14 / 38
第14話:最後のSOS
その日の朝から、アデライドは体の異変を感じていた。
鉛を飲み込んだような倦怠感と、関節のきしむような痛み。
工房で新しい釉薬の調合比率を確認している最中、視界がぐらりと揺れた。
「アデライド様!?」
職人の一人が慌てて支えてくれたおかげで、床への転倒は免れた。
額に触れると、指先が熱い。
どうやら、連日の深夜に及ぶ作業と、水面下で進めている独立準備の疲労が一気に出たらしい。
「……申し訳ないわ。少し、熱があるみたい」
「すぐに屋敷へお戻りください! こちらの窯焚きは我々でやりますから」
職人たちに促され、アデライドは早退することになった。
馬車に揺られながら、彼女はぼんやりとした頭で考える。
――今日はエリアス様が非番の日だわ。
きっと書斎にいるはずだ。
もし、高熱で帰ったら、彼はどうするだろうか。
氷枕を用意してくれるだろうか。
消化の良いスープを頼んでくれるだろうか。
それとも、ただ「大丈夫?」と声をかけるだけだろうか。
期待してはいけない。
そう決めたはずなのに、弱った体は心の防壁をも脆くさせていた。
人間は、病めるときほど孤独を恐れる生き物だ。
屋敷に到着し、ふらつく足取りで玄関ホールに入ると、ちょうどエリアスが外出着に着替えて降りてくるところだった。
彼はアデライドの姿を認めるなり、驚いたように目を丸くした。
「やあ、アデライド。こんな時間に帰ってくるなんて珍しいね。何か忘れ物かい?」
その声は明るく、妻の顔色の悪さに気づいている様子はない。
アデライドは壁に手をつき、呼吸を整えながら答えた。
「……いえ、少し体調が優れなくて。熱があるようなので、早退させていただきました」
彼女にしては珍しい、率直な弱音だった。
普段なら「少し疲れました」と濁すところを、「熱がある」と明確に伝えたのだ。
エリアスは「おや」と眉を寄せ、数段駆け降りてきた。
「それは大変だ。顔が赤いよ、大丈夫かい?」
彼はアデライドの額に手を伸ばした。
その手はひんやりとしていて心地よかった。
一瞬、安堵感が胸をよぎる。
ああ、この人はまだ、妻を心配する心を持っているのだと。
「かなり熱いね。すぐに休んだ方がいい」
「はい……。エリアス様、もしよろしければ……」
そばにいてほしい。
水を持ってきてほしい。
そんな子供じみた言葉が出かかった、その時だった。
エリアスの懐中時計がカチリと音を立て、彼はハッとしたように時間を確認した。
「ああ、いけない。もうこんな時間か」
「……お出かけですか?」
「うん。実はソフィアから急ぎの連絡があってね。『寂しくて死んでしまいそう』だって。また過呼吸になりかけているみたいなんだ」
エリアスは困ったように、しかしどこか使命感に燃えた表情で言った。
アデライドの体温が、一瞬で数度下がったような錯覚に陥る。
熱に浮かされた頭が、冷水を浴びせられたように冴え渡っていく。
「……ソフィアが」
「そうなんだ。彼女、最近ずっと不安定だろう? 僕が行って話を聞いてやらないと、何をするか分からないからね」
エリアスはアデライドの肩をポンと叩いた。
「アデライド、君は寝室でゆっくり休むといい。使用人に氷を持ってこさせるように言っておくから」
「……エリアス様」
アデライドは、乾いた唇を震わせて夫の名を呼んだ。
これが最後だ。
これが、貴方に投げかける最後のロープだ。
「私も、辛いのです。……今日は、そばにいていただけませんか?」
プライドの高い彼女が、これほどまでに直接的に求めたことは、結婚生活で一度もなかった。
エリアスは足を止めた。
彼は妻を見つめ、少し思案するような素振りを見せた。
だが、次の瞬間、彼の口から出たのは、アデライドの心を完全に粉砕する言葉だった。
「アデライド。君は大げさだなあ」
