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第4話:帰ってきた夫の正当化
翌朝、食堂の空気は張り詰めていた。
アデライドはいつもの席に座り、湯気の立たない紅茶をじっと見つめていた。
一睡もできなかったが、化粧で隈を隠し、髪も完璧に整えている。
乱れを見せることは、彼女のプライドが許さなかった。
午前八時を過ぎた頃、玄関ホールが騒がしくなった。
足早な靴音と共に、扉が開かれる。
「アデライド! すまない、遅くなった」
飛び込んできたのは、夫のエリアスだった。
彼の蜂蜜色の髪は乱れ、ワイシャツの襟元は少し緩んでいる。
目の下には疲労の色が濃く滲んでいたが、その瞳には妻への罪悪感と、それ以上に、やり遂げた男特有の妙な高揚感が混ざっていた。
アデライドはカップをソーサーに置き、ゆっくりと顔を上げた。
「お帰りなさいませ、エリアス様。……随分とお疲れのようですね」
「ああ、本当に大変だったんだ。ソフィアが……、彼女が錯乱状態で、僕の腕を掴んで離さなくてね。鎮静剤を飲ませて落ち着くまで、一晩中そばにいてやるしかなかったんだ」
エリアスは席に着くなり、使用人が注いだコーヒーを一気に煽った。
ふう、と大きく息を吐き出すその仕草には、アデライドに対する甘えが見え隠れする。
「大変だった僕を労ってほしい」という無言の要求だ。
アデライドの鼻腔を、微かな甘い香りがくすぐった。
それはエリアスの移り香ではない。
ソフィアが愛用している、ローズとバニラを合わせた香水の匂いだ。
一晩中、抱きとめられていたのだろうか。
あるいは、泣きつく妹の頭を撫で続けていたのだろうか。
想像するだけで、胃の腑に冷たい鉛が落ちていくような感覚を覚える。
「……ソフィアは、今は落ち着いているのですか?」
「うん、やっと眠ったよ。使用人たちも疲れ切っていたから、僕がついていないと駄目だったんだ。君のご両親もオロオロするばかりで……、やはり、僕がしっかりしないといけないと思ってね」
エリアスは「やれやれ」といった様子で肩をすくめたが、その口調にはどこか誇らしげな響きがあった。
誰かに必要とされ、頼られる自分。
可哀想な義妹を救った自分。
その自己陶酔の裏で、妻との結婚記念日が踏みにじられた事実が、彼の中では仕方ない犠牲として処理されているのが手にとるように分かった。
アデライドはテーブルの下で、ドレスの生地をきつく握りしめた。
爪が食い込む痛みで、湧き上がる感情を必死に抑え込む。
「そうですか。……エリアス様、昨夜は私たちの結婚記念日でした。ご記憶にありますか?」
努めて冷静に、事実だけを問う。
エリアスの表情が少し曇った。
バツが悪そうに視線を逸らす。
「もちろん覚えているよ。だから手紙も出しただろう? 本当に悪かったと思っている。でも、緊急事態だったんだ。人の命に関わるかもしれない状況で、僕たちのお祝いを優先するなんて、そんな薄情なことはできないだろう?」
薄情。
その言葉に、アデライドは息を呑んだ。
約束を守ってほしいと願うことが、薄情だというのか。
自分の妻を優先することが、罪だというのか。
「ソフィアには医師も、両親もついていました。使用人もいます。エリアス様がお一人で背負う必要があったのでしょうか」
「アデライド、君は現場を見ていないからそんな冷静なことが言えるんだ!」
エリアスが少し声を荒らげた。
自分を正当化しようとする時、人は往々にして攻撃的になる。
「彼女は婚約者に裏切られて、心に深い傷を負っているんだよ。誰も信じられない状態で、唯一、義兄である僕にだけ心を許してくれているんだ。そんな彼女を突き放せというのかい?」
エリアスは立ち上がり、アデライドのそばに歩み寄った。
そして、彼女の肩に優しく手を置く。
その手のひらの温もりが、今はひどく不快だった。
彼は覗き込むようにして、アデライドの瞳を見つめた。
その瞳は、純粋な善意と信頼に満ちている。
悪気など欠片もない、残酷なほどの純真さで……。
