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第14話:最後のSOS
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その日の朝から、アデライドは体の異変を感じていた。
鉛を飲み込んだような倦怠感と、関節のきしむような痛み。
工房で新しい釉薬の調合比率を確認している最中、視界がぐらりと揺れた。
「アデライド様!?」
職人の一人が慌てて支えてくれたおかげで、床への転倒は免れた。
額に触れると、指先が熱い。
どうやら、連日の深夜に及ぶ作業と、水面下で進めている独立準備の疲労が一気に出たらしい。
「……申し訳ないわ。少し、熱があるみたい」
「すぐに屋敷へお戻りください! こちらの窯焚きは我々でやりますから」
職人たちに促され、アデライドは早退することになった。
馬車に揺られながら、彼女はぼんやりとした頭で考える。
――今日はエリアス様が非番の日だわ。
きっと書斎にいるはずだ。
もし、高熱で帰ったら、彼はどうするだろうか。
氷枕を用意してくれるだろうか。
消化の良いスープを頼んでくれるだろうか。
それとも、ただ「大丈夫?」と声をかけるだけだろうか。
期待してはいけない。
そう決めたはずなのに、弱った体は心の防壁をも脆くさせていた。
人間は、病めるときほど孤独を恐れる生き物だ。
屋敷に到着し、ふらつく足取りで玄関ホールに入ると、ちょうどエリアスが外出着に着替えて降りてくるところだった。
彼はアデライドの姿を認めるなり、驚いたように目を丸くした。
「やあ、アデライド。こんな時間に帰ってくるなんて珍しいね。何か忘れ物かい?」
その声は明るく、妻の顔色の悪さに気づいている様子はない。
アデライドは壁に手をつき、呼吸を整えながら答えた。
「……いえ、少し体調が優れなくて。熱があるようなので、早退させていただきました」
彼女にしては珍しい、率直な弱音だった。
普段なら「少し疲れました」と濁すところを、「熱がある」と明確に伝えたのだ。
エリアスは「おや」と眉を寄せ、数段駆け降りてきた。
「それは大変だ。顔が赤いよ、大丈夫かい?」
彼はアデライドの額に手を伸ばした。
その手はひんやりとしていて心地よかった。
一瞬、安堵感が胸をよぎる。
ああ、この人はまだ、妻を心配する心を持っているのだと。
「かなり熱いね。すぐに休んだ方がいい」
「はい……。エリアス様、もしよろしければ……」
そばにいてほしい。
水を持ってきてほしい。
そんな子供じみた言葉が出かかった、その時だった。
エリアスの懐中時計がカチリと音を立て、彼はハッとしたように時間を確認した。
「ああ、いけない。もうこんな時間か」
「……お出かけですか?」
「うん。実はソフィアから急ぎの連絡があってね。『寂しくて死んでしまいそう』だって。また過呼吸になりかけているみたいなんだ」
エリアスは困ったように、しかしどこか使命感に燃えた表情で言った。
アデライドの体温が、一瞬で数度下がったような錯覚に陥る。
熱に浮かされた頭が、冷水を浴びせられたように冴え渡っていく。
「……ソフィアが」
「そうなんだ。彼女、最近ずっと不安定だろう? 僕が行って話を聞いてやらないと、何をするか分からないからね」
エリアスはアデライドの肩をポンと叩いた。
「アデライド、君は寝室でゆっくり休むといい。使用人に氷を持ってこさせるように言っておくから」
「……エリアス様」
アデライドは、乾いた唇を震わせて夫の名を呼んだ。
これが最後だ。
これが、貴方に投げかける最後のロープだ。
「私も、辛いのです。……今日は、そばにいていただけませんか?」
プライドの高い彼女が、これほどまでに直接的に求めたことは、結婚生活で一度もなかった。
エリアスは足を止めた。
彼は妻を見つめ、少し思案するような素振りを見せた。
だが、次の瞬間、彼の口から出たのは、アデライドの心を完全に粉砕する言葉だった。
「アデライド。君は大げさだなあ」
彼は優しく、諭すように微笑んだ。
「ただの風邪だろう? 寝ていれば治るよ。君は昔から体が丈夫だし、精神的にもタフだ。君は強いから、一人で寝ていても平気だろう?」
ああ。
また、その言葉。
魔法の言葉。
免罪符の言葉。
アデライドを切り捨てるための、最も残酷で、最も美しい響きの言葉。
「でも、ソフィアは違う。彼女の病は心なんだ。目に見えない傷は、誰かが寄り添ってあげないと治らない。……君なら、その違いが分かるよね? 賢い君なら」
アデライドの中で、何かが燃え尽きて灰になった。
