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第7話:妻と夫の温度差
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「話し合いは、対等な関係か、あるいは修復を望む相手とするものです。私はもう、そのどちらも望んでいない。ただ、粛々と準備を進めるだけよ」
サイラスは一瞬、息を呑んだ。
アデライドの決意が、一時の感情的なものではないことを悟ったからだ。
彼女は本気で、この生活を処分しようとしている。
「サイラス、貴方はどうする? 私についてくれば、今の地位も安定も失うことになるけれど」
「愚問です、お嬢様」
サイラスはあえて、結婚前の呼び名を使った。
彼は右手を左胸に当て、深く腰を折った。
「私が仕えているのは、ベルンハルト家でもクライスト家でもございません。アデライド様、貴方様個人です。地獄の果てまでお供いたします」
その言葉に、アデライドの仮面がわずかに揺らいだ。
瞳の奥に、人間らしい温かな光が灯る。
「……ありがとう。貴方だけが、私の味方ね」
そう呟くと、彼女はすぐに表情を引き締めた。
感傷に浸っている時間はない。
脱出の日は近いのだから。
その日の午後。王宮の騎士団庁舎にて。
エリアスは執務机で書類を整理しながら、ふと鼻歌交じりに伸びをした。
「おや、ベルンハルト卿。今日は随分と機嫌が良いな」
同僚の騎士に声をかけられ、エリアスは照れくさそうに笑った。
「ああ。実は昨夜、少し家庭でトラブルがあってね。妻との記念日だったんだが、義妹の看病で帰れなかったんだ」
「うわ、それはマズいだろう。奥方、カンカンに怒ってるんじゃないか?」
「それが、そうでもないんだよ」
エリアスは誇らしげに胸を張った。
「僕の妻、アデライドは本当に出来た女性でね。『人助けをした貴方を誇りに思う』と言ってくれたんだ。普通の女性なら泣いて責めるところだろうけど、彼女は理知的で、僕の立場をよく理解してくれている」
同僚は「へえ」と目を丸くした。
「そりゃあ珍しい。大抵の女は、自分を一番に扱わないとへそを曲げるもんだが。……まあ、お前が愛されてるってことか、あるいは諦められてるか、どっちかだな」
「おいおい、縁起でもないことを言うなよ。信頼だよ、信頼」
エリアスは笑い飛ばした。
諦められている?
まさか。
あんなに完璧な笑顔で送り出してくれたのだ。
彼女はエリアスを愛しているし、エリアスも彼女を大切に思っている。
ただ、彼女は強いから、エリアスの手助けが必要ないだけだ。
それは夫婦として、とても楽で、理想的な関係じゃないか。
「今日は埋め合わせに、彼女の好きな花でも買って帰るかな」
「それがいい。油断は大敵だぞ」
エリアスは帰り支度を始めた。
彼の頭の中には、「花束を渡せばアデライドは喜ぶだろう」という、安易な未来予想図しかなかった。
夜、ベルンハルト伯爵邸。
エリアスが大きな花束を抱えて帰宅すると、アデライドはサロンで刺繍をしていた。
「ただいま、アデライド。これ、君に」
差し出されたのは、真紅の薔薇の花束だった。
アデライドの手が止まる。
彼女が好きなのは、野に咲くような控えめなリンドウや、淡い色のトルコキキョウだ。
派手な薔薇は、むしろソフィアの好みだった。
(……ああ。この人は、三年間、私の何を見ていたのかしら)
アデライドは内心で小さく溜息をついたが、顔にはりつけた微笑みは微動だにしなかった。
まるで、精巧に作られたビスクドールのように……。
サイラスは一瞬、息を呑んだ。
アデライドの決意が、一時の感情的なものではないことを悟ったからだ。
彼女は本気で、この生活を処分しようとしている。
「サイラス、貴方はどうする? 私についてくれば、今の地位も安定も失うことになるけれど」
「愚問です、お嬢様」
サイラスはあえて、結婚前の呼び名を使った。
彼は右手を左胸に当て、深く腰を折った。
「私が仕えているのは、ベルンハルト家でもクライスト家でもございません。アデライド様、貴方様個人です。地獄の果てまでお供いたします」
その言葉に、アデライドの仮面がわずかに揺らいだ。
瞳の奥に、人間らしい温かな光が灯る。
「……ありがとう。貴方だけが、私の味方ね」
そう呟くと、彼女はすぐに表情を引き締めた。
感傷に浸っている時間はない。
脱出の日は近いのだから。
その日の午後。王宮の騎士団庁舎にて。
エリアスは執務机で書類を整理しながら、ふと鼻歌交じりに伸びをした。
「おや、ベルンハルト卿。今日は随分と機嫌が良いな」
同僚の騎士に声をかけられ、エリアスは照れくさそうに笑った。
「ああ。実は昨夜、少し家庭でトラブルがあってね。妻との記念日だったんだが、義妹の看病で帰れなかったんだ」
「うわ、それはマズいだろう。奥方、カンカンに怒ってるんじゃないか?」
「それが、そうでもないんだよ」
エリアスは誇らしげに胸を張った。
「僕の妻、アデライドは本当に出来た女性でね。『人助けをした貴方を誇りに思う』と言ってくれたんだ。普通の女性なら泣いて責めるところだろうけど、彼女は理知的で、僕の立場をよく理解してくれている」
同僚は「へえ」と目を丸くした。
「そりゃあ珍しい。大抵の女は、自分を一番に扱わないとへそを曲げるもんだが。……まあ、お前が愛されてるってことか、あるいは諦められてるか、どっちかだな」
「おいおい、縁起でもないことを言うなよ。信頼だよ、信頼」
エリアスは笑い飛ばした。
諦められている?
まさか。
あんなに完璧な笑顔で送り出してくれたのだ。
彼女はエリアスを愛しているし、エリアスも彼女を大切に思っている。
ただ、彼女は強いから、エリアスの手助けが必要ないだけだ。
それは夫婦として、とても楽で、理想的な関係じゃないか。
「今日は埋め合わせに、彼女の好きな花でも買って帰るかな」
「それがいい。油断は大敵だぞ」
エリアスは帰り支度を始めた。
彼の頭の中には、「花束を渡せばアデライドは喜ぶだろう」という、安易な未来予想図しかなかった。
夜、ベルンハルト伯爵邸。
エリアスが大きな花束を抱えて帰宅すると、アデライドはサロンで刺繍をしていた。
「ただいま、アデライド。これ、君に」
差し出されたのは、真紅の薔薇の花束だった。
アデライドの手が止まる。
彼女が好きなのは、野に咲くような控えめなリンドウや、淡い色のトルコキキョウだ。
派手な薔薇は、むしろソフィアの好みだった。
(……ああ。この人は、三年間、私の何を見ていたのかしら)
アデライドは内心で小さく溜息をついたが、顔にはりつけた微笑みは微動だにしなかった。
まるで、精巧に作られたビスクドールのように……。
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