アデライドはいつもの席に座り、湯気の立たない紅茶をじっと見つめていた。
一睡もできなかったが、化粧で隈を隠し、髪も完璧に整えている。
乱れを見せることは、彼女のプライドが許さなかった。
午前八時を過ぎた頃、玄関ホールが騒がしくなった。
足早な靴音と共に、扉が開かれる。
「アデライド! すまない、遅くなった」
飛び込んできたのは、夫のエリアスだった。
彼の蜂蜜色の髪は乱れ、ワイシャツの襟元は少し緩んでいる。
目の下には疲労の色が濃く滲んでいたが、その瞳には妻への罪悪感と、それ以上に、やり遂げた男特有の妙な高揚感が混ざっていた。
アデライドはカップをソーサーに置き、ゆっくりと顔を上げた。
「お帰りなさいませ、エリアス様。……随分とお疲れのようですね」
「ああ、本当に大変だったんだ。ソフィアが……、彼女が錯乱状態で、僕の腕を掴んで離さなくてね。鎮静剤を飲ませて落ち着くまで、一晩中そばにいてやるしかなかったんだ」
エリアスは席に着くなり、使用人が注いだコーヒーを一気に煽った。
ふう、と大きく息を吐き出すその仕草には、アデライドに対する甘えが見え隠れする。
「大変だった僕を労ってほしい」という無言の要求だ。
アデライドの鼻腔を、微かな甘い香りがくすぐった。
それはエリアスの移り香ではない。
ソフィアが愛用している、ローズとバニラを合わせた香水の匂いだ。
一晩中、抱きとめられていたのだろうか。
あるいは、泣きつく妹の頭を撫で続けていたのだろうか。
想像するだけで、胃の腑に冷たい鉛が落ちていくような感覚を覚える。
「……ソフィアは、今は落ち着いているのですか?」
「うん、やっと眠ったよ。使用人たちも疲れ切っていたから、僕がついていないと駄目だったんだ。君のご両親もオロオロするばかりで……、やはり、僕がしっかりしないといけないと思ってね」
エリアスは「やれやれ」といった様子で肩をすくめたが、その口調にはどこか誇らしげな響きがあった。
誰かに必要とされ、頼られる自分。
可哀想な義妹を救った自分。
その自己陶酔の裏で、妻との結婚記念日が踏みにじられた事実が、彼の中では仕方ない犠牲として処理されているのが手にとるように分かった。
アデライドはテーブルの下で、ドレスの生地をきつく握りしめた。
爪が食い込む痛みで、湧き上がる感情を必死に抑え込む。
「そうですか。……エリアス様、昨夜は私たちの結婚記念日でした。ご記憶にありますか?」
努めて冷静に、事実だけを問う。
エリアスの表情が少し曇った。
バツが悪そうに視線を逸らす。
「もちろん覚えているよ。だから手紙も出しただろう? 本当に悪かったと思っている。でも、緊急事態だったんだ。人の命に関わるかもしれない状況で、僕たちのお祝いを優先するなんて、そんな薄情なことはできないだろう?」
薄情。
その言葉に、アデライドは息を呑んだ。
約束を守ってほしいと願うことが、薄情だというのか。
自分の妻を優先することが、罪だというのか。
「ソフィアには医師も、両親もついていました。使用人もいます。エリアス様がお一人で背負う必要があったのでしょうか」
「アデライド、君は現場を見ていないからそんな冷静なことが言えるんだ!」
エリアスが少し声を荒らげた。
自分を正当化しようとする時、人は往々にして攻撃的になる。
「彼女は婚約者に裏切られて、心に深い傷を負っているんだよ。誰も信じられない状態で、唯一、義兄である僕にだけ心を許してくれているんだ。そんな彼女を突き放せというのかい?」
エリアスは立ち上がり、アデライドのそばに歩み寄った。
そして、彼女の肩に優しく手を置く。
その手のひらの温もりが、今はひどく不快だった。
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その瞳は、純粋な善意と信頼に満ちている。
悪気など欠片もない、残酷なほどの純真さで……。
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