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第13話:崩壊へのカウントダウン
「おはようございます、エリアス様。よく眠れましたか?」
「ああ、ぐっすりとね。昨日の発表会は大成功だったし、ソフィアからも感謝の手紙が来ていたよ。今日は気分がいいんだ」
エリアスは席に着き、サイラスが注いだコーヒーを啜った。
「そういえばサイラス。最近、アデライドの顔色が良くなったと思わないか?」
突然話を振られ、サイラスは一瞬動きを止めた。
顔色が良い?
どこをどう見ているのだろう。
奥様は以前より痩せ、肌は透けるように白く、目の奥の光は消えているというのに。
「……さようでございますか?」
「うん。以前はなんだかピリピリしていたというか、僕がソフィアの話をすると少し顔を強張らせていただろう? でも最近は、すごく穏やかに笑ってくれるんだ」
エリアスはアデライドを見て、愛おしそうに目を細めた。
「やっぱり、姉妹の絆が深まったんだね。アデライドもようやく、自分の役割に納得してくれたみたいだ。君は強いから、僕が心配しすぎていたのかもしれないな」
サイラスの背筋に、冷たい戦慄が走った。
恐怖。
これほどまでに、人の心が分からないということが、どれほどの罪か。
アデライドが穏やかなのは、エリアスを受け入れたからではない。
彼をどうでもいい存在へと格下げし、感情のスイッチを切ったからだ。
その微笑みは、相手を安心させるためのものではなく、拒絶の壁なのに。
「……旦那様」
サイラスは、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
『今すぐ奥様の足元に縋り付いて謝罪なさいませ』と言いたかった。
だが、それを言ったところで、今のエリアスには理解できないだろう。
彼は自分が良き夫、良き義兄であると信じて疑わないのだから。
「アデライド、今日は早く帰れそうだから、夕食は君の好きな魚料理にしようか」
「まあ、嬉しいですわ。でも、どうぞお気になさらず。ソフィアが寂しがるかもしれませんから、あちらを優先して差し上げてください」
「おや、そうかい? 君がそう言うなら……。実はソフィアが新しいドレスを選んで欲しいと言っていてね」
エリアスは「仕方ないな」という顔をしながらも、嬉々として手帳を確認し始めた。
アデライドはサイラスに視線を送り、ほんの少しだけ肩をすくめて見せた。
『ご覧の通りよ』という合図だ。
朝食後、アデライドは工房へ向かうために席を立った。
エリアスが見送りのために玄関までついてくる。
「行ってらっしゃい、アデライド。無理しちゃだめだよ」
「ええ、行ってまいります。エリアス様も」
馬車に乗り込むアデライドの背中は、凜として美しかった。
だが、その背中には決別の二文字がはっきりと刻まれているように見えた。
馬車が見えなくなった後、エリアスは満足げに伸びをした。
「サイラス、良い妻を持てて僕は幸せ者だ。最近、家庭がうまく回っている気がするよ」
その言葉に、サイラスは深々と頭を下げた。
表情を隠すためだ。
もし顔を上げていれば、軽蔑の眼差しを向けてしまっていただろう。
「……旦那様。一つだけ、老婆心ながら申し上げてもよろしいでしょうか」
「ん? なんだい、改まって」
「陶磁器というものは、一見硬く丈夫に見えますが、一度入ったひびは二度と元には戻りません。そして、割れる時は一瞬でございます」
「ははは! 何だ、職業病みたいなことを言うね。大丈夫だよ、うちの夫婦仲は最高級の白磁のように完璧さ」
エリアスは高らかに笑い、執務室へと向かっていった。
残されたサイラスは、主人の背中を冷ややかな目で見送った。
(……ええ、完璧でございますとも。終わる準備が、完璧に整いつつあります)
サイラスはポケットの中の契約書の感触を確かめた。
この屋敷に仕える執事としての忠誠心は、とっくに尽きている。
今の彼の忠誠は、たった一人の女性――孤独の中で戦い、自らの力で自由を勝ち取ろうとしているアデライドのためだけにあった。
「さて、旦那様がご不在の間に、奥様の私物を少しずつ移動させねば」
サイラスは誰にも聞こえない声で呟き、静かに業務へと戻った。
崩壊へのカウントダウンは、着実に進んでいた。
「ああ、ぐっすりとね。昨日の発表会は大成功だったし、ソフィアからも感謝の手紙が来ていたよ。今日は気分がいいんだ」
エリアスは席に着き、サイラスが注いだコーヒーを啜った。
「そういえばサイラス。最近、アデライドの顔色が良くなったと思わないか?」
突然話を振られ、サイラスは一瞬動きを止めた。
顔色が良い?
