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第15話:痛感
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エリアスは悪気なく、妻と義妹を天秤にかけ、迷わず義妹を選んだ。
妻は強いから放置しても死なないという、勝手な信頼に基づいて。
アデライドはゆっくりと息を吐き、顔を上げた。
高熱で潤んだ瞳を細め、唇の端を持ち上げる。
熱で朦朧とする意識の中で、彼女の防衛本能だけが完璧に機能した。
いつもの微笑みだ。
「……ええ、おっしゃる通りですわ、エリアス様」
声が震えなかったのは奇跡だった。
「私はただの熱ですもの。一晩寝れば治ります。ソフィアの心の傷の方が、よほど緊急を要しますわね」
「うん、分かってくれて嬉しいよ! やっぱり君は頼りになる妻だ」
エリアスは安堵し、アデライドの頬に軽くキスをした。
その唇の感触さえ、今は焼印のように不快だった。
「じゃあ、行ってくるよ。何か必要なものがあったら、サイラスに言うんだよ」
「はい。行ってらっしゃいませ」
アデライドは深々と頭を下げた。
エリアスの足音が遠ざかり、扉が閉まる音が響く。
その瞬間、アデライドはその場に膝から崩れ落ちた。
「奥様ッ!!」
どこからか見ていたのか、サイラスが血相を変えて駆け寄ってくる。
彼の太い腕が、アデライドの体を支えた。
「なんてことを……。旦那様は、正気ですか!? このような状態の奥様を置いて!」
「……いいのよ、サイラス」
アデライドはサイラスの腕の中で、うわ言のように呟いた。
「これで、踏ん切りがついたわ。……あの人は、私が死ぬ間際でも、ソフィアが泣けばあちらへ行く人よ。……そんな人に、私の人生を預けるわけにはいかない」
涙は出なかった。
高熱のせいで体中の水分が蒸発してしまったかのように、心は乾ききっていた。
夜更け。
アデライドは寝室のベッドで、浅い眠りと覚醒の間を彷徨っていた。
サイラスの献身的な看病のおかげで、熱のピークは過ぎたようだが、まだ体は重い。
ガチャリ、と扉が開く音がした。
廊下の明かりを背負って入ってきたのは、エリアスだった。
「アデライド、起きているかい?」
彼は忍び足でベッドに近づいてきた。
アデライドは狸寝入りをしようかと思ったが、彼の手には小さな箱が握られているのが見え、薄目を開けた。
「……お帰りなさいませ」
「ああ、起こしてしまったかな。具合はどうだい?」
「おかげさまで、少し落ち着きました」
「よかった! やっぱり君は回復が早いね」
エリアスは心底安心したように椅子に座った。
そして、楽しげに報告を始めた。
「ソフィアも落ち着いたよ。彼女、どうしても僕と有名なパティスリーのケーキが食べたいって泣くから、ついつい付き合ってしまってね」
アデライドは、シーツの下で拳を握りしめた。
自分が高熱でうなされている間、この男は妹とケーキを食べていたのか。
「これ、君にもお土産だよ。季節限定のフルーツタルトだ。甘いものを食べれば元気が出るだろう?」
エリアスが差し出した箱からは、甘ったるいクリームの匂いがした。
今の胃の状態では、吐き気しか催さない匂いだ。
彼は、病人の食事制限すら考慮できない。
ただ、自分が良いことをしたという満足感をお裾分けしたいだけなのだ。
「……ありがとうございます。明日、いただきますわ」
「うん、そうしてくれ。ソフィアも『お姉様におすそ分けなんて優しいのね』って言っていたよ」
アデライドは天井を見上げた。
シャンデリアの飾りが、涙で滲むこともなく、ただ冷ややかに輝いている。
もういい。
もう十分だ。
これ以上、何を確かめる必要がある?
