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第6話:冷たく美しい微笑み
ガタゴトと車輪が石畳を叩く音が、規則正しく響いている。
アデライドは工房へ向かう馬車の中で、流れる景色をぼんやりと眺めていた。
王都の空は抜けるように青い。
昨夜の雨が嘘のようだ。
けれど、アデライドの心にあるのは、嵐が過ぎ去った後の清々しさではない。
すべてがなぎ倒され、泥にまみれ、再生不可能になった廃墟の静けさだった。
(……不思議ね)
彼女は革手袋に包まれた自分の手を膝の上で組んだ。
怒りも、悲しみも、もう湧いてこない。
ただ、事務的な思考だけがカチコチと音を立てて回っている。
エリアスは言った。
「君は強いから」と。
それは、「君には手をかけなくていい」「君は放置しても壊れない」という、彼にとっての都合の良い解釈だ。
ならば、その期待に応えてあげよう。
強くなる。
貴方が想像もしない方向へ。
貴方が必要とした時に、もう二度と手が届かない場所へ行けるほどに。
「奥様、到着いたしました」
御者の声で、アデライドは現実に引き戻された。
扉が開かれる。
彼女は完璧な姿勢でタラップを降りた。
その表情は、貴族令嬢として、工房の責任者として、一点の曇りもない微笑みで固定されていた。
工房の奥にある執務室。
ここはアデライドの聖域だ。
土埃と釉薬の匂いがする現場とは異なり、整然と書類が並ぶこの部屋だけが、彼女が世界をコントロールできる唯一の場所だった。
ノックの音がして、執事のサイラスが入ってきた。
彼の手には、重厚な革張りの鞄が握られている。
「……奥様。ご指示の品をお持ちいたしました」
「ありがとう、サイラス。早かったわね」
「旦那様が仮眠をとられている隙に、書斎の金庫と奥様の隠し金庫、双方から運び出しました。誰にも見られておりません」
サイラスは鞄を机の上に置き、中から数冊の帳簿と、束になった証書を取り出した。
アデライドは手袋を外し、素手でそれらに触れた。
一冊目は、実家であるクライスト伯爵家の真の経営帳簿。
二冊目は、アデライド個人がこの三年間で築き上げた資産の記録。
そして三つ目は、夫エリアスの口座から実家へ流れている資金の記録だ。
「……予想通りね」
アデライドは帳簿をめくり、あるページで指を止めた。
父であるクライスト伯爵が、工房の利益を交際費という名目で引き出している記録が並んでいる。
その額は、新しい窯を二つは作れるほどの金額だ。
そして、それだけではない。
「エリアス様からの支援金も、そのままお父様の借金返済と、ソフィアの浪費に消えているわ」
エリアスは「ソフィアが可哀想だ」と言って、個人的にクライスト家に援助をしていた。
アデライドはそれを知っていたが、夫の善意を否定することは憚られ、黙認していた。
だが、そのお金がどう使われているか、エリアスは知ろうともしなかったのだ。
「奥様。このままでは、奥様がどれだけ利益を出しても、底の抜けたバケツに水を注ぐようなものです」
サイラスの声には、抑えきれない憤りが混じっていた。
彼はアデライドが夜遅くまで釉薬の配合を研究し、泥だらけになって働いている姿を誰よりも近くで見てきた。
その結晶が、無能な家族と、無関心な夫によって食い潰されている事実が許せなかったのだ。
「ええ、分かっているわ。だから、もう終わりにしましょう」
アデライドはペンを取り、帳簿の余白にさらさらと計算式を書き込んだ。
「私がこの工房から手を引けば、クライスト家の経営は三ヶ月で立ち行かなくなる。職人たちには既に、私の紹介で別の工房へ移れるよう手配を進めているわ」
「……旦那様には、いつお話しになるのですか?」
「話さないわ」
アデライドは顔を上げ、サイラスを見て微笑んだ。
