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第27話:思い起こされる記憶
結婚記念日。
遅れて帰宅した翌朝。
――『私は大丈夫です。一人での食事も有意義でしたわ』
マグカップが割れた日。
――『たかが道具ですもの。ソフィアに怪我がなくて何よりでした』
高熱を出した日。
――『私はただの熱ですもの。ソフィアの心の傷の方が緊急を要しますわ』
そしてあの日の夜。
――『私の役割は、これで終わりましたわね』
エリアスの背筋を、氷水が流れるような悪寒が駆け抜けた。
あの微笑み。
あの美しい、歪みのない、完璧な微笑み。
あれは許しではなかった。
あれは喜びでもなかった。
あれは、諦めだ。
感情を表に出しても無駄だと悟った人間が、自分を守るために被る仮面だったのだ。
彼女は笑っていたのではない。
泣くのを諦めたのだ。
怒るのを諦めたのだ。
そして最後には、エリアスを愛することを諦めたのだ。
「ああ……らあああ……ッ!」
エリアスはテーブルに突っ伏した。
喉の奥から、呻き声が漏れる。
気づいてしまった。
彼女の強さは、エリアス自身が作り出したものだ。
エリアス自身が彼女に弱音を吐かせなかった。
彼自身が彼女のSOSを「君は強いから」という言葉で封殺した。
彼女が強かったわけじゃない。
エリアスが彼女を孤独という戦場に一人で立たせ、援軍を送らなかったから、彼女は武装するしかなかったのだ。
その結果が、これだ。
空っぽの家。
空っぽのクローゼット。
そして、手紙に残された『もう二度と、貴方の都合の良い妻には戻りません』という絶縁状。
「アデライド……、すまない……。気づかなかった……」
エリアスは自分の手を見た。
この手で、彼女を抱きしめることもできたはずなのに。
彼女の冷たい手を温めることもできたはずなのに。
この手が選んだのは、いつもソフィアだった。
ガタガタと震えが止まらない。
失って初めて気づく、という陳腐な言葉が、今の彼には死刑宣告のように重くのしかかった。
彼女はもう戻らない。
あの完璧な微笑みの裏で、彼女は着々と、冷徹に、この脱出を計画していたのだ。
エリアスがソフィアとケーキを食べている間も、彼が呑気に誕生日を楽しみにしている間も。
彼女にとって、エリアスはもう夫ではなく、捨てるべきゴミだったのだ。
「……旦那様」
いつの間にか、サイラスがそばに立っていた。
エリアスは縋るように顔を上げた。
涙で顔がぐしゃぐしゃだ。
「サイラス……、教えてくれ……。彼女はどこだ? 謝りたいんだ。土下座でも何でもする。だから……」
「今さら謝罪をして、何になりましょう」
サイラスの声は冷淡だった。
しかし、その瞳の奥には、憐れみのような色が僅かに揺れていた。
「奥様は、貴方様が気づくことすら期待しておられませんでした。……ですが、貴方様がご自分の罪の重さを自覚されたのであれば、最後の情けとして、一つだけヒントを差し上げましょう」
「ヒント……!?」
「奥様は、王都の喧騒を嫌っておられました。静かで、朝日が美しく、そして土が良い場所。……以前、貴方様と一度だけピクニックに行かれた、あの郊外の森を覚えておいでですか?」
エリアスの記憶がフラッシュバックする。
結婚して間もない頃。
まだ二人の関係が穏やかだった頃。
彼女が「ここの土は素晴らしいわ」と目を輝かせていた場所。
そうだ、あそこだ。
あそこには古い小屋があったはずだ。
「ありがとう、サイラス! ありがとう!」
エリアスは椅子を蹴倒して立ち上がった。
外はもう夜だ。
だが、じっとしてはいられなかった。
「すぐに行く! 馬を用意してくれ!」
「……この雨上がりの夜道です。危険ですが」
「構わない! これ以上、彼女を一人にしておけない!」
エリアスは飛び出していった。
サイラスはその背中を見送り、静かに溜息をついた。
「……遅すぎます、旦那様。奥様はもう、貴方様が追いつけるような場所にはいらっしゃいませんよ。心の距離が離れすぎております」
屋敷の扉が閉まる。
エリアスは闇の中へと駆け出した。
彼を待っているのが感動の再会ではなく、決定的な断絶であるとも知らずに……。