どこをどう見ているのだろう。
奥様は以前より痩せ、肌は透けるように白く、目の奥の光は消えているというのに。
「……さようでございますか?」
「うん。以前はなんだかピリピリしていたというか、僕がソフィアの話をすると少し顔を強張らせていただろう? でも最近は、すごく穏やかに笑ってくれるんだ」
エリアスはアデライドを見て、愛おしそうに目を細めた。
「やっぱり、姉妹の絆が深まったんだね。アデライドもようやく、自分の役割に納得してくれたみたいだ。君は強いから、僕が心配しすぎていたのかもしれないな」
サイラスの背筋に、冷たい戦慄が走った。
恐怖。
これほどまでに、人の心が分からないということが、どれほどの罪か。
アデライドが穏やかなのは、エリアスを受け入れたからではない。
彼をどうでもいい存在へと格下げし、感情のスイッチを切ったからだ。
その微笑みは、相手を安心させるためのものではなく、拒絶の壁なのに。
「……旦那様」
サイラスは、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
『今すぐ奥様の足元に縋り付いて謝罪なさいませ』と言いたかった。
だが、それを言ったところで、今のエリアスには理解できないだろう。
彼は自分が良き夫、良き義兄であると信じて疑わないのだから。
「アデライド、今日は早く帰れそうだから、夕食は君の好きな魚料理にしようか」
「まあ、嬉しいですわ。でも、どうぞお気になさらず。ソフィアが寂しがるかもしれませんから、あちらを優先して差し上げてください」
「おや、そうかい? 君がそう言うなら……。実はソフィアが新しいドレスを選んで欲しいと言っていてね」
エリアスは「仕方ないな」という顔をしながらも、嬉々として手帳を確認し始めた。
アデライドはサイラスに視線を送り、ほんの少しだけ肩をすくめて見せた。
『ご覧の通りよ』という合図だ。
朝食後、アデライドは工房へ向かうために席を立った。
エリアスが見送りのために玄関までついてくる。
「行ってらっしゃい、アデライド。無理しちゃだめだよ」
「ええ、行ってまいります。エリアス様も」
馬車に乗り込むアデライドの背中は、凜として美しかった。
だが、その背中には決別の二文字がはっきりと刻まれているように見えた。
馬車が見えなくなった後、エリアスは満足げに伸びをした。
「サイラス、良い妻を持てて僕は幸せ者だ。最近、家庭がうまく回っている気がするよ」
その言葉に、サイラスは深々と頭を下げた。
表情を隠すためだ。
もし顔を上げていれば、軽蔑の眼差しを向けてしまっていただろう。
「……旦那様。一つだけ、老婆心ながら申し上げてもよろしいでしょうか」
「ん? なんだい、改まって」
「陶磁器というものは、一見硬く丈夫に見えますが、一度入ったひびは二度と元には戻りません。そして、割れる時は一瞬でございます」
「ははは! 何だ、職業病みたいなことを言うね。大丈夫だよ、うちの夫婦仲は最高級の白磁のように完璧さ」
エリアスは高らかに笑い、執務室へと向かっていった。
残されたサイラスは、主人の背中を冷ややかな目で見送った。
(……ええ、完璧でございますとも。終わる準備が、完璧に整いつつあります)
サイラスはポケットの中の契約書の感触を確かめた。
この屋敷に仕える執事としての忠誠心は、とっくに尽きている。
今の彼の忠誠は、たった一人の女性――孤独の中で戦い、自らの力で自由を勝ち取ろうとしているアデライドのためだけにあった。
「さて、旦那様がご不在の間に、奥様の私物を少しずつ移動させねば」
サイラスは誰にも聞こえない声で呟き、静かに業務へと戻った。
崩壊へのカウントダウンは、着実に進んでいた。
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