それは、昨夜エリアスに見せたものと同じ、冷たくて美しい微笑みだった。
アデライドは工房へ向かう馬車の中で、流れる景色をぼんやりと眺めていた。
王都の空は抜けるように青い。
昨夜の雨が嘘のようだ。
けれど、アデライドの心にあるのは、嵐が過ぎ去った後の清々しさではない。
すべてがなぎ倒され、泥にまみれ、再生不可能になった廃墟の静けさだった。
(……不思議ね)
彼女は革手袋に包まれた自分の手を膝の上で組んだ。
怒りも、悲しみも、もう湧いてこない。
ただ、事務的な思考だけがカチコチと音を立てて回っている。
エリアスは言った。
「君は強いから」と。
それは、「君には手をかけなくていい」「君は放置しても壊れない」という、彼にとっての都合の良い解釈だ。
ならば、その期待に応えてあげよう。
強くなる。
貴方が想像もしない方向へ。
貴方が必要とした時に、もう二度と手が届かない場所へ行けるほどに。
「奥様、到着いたしました」
御者の声で、アデライドは現実に引き戻された。
扉が開かれる。
彼女は完璧な姿勢でタラップを降りた。
その表情は、貴族令嬢として、工房の責任者として、一点の曇りもない微笑みで固定されていた。
工房の奥にある執務室。
ここはアデライドの聖域だ。
土埃と釉薬の匂いがする現場とは異なり、整然と書類が並ぶこの部屋だけが、彼女が世界をコントロールできる唯一の場所だった。
ノックの音がして、執事のサイラスが入ってきた。
彼の手には、重厚な革張りの鞄が握られている。
「……奥様。ご指示の品をお持ちいたしました」
「ありがとう、サイラス。早かったわね」
「旦那様が仮眠をとられている隙に、書斎の金庫と奥様の隠し金庫、双方から運び出しました。誰にも見られておりません」
サイラスは鞄を机の上に置き、中から数冊の帳簿と、束になった証書を取り出した。
アデライドは手袋を外し、素手でそれらに触れた。
一冊目は、実家であるクライスト伯爵家の真の経営帳簿。
二冊目は、アデライド個人がこの三年間で築き上げた資産の記録。
そして三つ目は、夫エリアスの口座から実家へ流れている資金の記録だ。
「……予想通りね」
アデライドは帳簿をめくり、あるページで指を止めた。
父であるクライスト伯爵が、工房の利益を交際費という名目で引き出している記録が並んでいる。
その額は、新しい窯を二つは作れるほどの金額だ。
そして、それだけではない。
「エリアス様からの支援金も、そのままお父様の借金返済と、ソフィアの浪費に消えているわ」
エリアスは「ソフィアが可哀想だ」と言って、個人的にクライスト家に援助をしていた。
アデライドはそれを知っていたが、夫の善意を否定することは憚られ、黙認していた。
だが、そのお金がどう使われているか、エリアスは知ろうともしなかったのだ。
「奥様。このままでは、奥様がどれだけ利益を出しても、底の抜けたバケツに水を注ぐようなものです」
サイラスの声には、抑えきれない憤りが混じっていた。
彼はアデライドが夜遅くまで釉薬の配合を研究し、泥だらけになって働いている姿を誰よりも近くで見てきた。
その結晶が、無能な家族と、無関心な夫によって食い潰されている事実が許せなかったのだ。
「ええ、分かっているわ。だから、もう終わりにしましょう」
アデライドはペンを取り、帳簿の余白にさらさらと計算式を書き込んだ。
「私がこの工房から手を引けば、クライスト家の経営は三ヶ月で立ち行かなくなる。職人たちには既に、私の紹介で別の工房へ移れるよう手配を進めているわ」
「……旦那様には、いつお話しになるのですか?」
「話さないわ」
アデライドは顔を上げ、サイラスを見て微笑んだ。
それは、昨夜エリアスに見せたものと同じ、冷たくて美しい微笑みだった。
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