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第60話:水没する舞踏会
「キャアアアアッ! 冷たい! 汚い!」
「私のドレスが! 最高級のシルクが!」
新離宮の大広間は、文字通り阿鼻叫喚の地獄絵図と化していました。
床下の排水口から逆流した海水は、見る見るうちに水かさを増し、貴族たちの膝下まで到達しています。
しかも、ただの海水ではありません。
王都の汚水を含んだ、黒く濁ったドブ水です。
「お、王太子殿下! どうにかしてください! 出口のドアが水圧で開きません!」
一人の貴族が、レイモンド殿下に詰め寄りました。
この広間は半地下構造になっており、ドアは外開きです。
外の水位が上がってしまえば、中からは人力で開けることは不可能です。
「し、知るか! 私に触るな! 服が汚れるだろう!」
殿下はどうしていたかと言うと、部屋の中央にある一番高いテーブルの上に土足で上がり、ガタガタと震えていました。
民を導くべき王族が、真っ先に高所へ逃げ、民を見下ろしている。
その姿は、この国の縮図そのものでした。
「……見苦しいですわね。リーダーシップとは、他者を踏み台にすることではありませんのに」
私はくるぶしまで水に浸かりながらも、動じることなく周囲を観察しました。
「マックス様、振動が始まります。壁際に寄ってください」
「振動?」
「ええ。ご覧になってください」
パニックになった数百人の貴族たちが、出口を求めて一斉に走り回っています。
水飛沫を上げ、悲鳴を上げ、右往左往する群衆。
その不規則な動きが、ある瞬間、建物の固有振動数と共鳴しました。
ガラス張りの壁が、ミシミシと不気味な音を立てて歪み始めます。
「共振です。設計強度の低い建物で、大勢の人間がパニックになれば、そのエネルギーは地震に匹敵する破壊力を持ちます」
ついに、一枚の巨大な窓ガラスが、圧力と振動に耐えきれずに砕け散りました。
そこから、怒涛のような夜の波が押し寄せてきます。
「うわあああああっ!」
新たな海水の流入により、水位は一気に腰の高さまで上昇しました。
テーブルの上に避難していた殿下も、バランスを崩して汚水の中に転落しました。
「ぶくっ、げほっ! しょっぱい! 目が、目がぁ!」
泥水にまみれ、溺れる犬のようになった殿下。
しかし、それよりも悲惨な状態なのが、シルヴィア様でした。
「たす、助けてぇ……! 動けないぃぃ!」
彼女の悲鳴が響きます。
見れば、彼女は水位の上昇と共に、床に縫い付けられたように動けなくなっていました。
原因は、あの自慢のマーメイドドレスです。
「……あらあら。スパンコールと分厚い生地が水を吸って、ものすごい重量になっていますわね」
私は冷静に分析しました。
「水を含んだ布の重さは、乾燥時の約三倍。さらにマーメイドラインで足が拘束されているため、水の抵抗をまともに受けています。……物理的に錨を下ろした状態ですわ」
「レ、レイモンド様ぁ! 手を引いて! 重いのよぉ!」
シルヴィア様が必死に手を伸ばしますが、這い上がろうとするレイモンド殿下は、彼女の手を振り払いました。
「離せ! お前のせいで私も沈むだろうが! 重いんだよ!」
「なっ……! あんた、私を見捨てる気!?」
「当たり前だ! 私の命は国家そのものなんだぞ!」
醜い罵り合いと共に、二人は汚水の中で取っ組み合いを始めました。
愛も宝石も、泥水の中では何の役にも立ちません。
「……さて。そろそろお時間ですわ」
私はマックス様に合図を送り、砕けた窓ガラスの方へと向かいました。
窓の外には、荒れ狂う海面がすぐそこまで迫っています。
「ジュリアンナ! 海に飛び込む気か!?」
「いいえ。……お迎えが来ました」
暗い海面から、一本のロープが投げ込まれました。
それをキャッチしたのは、私の指示で待機していたアイゼンガルドの精鋭部隊です。
彼らがロープを引くと、波間から一艘の小船が、まるで幽霊船のようにヌッと姿を現しました。
「ゴンドラ……?」
「ええ。私が開発した、不沈構造の装甲ゴンドラです」