彼は優しく、諭すように微笑んだ。
「ただの風邪だろう? 寝ていれば治るよ。君は昔から体が丈夫だし、精神的にもタフだ。君は強いから、一人で寝ていても平気だろう?」
ああ。
また、その言葉。
魔法の言葉。
免罪符の言葉。
アデライドを切り捨てるための、最も残酷で、最も美しい響きの言葉。
「でも、ソフィアは違う。彼女の病は心なんだ。目に見えない傷は、誰かが寄り添ってあげないと治らない。……君なら、その違いが分かるよね? 賢い君なら」
アデライドの中で、何かが燃え尽きて灰になった。
灰はもう、燃えることはない。
痛みも、期待も、愛しさも、すべてが灰色の砂となって崩れ落ちた。
鉛を飲み込んだような倦怠感と、関節のきしむような痛み。
工房で新しい釉薬の調合比率を確認している最中、視界がぐらりと揺れた。
「アデライド様!?」
職人の一人が慌てて支えてくれたおかげで、床への転倒は免れた。
額に触れると、指先が熱い。
どうやら、連日の深夜に及ぶ作業と、水面下で進めている独立準備の疲労が一気に出たらしい。
「……申し訳ないわ。少し、熱があるみたい」
「すぐに屋敷へお戻りください! こちらの窯焚きは我々でやりますから」
職人たちに促され、アデライドは早退することになった。
馬車に揺られながら、彼女はぼんやりとした頭で考える。
――今日はエリアス様が非番の日だわ。
きっと書斎にいるはずだ。
もし、高熱で帰ったら、彼はどうするだろうか。
氷枕を用意してくれるだろうか。
消化の良いスープを頼んでくれるだろうか。
それとも、ただ「大丈夫?」と声をかけるだけだろうか。
期待してはいけない。
そう決めたはずなのに、弱った体は心の防壁をも脆くさせていた。
人間は、病めるときほど孤独を恐れる生き物だ。
屋敷に到着し、ふらつく足取りで玄関ホールに入ると、ちょうどエリアスが外出着に着替えて降りてくるところだった。
彼はアデライドの姿を認めるなり、驚いたように目を丸くした。
「やあ、アデライド。こんな時間に帰ってくるなんて珍しいね。何か忘れ物かい?」
その声は明るく、妻の顔色の悪さに気づいている様子はない。
アデライドは壁に手をつき、呼吸を整えながら答えた。
「……いえ、少し体調が優れなくて。熱があるようなので、早退させていただきました」
彼女にしては珍しい、率直な弱音だった。
普段なら「少し疲れました」と濁すところを、「熱がある」と明確に伝えたのだ。
エリアスは「おや」と眉を寄せ、数段駆け降りてきた。
「それは大変だ。顔が赤いよ、大丈夫かい?」
彼はアデライドの額に手を伸ばした。
その手はひんやりとしていて心地よかった。
一瞬、安堵感が胸をよぎる。
ああ、この人はまだ、妻を心配する心を持っているのだと。
「かなり熱いね。すぐに休んだ方がいい」
「はい……。エリアス様、もしよろしければ……」
そばにいてほしい。
水を持ってきてほしい。
そんな子供じみた言葉が出かかった、その時だった。
エリアスの懐中時計がカチリと音を立て、彼はハッとしたように時間を確認した。
「ああ、いけない。もうこんな時間か」
「……お出かけですか?」
「うん。実はソフィアから急ぎの連絡があってね。『寂しくて死んでしまいそう』だって。また過呼吸になりかけているみたいなんだ」
エリアスは困ったように、しかしどこか使命感に燃えた表情で言った。
アデライドの体温が、一瞬で数度下がったような錯覚に陥る。
熱に浮かされた頭が、冷水を浴びせられたように冴え渡っていく。
「……ソフィアが」
「そうなんだ。彼女、最近ずっと不安定だろう? 僕が行って話を聞いてやらないと、何をするか分からないからね」
エリアスはアデライドの肩をポンと叩いた。
「アデライド、君は寝室でゆっくり休むといい。使用人に氷を持ってこさせるように言っておくから」
「……エリアス様」
