい笑顔と、妹の濡れた瞳。
そして、「君は強いから」という残酷な信頼の言葉。
時計の針が日付をまたいだ。
結婚四周年目の始まりは、夫の不在と、静かな諦めと共に訪れた。
アデライドの中で、何かがひび割れていく音がした。
それは、丹精込めて焼き上げた陶器に、冷水を浴びせた時に生じる貫入の音に似ていた。
もう、期待するのはやめよう。
そう思った瞬間、不思議と涙は出なかった。
ただ、心臓のあたりが凍りついたように冷たく、重くなっただけだった。
彼女が発作――過呼吸や癇癪――を起こすのは、これが初めてではない。
彼女が婚約者に婚約破棄を言い渡されてから、事あるごとに騒ぎ立てている。
もちろん、家族だから心配ではある。
だが、実家には両親がいる。
使用人も大勢いる。
医師だってすぐに呼べるはずだ。
なぜ、別の家庭を持っている義理の兄であるエリアスが、結婚記念日の夜に駆けつけなければならないのか。
――君は強くて賢い女性だ。僕がいなくても、一人で食事を楽しめるだろう?
手紙のその一文が、鋭利な刃物のように胸に突き刺さった。
一人で楽しむ?
冷めきった料理と、誰もいない椅子を前にして?
私が強いから?
だから、私との約束は破ってもいいと?
「……奥様」
サイラスの痛ましげな声で、アデライドは我に返った。
自分がどんな顔をしているのか、自分でも分からない。
もしかしたら、鬼のような形相をしているかもしれない。
あるいは、惨めに泣き出しそうになっているかもしれない。
アデライドは深く息を吸い込み、肺の中で冷たい空気を循環させた。
そして、顔を上げる。
その唇には、洗練された完璧な微笑みが浮かんでいた。
「仕方ありませんわね」
その声は、驚くほど平坦だった。
「ソフィアは繊細な子ですもの。エリアス様がお優しくて、放っておけなかったのでしょう。夫が人助けをしているのです、妻として誇りに思いこそすれ、責めるわけにはいきませんわ」
サイラスが目を見開いた。
彼には分かっていたのだろう。
その笑顔が、感情を完全に遮断した結果であることを。
アデライドは立ち上がり、冷めた鴨のコンフィを見下ろした。
「これを下げてちょうだい。もう食欲がないわ」
「……承知いたしました。何か、温かいハーブティーでもお持ちしましょうか」
「いいえ、結構よ。疲れたから休むわ。エリアス様が戻られたら、起こさないようにと伝えて」
アデライドは背を向け、ダイニングルームを出て行く。
ドレスの裾が床を擦る音だけが、静寂の中に響いた。
寝室に戻り、一人でドレスの紐を解く。
鏡に映る自分の顔は、能面のように無表情だった。
怒りたかった。
悲しみで叫びたかった。
「私のために帰ってきて」と言いたかった。
でも、そんなことをすれば、心の狭い姉、理解のない妻のレッテルを貼られるだけだ。
エリアスは悪人ではない。
ソフィアも、ただ弱いだけだ。
誰も悪くない。
だからこそ、この窒息しそうな苦しみには行き場がない。
アデライドは冷たいシーツに潜り込み、目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、夫の優しい笑顔と、妹の濡れた瞳。
そして、「君は強いから」という残酷な信頼の言葉。
時計の針が日付をまたいだ。
結婚四周年目の始まりは、夫の不在と、静かな諦めと共に訪れた。
アデライドの中で、何かがひび割れていく音がした。
それは、丹精込めて焼き上げた陶器に、冷水を浴びせた時に生じる貫入の音に似ていた。
もう、期待するのはやめよう。
そう思った瞬間、不思議と涙は出なかった。
ただ、心臓のあたりが凍りついたように冷たく、重くなっただけだった。
あなたにおすすめの小説
もう二度と、あなたの傷を引き受けません ~死に戻った治癒師伯爵夫人は、冷血公爵の最愛になる~
ゆぷしろん
恋愛
傷を癒やすたび、自分が同じ傷を負う――そんな代償つきの治癒魔法を持つ伯爵夫人セレフィナは、夫を救い続けた末に裏切られ、罪を着せられて処刑される。
しかし死の直前、「もう二度と、あなたの傷は引き受けない」と誓った瞬間、彼女は夫の凱旋祝賀会の日へ死に戻っていた。
今度こそ搾取されるだけの人生を捨てると決めたセレフィナは、夫との治癒契約を破棄し、離縁を宣言。そんな彼女に手を差し伸べたのは、“冷血公爵”と恐れられるディートハルトだった。
彼が求めたのは命を削る奇跡ではなく、治癒師としての知識と才能。北辺境で広がる奇病を調査する中で、セレフィナは研究者として認められ、本当の居場所と誠実な愛を見つけていく。
搾取の愛を捨てた治癒師伯爵夫人が、自分の人生を取り戻し、冷血公爵の最愛になる死に戻り逆転ロマンス。
『病弱な幼馴染を優先してください』と言った妻が消えた翌日、夫は領地の会計書類が全て白紙になっていることに気づいた
歩人
ファンタジー
