殿下、その婚約破棄の宣言が、すべての崩壊の始まりだと気付いていますか?

水上

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第59話:起死回生の舞踏会

「皆様! よくぞ参られた! 今宵は、王家の新たな門出を祝う宴である!」

 新離宮の大広間。
 シャンデリアの輝きの下、レイモンド殿下の高らかな声が響き渡りました。
 彼は壇上に立ち、まるで世界の王であるかのように両手を広げています。

 しかし、その声には空虚な響きがありました。
 招待された貴族たちの視線は、殿下ではなく、会場の隅に用意されたビュッフェ台に釘付けだったからです。

「……おい、見たか? 今日の料理」

「ああ。干し肉のパイと、酢漬けの魚、あとは瓶詰めの果物だけだ……」

「新鮮なサラダも、生魚のカルパッチョもないのか……」

 貴族たちの落胆した囁きが聞こえてきます。
 物流封鎖の影響は深刻です。

 王太子主催の舞踏会だというのに、並んでいるのは保存食ばかり。  
 華やかさの欠片もありません。

「ふん。……民が飢えている時に、よくもまあ保存食パーティーを開けたものだ」

 私の隣で、マックス様が呆れたように呟きました。

「ええ。ですが見てください、シルヴィア様を。……彼女だけは満更でもないようですわ」

 壇上の脇には、シルヴィア様が座っていました。
 彼女は鱗のようなスパンコールがびっしりとついた、重厚なマーメイドドレスを身にまとい、扇子で顔を仰いでいます。

「暑い……。ねえ、もっと窓を開けてよぉ! 風が足りないわ!」

 シルヴィア様が不満げに叫びます。
 確かに、会場内は異様な湿気に包まれていました。
 ガラス張りの壁は、外気との温度差と室内の湿気で白く結露し、水滴がダラダラと床に垂れています。

「窓を開けるのは危険ですわ」

 私はグラスの水を揺らしながら、独り言のように呟きました。

「外は低気圧による強風。窓を開ければ、室内の気圧が急激に変化し、最悪の場合、ガラスが吹き飛びます」

 その時、殿下が私を指差しました。

「そこにいるのは、ジュリアンナではないか! 前へ出ろ!」

 会場の視線が一斉に私に集まります。
 私は優雅に微笑み、マックス様と共に壇上の前へと進み出ました。

「お招き感謝いたします、殿下。……素敵な水槽ですわね」

「水槽だと? ふん、負け惜しみを。このガラスの宮殿こそ、新時代の王都の象徴だ!」

 殿下は鼻を鳴らし、勝ち誇った顔で貴族たちを見渡しました。

「皆も知っての通り、現在、我が国は北の反逆者によって物流を止められている! だが、恐れることはない! 今日、この場にジュリアンナを呼んだのは、彼女に降伏させるためだ!」

「……降伏、でございますか?」

「そうだ! 貴様がアイゼンガルドで稼いだ不正な金と技術を全て王家に献上し、橋の通行を再開させれば、これまでの罪(国家反逆罪)を不問にしてやろうというのだ! 感謝するがいい!」

 会場がざわめきます。
 貴族たちは期待の眼差しを私に向けました。

「頼む、受けてくれ」

「もう干し肉は嫌だ」

 という心の声が聞こえてきそうです。

 しかし、私はゆっくりと首を横に振りました。

「お断りします」

「なっ……!?」

「殿下。私は降伏しに来たのではありません。しに来たのです」

 私は足元の床――大理石風のタイルを、ヒールの先でコツコツと叩きました。

「皆様、お気づきになりませんか? ……先ほどから、足元が冷たいことに」

 貴族たちが怪訝な顔で下を向きます。
 靴底から伝わる冷気が、先ほどよりも強くなっています。

「そして、耳を澄ませてください。……音楽の裏で、何かが逆流する音が聞こえませんか?」

 優雅なワルツの合間に、床下のどこかから、空気が抜けるような、水が湧き上がるような、不気味な音が響いています。

「な、なんだこの音は……?」

「排水口か? トイレの方から聞こえるぞ」

「満潮時刻が近づいています」

 私は懐中時計を確認しました。

「この宮殿の排水設備には、海水の逆流を防ぐフラップゲート(逆止弁)が設置されていません。……外の水位が床の高さを超えた瞬間、サイフォンの原理によって、下水管を通じて海水が室内に噴き出します」

「はぁ? 何を言っている! ここは海上宮殿だぞ! 床が水浸しになるわけがないだろう!」

 殿下が顔を真っ赤にして否定しました。

「それに、この床は最新の工法で作られた……」

 殿下の言葉を遮るように、微かな水音が響きました。

 全員が音のした方を見ました。
 会場の隅、壁際の床から、黒いシミが広がり始めています。

「あら、レイモンド様ぁ。……あそこ、なんか漏れてますよぉ?」

 シルヴィア様がのんきに指差しました。
 その黒いシミは、見る見るうちに広がり、そして――。

 タイルの継ぎ目から、海水が泡と共に噴き出してきました。

「ひぃっ!? み、水!?」

「冷たい! これ、海水だわ!」

 近くにいた貴婦人たちが悲鳴を上げてドレスの裾を持ち上げます。
 しかし、水は一箇所からではありません。
 部屋の四隅、そして通気口から、次々と海水が侵入し始めました。

「な、ななな、なんだこれは!? どこから水が!?」

 殿下がパニックになって叫びます。

「パスカルの原理ですわ、殿下」

 私は冷静に解説しました。

「水は高いところから低いところへ流れますが、密閉された管の中では圧力が均等に伝わります。……外の波の圧力が、逃げ場を失って、一番抵抗の少ないこの部屋に噴出したのです」

 私は一歩下がりました。
 海水はすでに、くるぶしほどの高さまで浸水しています。

「申し上げたはずです。『水際立った演出』になると。……さあ、舞踏会は終わりです。これより先は避難訓練となりますわ」

「ふ、ふざけるな! 止めろ! 誰か水を止めろぉぉぉ!」

 殿下の絶叫と共に、窓の外で巨大な波がガラスに打ち付けられました。
 ガラスが悲鳴を上げ、建物全体が船のように大きく揺らぎました。

「キャアアアアッ!」

「逃げろ! 沈むぞ!」

 我先にと出口へ殺到する貴族たち。
 しかし、重いマーメイドドレスを着たシルヴィア様だけが、その場から動けずにいました。

「動けない! ドレスが重くて……、誰か助けてぇ!」

 その姿は、陸に打ち上げられた魚のように滑稽で、そして哀れでした。

「行きますよ、マックス様。……ゴンドラの出番です」

 私は混乱する会場を背に、素早く出口へと向かいました。
 起死回生を狙った舞踏会は、物理法則という冷酷な審判によって、文字通り海の藻屑となろうとしていました。

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