私はマックス様の手を借りて、窓枠を乗り越え、軽やかにゴンドラへと飛び移りました。
私のドレスの下にはコルクの救命胴衣がありますが、濡れることなく乗り込むことができました。
ゴンドラは波に揺れながらも、安定して浮かんでいます。
私は船首に立ち、ランタンを掲げました。
その光は、水没した大広間を亡霊のように照らし出しました。
「――皆様。舞踏会はお楽しみいただけまして?」
私の声に、溺れかけていた貴族たちが一斉に顔を上げました。
「ジ、ジュリアンナ様!?」
「船だ! 船があるぞ!」
「助けてくれ! 金なら払う! 乗せてくれ!」
貴族たちが窓際に殺到しようとしますが、水圧とドレスの重さで思うように動けません。
「落ち着いてください。定員には限りがございます」
私は冷徹に見下ろしました。
「この船は、私の招待状をお持ちの方、およびアイゼンガルドとの友好条約に署名できる方のみを救助いたします。……もちろん、救助費用は別途請求させていただきますが」
「払う! いくらでも払うから!」
「契約書はどこだ! サインする!」
我先にと手を挙げる貴族たち。
その中で、レイモンド殿下とシルヴィア様だけが、汚水にまみれた顔で呆然と私を見上げていました。
「き、貴様……。最初から、こうなることを知っていたのか……?」
殿下が震える声で問いました。
「ええ。基礎のない場所(埋立地)に、排水設備のない箱(離宮)を置けば、大潮の夜にどうなるか。……建築士ならずとも、学生でも分かる理科の問題ですわ」
私はニッコリと微笑み、殿下に手を……、差し伸べませんでした。
「残念ながら、殿下への招待状は用意しておりません。……ですが、ご安心を。水が引くまであと六時間。天井のシャンデリアにしがみついていれば、溺死は免れますわ」
「ろ、六時間……!?」
「水温は低いので、低体温症にはお気をつけて。……ああ、それと」
私はシルヴィア様に視線を向けました。
「シルヴィア様。そのドレス、素敵ですわよ。本物の人魚のように、水がお似合いです」
「イヤァァァ! 助けてぇ! ドレスが、ドレスが脱げないのぉ!」
「さあ、出航です! マックス様、櫓をお願いします!」
「了解した」
マックス様が力強く漕ぎ出し、ゴンドラは浸水する離宮を離れました。
背後で響く「待ってくれ!」「行かないでくれ!」という絶叫は、風雨の音にかき消されていきました。
水没する舞踏会。
それは、腐敗した王政が物理的に沈没した瞬間でした。
「私のドレスが! 最高級のシルクが!」
新離宮の大広間は、文字通り阿鼻叫喚の地獄絵図と化していました。
床下の排水口から逆流した海水は、見る見るうちに水かさを増し、貴族たちの膝下まで到達しています。
しかも、ただの海水ではありません。
王都の汚水を含んだ、黒く濁ったドブ水です。
「お、王太子殿下! どうにかしてください! 出口のドアが水圧で開きません!」
一人の貴族が、レイモンド殿下に詰め寄りました。
この広間は半地下構造になっており、ドアは外開きです。
外の水位が上がってしまえば、中からは人力で開けることは不可能です。
「し、知るか! 私に触るな! 服が汚れるだろう!」
殿下はどうしていたかと言うと、部屋の中央にある一番高いテーブルの上に土足で上がり、ガタガタと震えていました。
民を導くべき王族が、真っ先に高所へ逃げ、民を見下ろしている。
その姿は、この国の縮図そのものでした。
「……見苦しいですわね。リーダーシップとは、他者を踏み台にすることではありませんのに」
私はくるぶしまで水に浸かりながらも、動じることなく周囲を観察しました。
「マックス様、振動が始まります。壁際に寄ってください」
「振動?」
「ええ。ご覧になってください」
パニックになった数百人の貴族たちが、出口を求めて一斉に走り回っています。
水飛沫を上げ、悲鳴を上げ、右往左往する群衆。
その不規則な動きが、ある瞬間、建物の固有振動数と共鳴しました。
ガラス張りの壁が、ミシミシと不気味な音を立てて歪み始めます。