侯爵家に嫁いで五年。ルチアは夫エミルの領地会計・社交・使用人管理を全て一人で担ってきた。だがエミルはいつも幼馴染のアリーチェを優先する。「アリーチェは体が弱いんだ、お前とは違う」——その言葉を百回聞いた日、ルチアは微笑んで離縁届に署名した。「ええ、私は丈夫ですから。どうぞ幼馴染様をお大事に」。翌朝、エミルが目にしたのは——税務報告の締切、領民からの陳情の山、そして紅茶の淹れ方すら知らない自分。三ヶ月後、かつて「地味な妻」と呼ばれたルチアは、辺境伯の財務顧問として辣腕を振るっていた。
あなたの幸せを、心からお祈りしています
たくわん
恋愛
「平民の娘ごときが、騎士の妻になれると思ったのか」
宮廷音楽家の娘リディアは、愛を誓い合った騎士エドゥアルトから、一方的に婚約破棄を告げられる。理由は「身分違い」。彼が選んだのは、爵位と持参金を持つ貴族令嬢だった。
傷ついた心を抱えながらも、リディアは決意する。
「音楽の道で、誰にも見下されない存在になってみせる」
革新的な合奏曲の創作、宮廷初の「音楽会」の開催、そして若き隣国王子との出会い——。
才能と努力だけを武器に、リディアは宮廷音楽界の頂点へと駆け上がっていく。
一方、妻の浪費と実家の圧力に苦しむエドゥアルトは、次第に転落の道を辿り始める。そして彼は気づくのだ。自分が何を失ったのかを。
妹が嫌がっているからと婚約破棄したではありませんか。それで路頭に迷ったと言われても困ります。
木山楽斗
恋愛
伯爵令嬢であるラナーシャは、妹同伴で挨拶をしに来た婚約者に驚くことになった。
事前に知らされていなかったことであるため、面食らうことになったのである。
しかもその妹は、態度が悪かった。明らかにラナーシャに対して、敵意を抱いていたのだ。
だがそれでも、ラナーシャは彼女を受け入れた。父親がもたらしてくれた婚約を破談してはならないと、彼女は思っていたのだ。
しかしそんな彼女の思いは二人に裏切られることになる。婚約者は、妹が嫌がっているからという理由で、婚約破棄を言い渡してきたのだ。
呆気に取られていたラナーシャだったが、二人の意思は固かった。
婚約は敢え無く破談となってしまったのだ。
その事実に、ラナーシャの両親は憤っていた。
故に相手の伯爵家に抗議した所、既に処分がなされているという返答が返ってきた。
ラナーシャの元婚約者と妹は、伯爵家を追い出されていたのである。
程なくして、ラナーシャの元に件の二人がやって来た。
典型的な貴族であった二人は、家を追い出されてどうしていいかわからず、あろうことかラナーシャのことを頼ってきたのだ。
ラナーシャにそんな二人を助ける義理はなかった。
彼女は二人を追い返して、事なきを得たのだった。
これで、私も自由になれます
たくわん
恋愛
社交界で「地味で会話がつまらない」と評判のエリザベート・フォン・リヒテンシュタイン。婚約者である公爵家の長男アレクサンダーから、舞踏会の場で突然婚約破棄を告げられる。理由は「華やかで魅力的な」子爵令嬢ソフィアとの恋。エリザベートは静かに受け入れ、社交界の噂話の的になる。
幼馴染が最優先な婚約者など、私の人生には不要です。
たると
恋愛
シュタイン伯爵家の長女エルゼは、公爵子息フィリップに恋をしていた。
彼の婚約者として選ばれた時は涙を流して喜んだが、その喜びもいまは遠い。
『君は一人でも大丈夫だろう。この埋め合わせは必ずする。愛している』
「……『愛している』、ですか」
いつも幼馴染を優先するアルベルトに、恋心はすっかり冷めてしまった。
そちらから縁を切ったのですから、今更頼らないでください。
木山楽斗
恋愛
伯爵家の令嬢であるアルシエラは、高慢な妹とそんな妹ばかり溺愛する両親に嫌気が差していた。
ある時、彼女は父親から縁を切ることを言い渡される。アルシエラのとある行動が気に食わなかった妹が、父親にそう進言したのだ。
不安はあったが、アルシエラはそれを受け入れた。
ある程度の年齢に達した時から、彼女は実家に見切りをつけるべきだと思っていた。丁度いい機会だったので、それを実行することにしたのだ。
伯爵家を追い出された彼女は、商人としての生活を送っていた。
偶然にも人脈に恵まれた彼女は、着々と力を付けていき、見事成功を収めたのである。
そんな彼女の元に、実家から申し出があった。
事情があって窮地に立たされた伯爵家が、支援を求めてきたのだ。
しかしながら、そんな義理がある訳がなかった。
アルシエラは、両親や妹からの申し出をきっぱりと断ったのである。
※8話からの登場人物の名前を変更しました。1話の登場人物とは別人です。(バーキントン→ラナキンス)
貴方が選んだのは全てを捧げて貴方を愛した私ではありませんでした
ましゅぺちーの
恋愛
王国の名門公爵家の出身であるエレンは幼い頃から婚約者候補である第一王子殿下に全てを捧げて生きてきた。
彼を数々の悪意から守り、彼の敵を排除した。それも全ては愛する彼のため。
しかし、王太子となった彼が最終的には選んだのはエレンではない平民の女だった。
悲しみに暮れたエレンだったが、家族や幼馴染の公爵令息に支えられて元気を取り戻していく。
その一方エレンを捨てた王太子は着々と破滅への道を進んでいた・・・