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第12話:執事の忠誠
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ベルンハルト伯爵家の朝は早い。
執事長のサイラスは、誰よりも早く起床し、屋敷中のカーテンを開けて回ることを日課としていた。
東の空が白み始め、薄青い光が廊下に差し込む。
その光景は美しいが、サイラスの目には、この屋敷に漂う微かな澱が見えていた。
磨き上げられた床、手入れの行き届いた調度品。
表面上は完璧だ。
だが、この家の主であるエリアス・ベルンハルトと、その妻アデライドの間には、修復不可能な亀裂が入っている。
それに気づいているのは、この屋敷でサイラスただ一人だった。
(……旦那様は、あまりに愚かだ)
サイラスは銀食器を並べながら、心の中で独りごちた。
エリアスの人柄の良さも、優しさも知っている。
だが、その優しさが、誰にでもいい顔をするという優柔不断さと表裏一体であることも、痛いほど理解していた。
昨夜の陶磁器発表会から帰宅した後、アデライドは一言も発さずに自室へ引きこもった。
エリアスは「妻は疲れているだけだ」と笑っていたが、サイラスは見ていた。
馬車を降りた瞬間、アデライドの瞳から感情という色彩が完全に消え失せていたのを。
カツ、カツ、と規則正しい足音が響く。
階段を降りてきたのは、アデライドだった。
今日も一分の隙もない紺色のドレスを纏い、髪を美しく結い上げている。
「おはようございます、奥様」
「おはよう、サイラス。今朝の紅茶はアールグレイにしてちょうだい」
「畏まりました」
アデライドは食堂の席に着き、手元の手帳を開いた。
そこにはびっしりと数字や予定が書き込まれている。
彼女は、夫を待つことなく自分の時間を進めている。
以前なら、エリアスが起きてくるまで紅茶に口をつけずに待っていたものだが。
「……奥様。少し、よろしいでしょうか」
サイラスは紅茶を注ぎながら、声を潜めて問いかけた。
「昨夜の件、心中お察しいたします。ソフィア様のあの発言、そして旦那様の対応……、長年仕えてきた身として、恥じ入るばかりです」
「あら、サイラス」
アデライドは顔を上げ、ふわりと微笑んだ。
その笑みは、陶器の人形のように美しく、そして冷たかった。
「何を恥じることがあるの? エリアス様はソフィアを守っただけよ。心が強くないソフィアは愛されるべき存在、私はそれを支えるしっかり者の姉。その配役を全うしただけだわ」
「……奥様」
「それにね、もうどうでもいいの。怒るエネルギーも、悲しむ時間も、あの人たちに使うのはもったいないわ」
彼女は手帳のページを一枚めくった。
そこには、不動産物件の情報が挟まれていた。
「それよりサイラス、頼んでいた件はどうなっているかしら?」
アデライドの声のトーンが、事務的なものに切り替わる。
サイラスは居住まいを正し、懐から一通の封書を取り出した。
「こちらに。王都から馬車で二時間ほどの場所にある、元・工房付きの別荘です。持ち主が急遽手放すことになり、格安で市場に出る前の情報を押さえました」
「窯の状態は?」
「火は落としてから半年ほど。耐火煉瓦の補修は必要ですが、構造自体は堅牢です。奥様がこだわっておられた朝日の当たる乾燥場もございます」
「完璧ね。さすがサイラスだわ」
アデライドの瞳に、ほんの一瞬だけ、少女のような純粋な光が宿った。
それは夫に向けられることのなかった、情熱と希望の光だ。
「すぐに手付金を払って契約を進めて。名義は私の旧姓ではなく、管理会社名義にしておいてね。足がつかないように」
「承知いたしました。……それと、職人たちの引き抜き工作も順調です。彼らは皆、『アデライド様がいない工房に未練はない』と申しております」
「そう。彼らには苦労をかけるけれど、新しい場所では正当な対価を約束するわ」
アデライドは満足げに頷き、紅茶を一口飲んだ。
その姿は、冷遇される妻ではなく、有能な経営者のそれだった。
彼女はもう、この家を見ていない。
彼女の視線は、遥か遠くの自由を見据えている。
その時、廊下から軽い足音が近づいてきた。
エリアスだ。
「やあ、おはようアデライド! 早いね」
エリアスは爽やかな笑顔で食堂に入ってきた。