アデライドは、乾いた唇を震わせて夫の名を呼んだ。
これが最後だ。
これが、貴方に投げかける最後のロープだ。
「私も、辛いのです。……今日は、そばにいていただけませんか?」
プライドの高い彼女が、これほどまでに直接的に求めたことは、結婚生活で一度もなかった。
エリアスは足を止めた。
彼は妻を見つめ、少し思案するような素振りを見せた。
だが、次の瞬間、彼の口から出たのは、アデライドの心を完全に粉砕する言葉だった。
「アデライド。君は大げさだなあ」
彼は優しく、諭すように微笑んだ。
「ただの風邪だろう? 寝ていれば治るよ。君は昔から体が丈夫だし、精神的にもタフだ。君は強いから、一人で寝ていても平気だろう?」
ああ。
また、その言葉。
魔法の言葉。
免罪符の言葉。
アデライドを切り捨てるための、最も残酷で、最も美しい響きの言葉。
「でも、ソフィアは違う。彼女の病は心なんだ。目に見えない傷は、誰かが寄り添ってあげないと治らない。……君なら、その違いが分かるよね? 賢い君なら」
アデライドの中で、何かが燃え尽きて灰になった。
灰はもう、燃えることはない。
痛みも、期待も、愛しさも、すべてが灰色の砂となって崩れ落ちた。
あなたにおすすめの小説
もう二度と、あなたの傷を引き受けません ~死に戻った治癒師伯爵夫人は、冷血公爵の最愛になる~
ゆぷしろん
恋愛
傷を癒やすたび、自分が同じ傷を負う――そんな代償つきの治癒魔法を持つ伯爵夫人セレフィナは、夫を救い続けた末に裏切られ、罪を着せられて処刑される。
しかし死の直前、「もう二度と、あなたの傷は引き受けない」と誓った瞬間、彼女は夫の凱旋祝賀会の日へ死に戻っていた。
今度こそ搾取されるだけの人生を捨てると決めたセレフィナは、夫との治癒契約を破棄し、離縁を宣言。そんな彼女に手を差し伸べたのは、“冷血公爵”と恐れられるディートハルトだった。
彼が求めたのは命を削る奇跡ではなく、治癒師としての知識と才能。北辺境で広がる奇病を調査する中で、セレフィナは研究者として認められ、本当の居場所と誠実な愛を見つけていく。
搾取の愛を捨てた治癒師伯爵夫人が、自分の人生を取り戻し、冷血公爵の最愛になる死に戻り逆転ロマンス。
『病弱な幼馴染を優先してください』と言った妻が消えた翌日、夫は領地の会計書類が全て白紙になっていることに気づいた
歩人
ファンタジー
侯爵家に嫁いで五年。ルチアは夫エミルの領地会計・社交・使用人管理を全て一人で担ってきた。だがエミルはいつも幼馴染のアリーチェを優先する。「アリーチェは体が弱いんだ、お前とは違う」——その言葉を百回聞いた日、ルチアは微笑んで離縁届に署名した。「ええ、私は丈夫ですから。どうぞ幼馴染様をお大事に」。翌朝、エミルが目にしたのは——税務報告の締切、領民からの陳情の山、そして紅茶の淹れ方すら知らない自分。三ヶ月後、かつて「地味な妻」と呼ばれたルチアは、辺境伯の財務顧問として辣腕を振るっていた。
あなたの幸せを、心からお祈りしています
たくわん
恋愛
「平民の娘ごときが、騎士の妻になれると思ったのか」
宮廷音楽家の娘リディアは、愛を誓い合った騎士エドゥアルトから、一方的に婚約破棄を告げられる。理由は「身分違い」。彼が選んだのは、爵位と持参金を持つ貴族令嬢だった。
傷ついた心を抱えながらも、リディアは決意する。
「音楽の道で、誰にも見下されない存在になってみせる」
革新的な合奏曲の創作、宮廷初の「音楽会」の開催、そして若き隣国王子との出会い——。
才能と努力だけを武器に、リディアは宮廷音楽界の頂点へと駆け上がっていく。
一方、妻の浪費と実家の圧力に苦しむエドゥアルトは、次第に転落の道を辿り始める。そして彼は気づくのだ。自分が何を失ったのかを。
妹が嫌がっているからと婚約破棄したではありませんか。それで路頭に迷ったと言われても困ります。