遅れて帰宅した翌朝。
――『私は大丈夫です。一人での食事も有意義でしたわ』
マグカップが割れた日。
――『たかが道具ですもの。ソフィアに怪我がなくて何よりでした』
高熱を出した日。
――『私はただの熱ですもの。ソフィアの心の傷の方が緊急を要しますわ』
そしてあの日の夜。
――『私の役割は、これで終わりましたわね』
エリアスの背筋を、氷水が流れるような悪寒が駆け抜けた。
あの微笑み。
あの美しい、歪みのない、完璧な微笑み。
あれは許しではなかった。
あれは喜びでもなかった。
あれは、諦めだ。
感情を表に出しても無駄だと悟った人間が、自分を守るために被る仮面だったのだ。
彼女は笑っていたのではない。
泣くのを諦めたのだ。
怒るのを諦めたのだ。
そして最後には、エリアスを愛することを諦めたのだ。
「ああ……らあああ……ッ!」
エリアスはテーブルに突っ伏した。
喉の奥から、呻き声が漏れる。
気づいてしまった。
彼女の強さは、エリアス自身が作り出したものだ。
エリアス自身が彼女に弱音を吐かせなかった。
彼自身が彼女のSOSを「君は強いから」という言葉で封殺した。
彼女が強かったわけじゃない。
エリアスが彼女を孤独という戦場に一人で立たせ、援軍を送らなかったから、彼女は武装するしかなかったのだ。
その結果が、これだ。
空っぽの家。
空っぽのクローゼット。
そして、手紙に残された『もう二度と、貴方の都合の良い妻には戻りません』という絶縁状。
「アデライド……、すまない……。気づかなかった……」
エリアスは自分の手を見た。
この手で、彼女を抱きしめることもできたはずなのに。
彼女の冷たい手を温めることもできたはずなのに。
この手が選んだのは、いつもソフィアだった。
ガタガタと震えが止まらない。
失って初めて気づく、という陳腐な言葉が、今の彼には死刑宣告のように重くのしかかった。
彼女はもう戻らない。
あの完璧な微笑みの裏で、彼女は着々と、冷徹に、この脱出を計画していたのだ。
エリアスがソフィアとケーキを食べている間も、彼が呑気に誕生日を楽しみにしている間も。
彼女にとって、エリアスはもう夫ではなく、捨てるべきゴミだったのだ。
「……旦那様」
いつの間にか、サイラスがそばに立っていた。
エリアスは縋るように顔を上げた。
涙で顔がぐしゃぐしゃだ。
「サイラス……、教えてくれ……。彼女はどこだ? 謝りたいんだ。土下座でも何でもする。だから……」
「今さら謝罪をして、何になりましょう」
サイラスの声は冷淡だった。
しかし、その瞳の奥には、憐れみのような色が僅かに揺れていた。
「奥様は、貴方様が気づくことすら期待しておられませんでした。……ですが、貴方様がご自分の罪の重さを自覚されたのであれば、最後の情けとして、一つだけヒントを差し上げましょう」
「ヒント……!?」
「奥様は、王都の喧騒を嫌っておられました。静かで、朝日が美しく、そして土が良い場所。……以前、貴方様と一度だけピクニックに行かれた、あの郊外の森を覚えておいでですか?」
エリアスの記憶がフラッシュバックする。
結婚して間もない頃。
まだ二人の関係が穏やかだった頃。
彼女が「ここの土は素晴らしいわ」と目を輝かせていた場所。
そうだ、あそこだ。
あそこには古い小屋があったはずだ。
「ありがとう、サイラス! ありがとう!」
エリアスは椅子を蹴倒して立ち上がった。
外はもう夜だ。
だが、じっとしてはいられなかった。
「すぐに行く! 馬を用意してくれ!」
「……この雨上がりの夜道です。危険ですが」
「構わない! これ以上、彼女を一人にしておけない!」
エリアスは飛び出していった。
サイラスはその背中を見送り、静かに溜息をついた。
「……遅すぎます、旦那様。奥様はもう、貴方様が追いつけるような場所にはいらっしゃいませんよ。心の距離が離れすぎております」
屋敷の扉が閉まる。
エリアスは闇の中へと駆け出した。
彼を待っているのが感動の再会ではなく、決定的な断絶であるとも知らずに……。
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