アデライドは手帳を素早く閉じた。
そして、いつもの完璧な微笑みを顔に貼り付けた。
執事長のサイラスは、誰よりも早く起床し、屋敷中のカーテンを開けて回ることを日課としていた。
東の空が白み始め、薄青い光が廊下に差し込む。
その光景は美しいが、サイラスの目には、この屋敷に漂う微かな澱が見えていた。
磨き上げられた床、手入れの行き届いた調度品。
表面上は完璧だ。
だが、この家の主であるエリアス・ベルンハルトと、その妻アデライドの間には、修復不可能な亀裂が入っている。
それに気づいているのは、この屋敷でサイラスただ一人だった。
(……旦那様は、あまりに愚かだ)
サイラスは銀食器を並べながら、心の中で独りごちた。
エリアスの人柄の良さも、優しさも知っている。
だが、その優しさが、誰にでもいい顔をするという優柔不断さと表裏一体であることも、痛いほど理解していた。
昨夜の陶磁器発表会から帰宅した後、アデライドは一言も発さずに自室へ引きこもった。
エリアスは「妻は疲れているだけだ」と笑っていたが、サイラスは見ていた。
馬車を降りた瞬間、アデライドの瞳から感情という色彩が完全に消え失せていたのを。
カツ、カツ、と規則正しい足音が響く。
階段を降りてきたのは、アデライドだった。
今日も一分の隙もない紺色のドレスを纏い、髪を美しく結い上げている。
「おはようございます、奥様」
「おはよう、サイラス。今朝の紅茶はアールグレイにしてちょうだい」
「畏まりました」
アデライドは食堂の席に着き、手元の手帳を開いた。
そこにはびっしりと数字や予定が書き込まれている。
彼女は、夫を待つことなく自分の時間を進めている。
以前なら、エリアスが起きてくるまで紅茶に口をつけずに待っていたものだが。
「……奥様。少し、よろしいでしょうか」
サイラスは紅茶を注ぎながら、声を潜めて問いかけた。
「昨夜の件、心中お察しいたします。ソフィア様のあの発言、そして旦那様の対応……、長年仕えてきた身として、恥じ入るばかりです」
「あら、サイラス」
アデライドは顔を上げ、ふわりと微笑んだ。
その笑みは、陶器の人形のように美しく、そして冷たかった。
「何を恥じることがあるの? エリアス様はソフィアを守っただけよ。心が強くないソフィアは愛されるべき存在、私はそれを支えるしっかり者の姉。その配役を全うしただけだわ」
「……奥様」
「それにね、もうどうでもいいの。怒るエネルギーも、悲しむ時間も、あの人たちに使うのはもったいないわ」
彼女は手帳のページを一枚めくった。
そこには、不動産物件の情報が挟まれていた。
「それよりサイラス、頼んでいた件はどうなっているかしら?」
アデライドの声のトーンが、事務的なものに切り替わる。
サイラスは居住まいを正し、懐から一通の封書を取り出した。
「こちらに。王都から馬車で二時間ほどの場所にある、元・工房付きの別荘です。持ち主が急遽手放すことになり、格安で市場に出る前の情報を押さえました」
「窯の状態は?」
「火は落としてから半年ほど。耐火煉瓦の補修は必要ですが、構造自体は堅牢です。奥様がこだわっておられた朝日の当たる乾燥場もございます」
「完璧ね。さすがサイラスだわ」
アデライドの瞳に、ほんの一瞬だけ、少女のような純粋な光が宿った。
それは夫に向けられることのなかった、情熱と希望の光だ。
「すぐに手付金を払って契約を進めて。名義は私の旧姓ではなく、管理会社名義にしておいてね。足がつかないように」
「承知いたしました。……それと、職人たちの引き抜き工作も順調です。彼らは皆、『アデライド様がいない工房に未練はない』と申しております」
「そう。彼らには苦労をかけるけれど、新しい場所では正当な対価を約束するわ」
アデライドは満足げに頷き、紅茶を一口飲んだ。
その姿は、冷遇される妻ではなく、有能な経営者のそれだった。
彼女はもう、この家を見ていない。
彼女の視線は、遥か遠くの自由を見据えている。
その時、廊下から軽い足音が近づいてきた。
エリアスだ。
「やあ、おはようアデライド! 早いね」
エリアスは爽やかな笑顔で食堂に入ってきた。
アデライドは手帳を素早く閉じた。
そして、いつもの完璧な微笑みを顔に貼り付けた。
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