木山楽斗
恋愛
伯爵令嬢であるラナーシャは、妹同伴で挨拶をしに来た婚約者に驚くことになった。
事前に知らされていなかったことであるため、面食らうことになったのである。
しかもその妹は、態度が悪かった。明らかにラナーシャに対して、敵意を抱いていたのだ。
だがそれでも、ラナーシャは彼女を受け入れた。父親がもたらしてくれた婚約を破談してはならないと、彼女は思っていたのだ。
しかしそんな彼女の思いは二人に裏切られることになる。婚約者は、妹が嫌がっているからという理由で、婚約破棄を言い渡してきたのだ。
呆気に取られていたラナーシャだったが、二人の意思は固かった。
婚約は敢え無く破談となってしまったのだ。
その事実に、ラナーシャの両親は憤っていた。
故に相手の伯爵家に抗議した所、既に処分がなされているという返答が返ってきた。
ラナーシャの元婚約者と妹は、伯爵家を追い出されていたのである。
程なくして、ラナーシャの元に件の二人がやって来た。
典型的な貴族であった二人は、家を追い出されてどうしていいかわからず、あろうことかラナーシャのことを頼ってきたのだ。
ラナーシャにそんな二人を助ける義理はなかった。
彼女は二人を追い返して、事なきを得たのだった。
これで、私も自由になれます
たくわん
恋愛
社交界で「地味で会話がつまらない」と評判のエリザベート・フォン・リヒテンシュタイン。婚約者である公爵家の長男アレクサンダーから、舞踏会の場で突然婚約破棄を告げられる。理由は「華やかで魅力的な」子爵令嬢ソフィアとの恋。エリザベートは静かに受け入れ、社交界の噂話の的になる。
幼馴染が最優先な婚約者など、私の人生には不要です。
たると
恋愛
シュタイン伯爵家の長女エルゼは、公爵子息フィリップに恋をしていた。
彼の婚約者として選ばれた時は涙を流して喜んだが、その喜びもいまは遠い。
『君は一人でも大丈夫だろう。この埋め合わせは必ずする。愛している』
「……『愛している』、ですか」
いつも幼馴染を優先するアルベルトに、恋心はすっかり冷めてしまった。
そちらから縁を切ったのですから、今更頼らないでください。
木山楽斗
恋愛
伯爵家の令嬢であるアルシエラは、高慢な妹とそんな妹ばかり溺愛する両親に嫌気が差していた。
ある時、彼女は父親から縁を切ることを言い渡される。アルシエラのとある行動が気に食わなかった妹が、父親にそう進言したのだ。
不安はあったが、アルシエラはそれを受け入れた。
ある程度の年齢に達した時から、彼女は実家に見切りをつけるべきだと思っていた。丁度いい機会だったので、それを実行することにしたのだ。
伯爵家を追い出された彼女は、商人としての生活を送っていた。
偶然にも人脈に恵まれた彼女は、着々と力を付けていき、見事成功を収めたのである。
そんな彼女の元に、実家から申し出があった。
事情があって窮地に立たされた伯爵家が、支援を求めてきたのだ。
しかしながら、そんな義理がある訳がなかった。
アルシエラは、両親や妹からの申し出をきっぱりと断ったのである。
※8話からの登場人物の名前を変更しました。1話の登場人物とは別人です。(バーキントン→ラナキンス)
貴方が選んだのは全てを捧げて貴方を愛した私ではありませんでした
ましゅぺちーの
恋愛
王国の名門公爵家の出身であるエレンは幼い頃から婚約者候補である第一王子殿下に全てを捧げて生きてきた。
彼を数々の悪意から守り、彼の敵を排除した。それも全ては愛する彼のため。
しかし、王太子となった彼が最終的には選んだのはエレンではない平民の女だった。
悲しみに暮れたエレンだったが、家族や幼馴染の公爵令息に支えられて元気を取り戻していく。
その一方エレンを捨てた王太子は着々と破滅への道を進んでいた・・・