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第26話:見つからない妻
雨が降りしきる王都の石畳を、一台の馬車が狂ったような速度で駆けていく。
窓から顔を覗かせているのは、エリアス・ベルンハルトだ。
彼の美しい蜂蜜色の髪は湿気で張り付き、整った顔立ちは焦燥で歪んでいた。
「次の場所へ急いでくれ! アデライドが行きそうな場所は、まだあるはずだ!」
彼は御者に怒鳴り、濡れた手で顔を覆った。
アデライドが姿を消してから、丸一日が経過していた。
実家であるクライスト伯爵邸は昨夜の騒ぎの後、混乱の極みにある。
そこには彼女はいなかった。
ならば、友人の家か?
それとも、懇意にしていた陶磁器の販売店か?
エリアスは片っ端から心当たりを回っていた。
しかし、どこへ行っても答えは同じだった。
『アデライド様? いえ、いらっしゃいませんが……』
そして、その答えの後に続くのは、決まって氷のように冷ややかな視線だった。
王都の一等地にあるサロン。
そこはアデライドが親しくしていた、美術商の夫人・ポメロイ男爵夫人の邸宅だった。
エリアスは必死の形相で夫人に詰め寄った。
「夫人! アデライドは来ていませんか? 彼女、急にいなくなってしまって……」
優雅に紅茶を飲んでいたポメロイ夫人は、カップをゆっくりと置き、エリアスを見上げた。
その瞳には、侮蔑の色が隠そうともせずに浮かんでいた。
「ベルンハルト卿。貴方様、よくもぬけぬけと私の前に顔を出せましたわね」
「え……?」
「アデライド様がいらっしゃらないのは当然ですわ。彼女はもう、貴方様のような鈍感な殿方の元には戻らないでしょうから」
エリアスは言葉を失った。
ポメロイ夫人は口元を隠しながら、冷淡に続けた。
「あの方、このサロンにいらっしゃる時だけは、本当に楽しそうに陶磁器の話をされていましたわ。でも、ふとした瞬間に見せる表情が、あまりにも寂しげで……。私が『ご主人様は?』と伺うと、いつもこうおっしゃっていましたの」
夫人はアデライドの声色を真似るように、少し声を低くした。
「『夫は妹の世話で忙しいのです。私は強いから大丈夫だと、信頼してくださっていますの』と」
エリアスの心臓が跳ねた。
それは、彼が何度もアデライドに言った言葉だ。
そして、アデライド自身もそう言って笑っていたはずだ。
「ほら! 彼女も納得していたんじゃないですか! 僕は彼女を信頼して――」
「信頼?」
夫人は鼻で笑った。
「卿、それは信頼ではありませんわ。放置と言うのです。貴方様は、ご自分が楽をするために、奥様の我慢強さに甘えていただけ。……社交界の皆様はご存じでしたよ? 『ベルンハルト卿は、有能な妻を飾り物にして、妹君とばかり遊んでいる愚か者だ』と」
ガツン、と頭を殴られたような衝撃が走った。
周囲の評価。
自分は家族思いの優しい夫で頼りがいのある義兄だと思われているはずだった。
しかし現実は、妻を粗末にする愚か者として嘲笑されていたのか?
「お引き取りくださいませ。これ以上、わたくしのサロンの空気を濁さないでいただきたいわ」
夫人は冷ややかに背を向けた。
エリアスは顔を真っ赤にして、逃げるようにその場を去るしかなかった。
夕刻。
エリアスは虚ろな目で屋敷に戻った。
雨は止んでいたが、彼の心の中は泥沼のように重く沈んでいた。
「……旦那様。お帰りなさいませ」
玄関で出迎えたサイラスの声も、どこかよそよそしい。
エリアスは何も答えず、ふらふらとダイニングルームへ向かった。
そこには、昨夜と同じく、冷え切った空気が漂っている。
彼はアデライドがいつも座っていた席に、ドサリと腰を下ろした。
テーブルの上には何もない。
花一輪飾られていない。
彼は目の前の何もない空間を見つめながら、ポメロイ夫人の言葉を反芻していた。
――それは信頼ではありませんわ。放置と言うのです。
「違う……、僕は……」
エリアスは頭を抱えた。
(僕はただ、ソフィアが可哀想だったから。彼女は弱くて、放っておけなかったから……)
アデライドは完璧で、何でもできて、いつも微笑んでいたから。
だから、大丈夫だと思っていたんだ。
微笑んでいた?