エリアスは、アデライドが「NO」と言わないことを「YES」だと受け取り続けるだろう。
彼女が静かに微笑んでいる限り、彼は自分が最高の夫だと信じ続けるだろう。
なら、最後まで演じきってやろう。
最後のカーテンコール――アデライドがこの家を出て行くその瞬間まで。
「エリアス様」
アデライドは掠れた声で呼んだ。
「何だい?」
「今日は、お疲れ様でした。……ソフィアを支えてくださって、感謝いたします」
「ああ、任せておくれ。君とソフィアを守るのが、僕の役目だからね」
エリアスは満足げに頷き、自分の寝室へと去っていった。
部屋に残されたのは、冷めた空気と、食べられることのないケーキの箱だけ。
アデライドはゆっくりと体を起こし、サイドテーブルの引き出しから手帳を取り出した。
そして、震える手で、ある日付に赤い印をつけた。
決行日は、二週間後。
夫の誕生日パーティーの翌日。
それが、彼女がこの家族ごっこから降りる日だ。
「……おやすみなさい、エリアス様。良い夢を」
アデライドは手帳を閉じ、深い眠りへと落ちていった。
妻は強いから放置しても死なないという、勝手な信頼に基づいて。
アデライドはゆっくりと息を吐き、顔を上げた。
高熱で潤んだ瞳を細め、唇の端を持ち上げる。
熱で朦朧とする意識の中で、彼女の防衛本能だけが完璧に機能した。
いつもの微笑みだ。
「……ええ、おっしゃる通りですわ、エリアス様」
声が震えなかったのは奇跡だった。
「私はただの熱ですもの。一晩寝れば治ります。ソフィアの心の傷の方が、よほど緊急を要しますわね」
「うん、分かってくれて嬉しいよ! やっぱり君は頼りになる妻だ」
エリアスは安堵し、アデライドの頬に軽くキスをした。
その唇の感触さえ、今は焼印のように不快だった。
「じゃあ、行ってくるよ。何か必要なものがあったら、サイラスに言うんだよ」
「はい。行ってらっしゃいませ」
アデライドは深々と頭を下げた。
エリアスの足音が遠ざかり、扉が閉まる音が響く。
その瞬間、アデライドはその場に膝から崩れ落ちた。
「奥様ッ!!」
どこからか見ていたのか、サイラスが血相を変えて駆け寄ってくる。
彼の太い腕が、アデライドの体を支えた。
「なんてことを……。旦那様は、正気ですか!? このような状態の奥様を置いて!」
「……いいのよ、サイラス」
アデライドはサイラスの腕の中で、うわ言のように呟いた。
「これで、踏ん切りがついたわ。……あの人は、私が死ぬ間際でも、ソフィアが泣けばあちらへ行く人よ。……そんな人に、私の人生を預けるわけにはいかない」
涙は出なかった。
高熱のせいで体中の水分が蒸発してしまったかのように、心は乾ききっていた。
夜更け。
アデライドは寝室のベッドで、浅い眠りと覚醒の間を彷徨っていた。
サイラスの献身的な看病のおかげで、熱のピークは過ぎたようだが、まだ体は重い。
ガチャリ、と扉が開く音がした。
廊下の明かりを背負って入ってきたのは、エリアスだった。
「アデライド、起きているかい?」
彼は忍び足でベッドに近づいてきた。
アデライドは狸寝入りをしようかと思ったが、彼の手には小さな箱が握られているのが見え、薄目を開けた。
「……お帰りなさいませ」
「ああ、起こしてしまったかな。具合はどうだい?」
「おかげさまで、少し落ち着きました」
「よかった! やっぱり君は回復が早いね」
エリアスは心底安心したように椅子に座った。
そして、楽しげに報告を始めた。
「ソフィアも落ち着いたよ。彼女、どうしても僕と有名なパティスリーのケーキが食べたいって泣くから、ついつい付き合ってしまってね」
アデライドは、シーツの下で拳を握りしめた。
自分が高熱でうなされている間、この男は妹とケーキを食べていたのか。
「これ、君にもお土産だよ。季節限定のフルーツタルトだ。甘いものを食べれば元気が出るだろう?」
エリアスが差し出した箱からは、甘ったるいクリームの匂いがした。
今の胃の状態では、吐き気しか催さない匂いだ。
彼は、病人の食事制限すら考慮できない。
ただ、自分が良いことをしたという満足感をお裾分けしたいだけなのだ。
「……ありがとうございます。明日、いただきますわ」
「うん、そうしてくれ。ソフィアも『お姉様におすそ分けなんて優しいのね』って言っていたよ」
アデライドは天井を見上げた。
シャンデリアの飾りが、涙で滲むこともなく、ただ冷ややかに輝いている。
もういい。
もう十分だ。
これ以上、何を確かめる必要がある?
エリアスは、アデライドが「NO」と言わないことを「YES」だと受け取り続けるだろう。
彼女が静かに微笑んでいる限り、彼は自分が最高の夫だと信じ続けるだろう。
なら、最後まで演じきってやろう。
最後のカーテンコール――アデライドがこの家を出て行くその瞬間まで。
「エリアス様」
アデライドは掠れた声で呼んだ。
「何だい?」
「今日は、お疲れ様でした。……ソフィアを支えてくださって、感謝いたします」
「ああ、任せておくれ。君とソフィアを守るのが、僕の役目だからね」
エリアスは満足げに頷き、自分の寝室へと去っていった。
部屋に残されたのは、冷めた空気と、食べられることのないケーキの箱だけ。
アデライドはゆっくりと体を起こし、サイドテーブルの引き出しから手帳を取り出した。
そして、震える手で、ある日付に赤い印をつけた。
決行日は、二週間後。
夫の誕生日パーティーの翌日。
それが、彼女がこの家族ごっこから降りる日だ。
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