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第8話:夫からの無神経な提案
「まあ、素敵なお花ですこと。ありがとうございます、エリアス様」
「だろう? 君には赤が似合うと思ったんだ。……昨夜の詫びと言ってはなんだが、僕の気持ちだ」
エリアスは満足げに頷き、ソファの隣に腰を下ろした。
そして、何気ない調子で切り出した。
「そういえば、今日ソフィアから手紙が来てね。『お義兄様のおかげで元気が出ました。お姉様にもご迷惑をおかけしてごめんなさい』と書いてあったよ。彼女も反省しているみたいだ」
「そうですか。それは何よりです」
「だからさ、今度の週末、気晴らしに三人で観劇でもどうかな? ソフィアも外に出たほうがいいと思うんだ」
アデライドは刺繍針を布に刺したまま、ゆっくりとエリアスを見た。
この期に及んで、また三人か。
この人の中には、夫婦二人だけの時間という概念が存在しないのだろうか。
それとも、アデライドと二人きりになるのが息苦しいのだろうか。
以前の彼女なら、「たまには二人で過ごしたい」と伝えていただろう。
あるいは、「ソフィアには別の友人と行かせては?」と提案したかもしれない。
けれど、今はもう、言葉にする労力さえ惜しかった。
何を言っても無駄なのだ。
暖簾に腕押し。
糠に釘。
期待して、裏切られて、傷つく。
そのサイクルはもう終わった。
アデライドの心の中で、シャッターが音を立てて完全に下りた。
「ええ、素晴らしい提案ですわね」
アデライドは目を細めて微笑んだ。
その瞳は、氷湖のように澄んでいるが、底が見えないほど暗い。
「ソフィアも喜びますわ。ぜひ、行って差し上げてください」
「うんうん、そうだろう……、って、え? 行って差し上げて? 君は行かないのかい?」
「あいにくですが、その日は工房で外せない窯焚きがございますの。職人総出で行う大事な作業ですので、私が抜けるわけにはいきません」
嘘だった。
窯焚きの予定などない。
ただ、もう一秒たりとも、彼らの茶番劇に付き合いたくなかっただけだ。
「そうか……、それは残念だな。でも仕事なら仕方ないね。君は責任感が強いから」
「はい。私は強いですから、どうぞお気になさらず」
アデライドは立ち上がった。
「少し疲れましたので、先にお休みさせていただきます。エリアス様も、明日に備えてゆっくりお休みください」
「ああ、おやすみ。……アデライド、本当に怒っていないかい?」
エリアスが不安そうに見上げてくる。
アデライドは扉の前で振り返り、今日一番の完璧な微笑みを見せた。
「怒るだなんて、とんでもない。私は貴方様のことを心から理解しておりますわ」
(貴方が、私を愛する気などないと理解しましたから……)
言葉にしなかった後半部分を飲み込み、アデライドは静かに扉を閉めた。
その閉まる音が、二人の関係の終わりを告げる決定的な音のように響いた。
廊下に出た瞬間、アデライドの顔から表情が抜け落ちた。
無感動、無関心。
彼女は自分の寝室へと向かう足を止めることなく、サイラスが待つ準備室へと歩を進めた。
もう、後ろを振り返ることはない。
陶器の心は一度割れたら戻らない。
そして、割れた破片は鋭利な刃物となって、踏みつけた者の足を切り裂くのだ。
その時が来るまで、彼女はこの凍りついた微笑みを守り続ける決心をした。
「だろう? 君には赤が似合うと思ったんだ。……昨夜の詫びと言ってはなんだが、僕の気持ちだ」
エリアスは満足げに頷き、ソファの隣に腰を下ろした。
そして、何気ない調子で切り出した。
「そういえば、今日ソフィアから手紙が来てね。『お義兄様のおかげで元気が出ました。お姉様にもご迷惑をおかけしてごめんなさい』と書いてあったよ。彼女も反省しているみたいだ」
「そうですか。それは何よりです」
「だからさ、今度の週末、気晴らしに三人で観劇でもどうかな? ソフィアも外に出たほうがいいと思うんだ」
アデライドは刺繍針を布に刺したまま、ゆっくりとエリアスを見た。
この期に及んで、また三人か。
この人の中には、夫婦二人だけの時間という概念が存在しないのだろうか。
それとも、アデライドと二人きりになるのが息苦しいのだろうか。
以前の彼女なら、「たまには二人で過ごしたい」と伝えていただろう。
あるいは、「ソフィアには別の友人と行かせては?」と提案したかもしれない。
けれど、今はもう、言葉にする労力さえ惜しかった。
何を言っても無駄なのだ。
暖簾に腕押し。
糠に釘。
期待して、裏切られて、傷つく。
そのサイクルはもう終わった。
アデライドの心の中で、シャッターが音を立てて完全に下りた。
「ええ、素晴らしい提案ですわね」
アデライドは目を細めて微笑んだ。
その瞳は、氷湖のように澄んでいるが、底が見えないほど暗い。
「ソフィアも喜びますわ。ぜひ、行って差し上げてください」
「うんうん、そうだろう……、って、え? 行って差し上げて? 君は行かないのかい?」
「あいにくですが、その日は工房で外せない窯焚きがございますの。職人総出で行う大事な作業ですので、私が抜けるわけにはいきません」
嘘だった。
窯焚きの予定などない。
ただ、もう一秒たりとも、彼らの茶番劇に付き合いたくなかっただけだ。
「そうか……、それは残念だな。でも仕事なら仕方ないね。君は責任感が強いから」
「はい。私は強いですから、どうぞお気になさらず」
アデライドは立ち上がった。
「少し疲れましたので、先にお休みさせていただきます。エリアス様も、明日に備えてゆっくりお休みください」
「ああ、おやすみ。……アデライド、本当に怒っていないかい?」
エリアスが不安そうに見上げてくる。
アデライドは扉の前で振り返り、今日一番の完璧な微笑みを見せた。
「怒るだなんて、とんでもない。私は貴方様のことを心から理解しておりますわ」
(貴方が、私を愛する気などないと理解しましたから……)
言葉にしなかった後半部分を飲み込み、アデライドは静かに扉を閉めた。
その閉まる音が、二人の関係の終わりを告げる決定的な音のように響いた。
廊下に出た瞬間、アデライドの顔から表情が抜け落ちた。
無感動、無関心。
彼女は自分の寝室へと向かう足を止めることなく、サイラスが待つ準備室へと歩を進めた。
もう、後ろを振り返ることはない。
陶器の心は一度割れたら戻らない。
そして、割れた破片は鋭利な刃物となって、踏みつけた者の足を切り裂くのだ。
その時が来るまで、彼女はこの凍りついた微笑みを守り続ける決心をした。
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