灰はもう、燃えることはない。
痛みも、期待も、愛しさも、すべてが灰色の砂となって崩れ落ちた。
鉛を飲み込んだような倦怠感と、関節のきしむような痛み。
工房で新しい釉薬の調合比率を確認している最中、視界がぐらりと揺れた。
「アデライド様!?」
職人の一人が慌てて支えてくれたおかげで、床への転倒は免れた。
額に触れると、指先が熱い。
どうやら、連日の深夜に及ぶ作業と、水面下で進めている独立準備の疲労が一気に出たらしい。
「……申し訳ないわ。少し、熱があるみたい」
「すぐに屋敷へお戻りください! こちらの窯焚きは我々でやりますから」
職人たちに促され、アデライドは早退することになった。
馬車に揺られながら、彼女はぼんやりとした頭で考える。
――今日はエリアス様が非番の日だわ。
きっと書斎にいるはずだ。
もし、高熱で帰ったら、彼はどうするだろうか。
氷枕を用意してくれるだろうか。
消化の良いスープを頼んでくれるだろうか。
それとも、ただ「大丈夫?」と声をかけるだけだろうか。
期待してはいけない。
そう決めたはずなのに、弱った体は心の防壁をも脆くさせていた。
人間は、病めるときほど孤独を恐れる生き物だ。
屋敷に到着し、ふらつく足取りで玄関ホールに入ると、ちょうどエリアスが外出着に着替えて降りてくるところだった。
彼はアデライドの姿を認めるなり、驚いたように目を丸くした。
「やあ、アデライド。こんな時間に帰ってくるなんて珍しいね。何か忘れ物かい?」
その声は明るく、妻の顔色の悪さに気づいている様子はない。
アデライドは壁に手をつき、呼吸を整えながら答えた。
「……いえ、少し体調が優れなくて。熱があるようなので、早退させていただきました」
彼女にしては珍しい、率直な弱音だった。
普段なら「少し疲れました」と濁すところを、「熱がある」と明確に伝えたのだ。
エリアスは「おや」と眉を寄せ、数段駆け降りてきた。
「それは大変だ。顔が赤いよ、大丈夫かい?」
彼はアデライドの額に手を伸ばした。
その手はひんやりとしていて心地よかった。
一瞬、安堵感が胸をよぎる。
ああ、この人はまだ、妻を心配する心を持っているのだと。
「かなり熱いね。すぐに休んだ方がいい」
「はい……。エリアス様、もしよろしければ……」
そばにいてほしい。
水を持ってきてほしい。
そんな子供じみた言葉が出かかった、その時だった。
エリアスの懐中時計がカチリと音を立て、彼はハッとしたように時間を確認した。
「ああ、いけない。もうこんな時間か」
「……お出かけですか?」
「うん。実はソフィアから急ぎの連絡があってね。『寂しくて死んでしまいそう』だって。また過呼吸になりかけているみたいなんだ」
エリアスは困ったように、しかしどこか使命感に燃えた表情で言った。
アデライドの体温が、一瞬で数度下がったような錯覚に陥る。
熱に浮かされた頭が、冷水を浴びせられたように冴え渡っていく。
「……ソフィアが」
「そうなんだ。彼女、最近ずっと不安定だろう? 僕が行って話を聞いてやらないと、何をするか分からないからね」
エリアスはアデライドの肩をポンと叩いた。
「アデライド、君は寝室でゆっくり休むといい。使用人に氷を持ってこさせるように言っておくから」
「……エリアス様」
アデライドは、乾いた唇を震わせて夫の名を呼んだ。
これが最後だ。
これが、貴方に投げかける最後のロープだ。
「私も、辛いのです。……今日は、そばにいていただけませんか?」
プライドの高い彼女が、これほどまでに直接的に求めたことは、結婚生活で一度もなかった。
エリアスは足を止めた。
彼は妻を見つめ、少し思案するような素振りを見せた。
だが、次の瞬間、彼の口から出たのは、アデライドの心を完全に粉砕する言葉だった。
「アデライド。君は大げさだなあ」
彼は優しく、諭すように微笑んだ。
「ただの風邪だろう? 寝ていれば治るよ。君は昔から体が丈夫だし、精神的にもタフだ。君は強いから、一人で寝ていても平気だろう?」
ああ。
また、その言葉。
魔法の言葉。
免罪符の言葉。
アデライドを切り捨てるための、最も残酷で、最も美しい響きの言葉。
「でも、ソフィアは違う。彼女の病は心なんだ。目に見えない傷は、誰かが寄り添ってあげないと治らない。……君なら、その違いが分かるよね? 賢い君なら」
アデライドの中で、何かが燃え尽きて灰になった。
灰はもう、燃えることはない。
痛みも、期待も、愛しさも、すべてが灰色の砂となって崩れ落ちた。
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