不意に、エリアスの脳裏で記憶のフィルムが巻き戻された。
窓から顔を覗かせているのは、エリアス・ベルンハルトだ。
彼の美しい蜂蜜色の髪は湿気で張り付き、整った顔立ちは焦燥で歪んでいた。
「次の場所へ急いでくれ! アデライドが行きそうな場所は、まだあるはずだ!」
彼は御者に怒鳴り、濡れた手で顔を覆った。
アデライドが姿を消してから、丸一日が経過していた。
実家であるクライスト伯爵邸は昨夜の騒ぎの後、混乱の極みにある。
そこには彼女はいなかった。
ならば、友人の家か?
それとも、懇意にしていた陶磁器の販売店か?
エリアスは片っ端から心当たりを回っていた。
しかし、どこへ行っても答えは同じだった。
『アデライド様? いえ、いらっしゃいませんが……』
そして、その答えの後に続くのは、決まって氷のように冷ややかな視線だった。
王都の一等地にあるサロン。
そこはアデライドが親しくしていた、美術商の夫人・ポメロイ男爵夫人の邸宅だった。
エリアスは必死の形相で夫人に詰め寄った。
「夫人! アデライドは来ていませんか? 彼女、急にいなくなってしまって……」
優雅に紅茶を飲んでいたポメロイ夫人は、カップをゆっくりと置き、エリアスを見上げた。
その瞳には、侮蔑の色が隠そうともせずに浮かんでいた。
「ベルンハルト卿。貴方様、よくもぬけぬけと私の前に顔を出せましたわね」
「え……?」
「アデライド様がいらっしゃらないのは当然ですわ。彼女はもう、貴方様のような鈍感な殿方の元には戻らないでしょうから」
エリアスは言葉を失った。
ポメロイ夫人は口元を隠しながら、冷淡に続けた。
「あの方、このサロンにいらっしゃる時だけは、本当に楽しそうに陶磁器の話をされていましたわ。でも、ふとした瞬間に見せる表情が、あまりにも寂しげで……。私が『ご主人様は?』と伺うと、いつもこうおっしゃっていましたの」
夫人はアデライドの声色を真似るように、少し声を低くした。
「『夫は妹の世話で忙しいのです。私は強いから大丈夫だと、信頼してくださっていますの』と」
エリアスの心臓が跳ねた。
それは、彼が何度もアデライドに言った言葉だ。
そして、アデライド自身もそう言って笑っていたはずだ。
「ほら! 彼女も納得していたんじゃないですか! 僕は彼女を信頼して――」
「信頼?」
夫人は鼻で笑った。
「卿、それは信頼ではありませんわ。放置と言うのです。貴方様は、ご自分が楽をするために、奥様の我慢強さに甘えていただけ。……社交界の皆様はご存じでしたよ? 『ベルンハルト卿は、有能な妻を飾り物にして、妹君とばかり遊んでいる愚か者だ』と」
ガツン、と頭を殴られたような衝撃が走った。
周囲の評価。
自分は家族思いの優しい夫で頼りがいのある義兄だと思われているはずだった。
しかし現実は、妻を粗末にする愚か者として嘲笑されていたのか?
「お引き取りくださいませ。これ以上、わたくしのサロンの空気を濁さないでいただきたいわ」
夫人は冷ややかに背を向けた。
エリアスは顔を真っ赤にして、逃げるようにその場を去るしかなかった。
夕刻。
エリアスは虚ろな目で屋敷に戻った。
雨は止んでいたが、彼の心の中は泥沼のように重く沈んでいた。
「……旦那様。お帰りなさいませ」
玄関で出迎えたサイラスの声も、どこかよそよそしい。
エリアスは何も答えず、ふらふらとダイニングルームへ向かった。
そこには、昨夜と同じく、冷え切った空気が漂っている。
彼はアデライドがいつも座っていた席に、ドサリと腰を下ろした。
テーブルの上には何もない。
花一輪飾られていない。
彼は目の前の何もない空間を見つめながら、ポメロイ夫人の言葉を反芻していた。
――それは信頼ではありませんわ。放置と言うのです。
「違う……、僕は……」
エリアスは頭を抱えた。
(僕はただ、ソフィアが可哀想だったから。彼女は弱くて、放っておけなかったから……)
アデライドは完璧で、何でもできて、いつも微笑んでいたから。
だから、大丈夫だと思っていたんだ。
微笑んでいた?
不意に、エリアスの脳裏で記憶のフィルムが巻き戻された。
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