「共振です。設計強度の低い建物で、大勢の人間がパニックになれば、そのエネルギーは地震に匹敵する破壊力を持ちます」
ついに、一枚の巨大な窓ガラスが、圧力と振動に耐えきれずに砕け散りました。
そこから、怒涛のような夜の波が押し寄せてきます。
「うわあああああっ!」
新たな海水の流入により、水位は一気に腰の高さまで上昇しました。
テーブルの上に避難していた殿下も、バランスを崩して汚水の中に転落しました。
「ぶくっ、げほっ! しょっぱい! 目が、目がぁ!」
泥水にまみれ、溺れる犬のようになった殿下。
しかし、それよりも悲惨な状態なのが、シルヴィア様でした。
「たす、助けてぇ……! 動けないぃぃ!」
彼女の悲鳴が響きます。
見れば、彼女は水位の上昇と共に、床に縫い付けられたように動けなくなっていました。
原因は、あの自慢のマーメイドドレスです。
「……あらあら。スパンコールと分厚い生地が水を吸って、ものすごい重量になっていますわね」
私は冷静に分析しました。
「水を含んだ布の重さは、乾燥時の約三倍。さらにマーメイドラインで足が拘束されているため、水の抵抗をまともに受けています。……物理的に錨を下ろした状態ですわ」
「レ、レイモンド様ぁ! 手を引いて! 重いのよぉ!」
シルヴィア様が必死に手を伸ばしますが、這い上がろうとするレイモンド殿下は、彼女の手を振り払いました。
「離せ! お前のせいで私も沈むだろうが! 重いんだよ!」
「なっ……! あんた、私を見捨てる気!?」
「当たり前だ! 私の命は国家そのものなんだぞ!」
醜い罵り合いと共に、二人は汚水の中で取っ組み合いを始めました。
愛も宝石も、泥水の中では何の役にも立ちません。
「……さて。そろそろお時間ですわ」
私はマックス様に合図を送り、砕けた窓ガラスの方へと向かいました。
窓の外には、荒れ狂う海面がすぐそこまで迫っています。
「ジュリアンナ! 海に飛び込む気か!?」
「いいえ。……お迎えが来ました」
暗い海面から、一本のロープが投げ込まれました。
それをキャッチしたのは、私の指示で待機していたアイゼンガルドの精鋭部隊です。
彼らがロープを引くと、波間から一艘の小船が、まるで幽霊船のようにヌッと姿を現しました。
「ゴンドラ……?」
「ええ。私が開発した、不沈構造の装甲ゴンドラです」
私はマックス様の手を借りて、窓枠を乗り越え、軽やかにゴンドラへと飛び移りました。
私のドレスの下にはコルクの救命胴衣がありますが、濡れることなく乗り込むことができました。
ゴンドラは波に揺れながらも、安定して浮かんでいます。
私は船首に立ち、ランタンを掲げました。
その光は、水没した大広間を亡霊のように照らし出しました。
「――皆様。舞踏会はお楽しみいただけまして?」
私の声に、溺れかけていた貴族たちが一斉に顔を上げました。
「ジ、ジュリアンナ様!?」
「船だ! 船があるぞ!」
「助けてくれ! 金なら払う! 乗せてくれ!」
貴族たちが窓際に殺到しようとしますが、水圧とドレスの重さで思うように動けません。
「落ち着いてください。定員には限りがございます」
私は冷徹に見下ろしました。
「この船は、私の招待状をお持ちの方、およびアイゼンガルドとの友好条約に署名できる方のみを救助いたします。……もちろん、救助費用は別途請求させていただきますが」
「払う! いくらでも払うから!」
「契約書はどこだ! サインする!」
我先にと手を挙げる貴族たち。
その中で、レイモンド殿下とシルヴィア様だけが、汚水にまみれた顔で呆然と私を見上げていました。
「き、貴様……。最初から、こうなることを知っていたのか……?」
殿下が震える声で問いました。
「ええ。基礎のない場所(埋立地)に、排水設備のない箱(離宮)を置けば、大潮の夜にどうなるか。……建築士ならずとも、学生でも分かる理科の問題ですわ」
私はニッコリと微笑み、殿下に手を……、差し伸べませんでした。
「残念ながら、殿下への招待状は用意しておりません。……ですが、ご安心を。水が引くまであと六時間。天井のシャンデリアにしがみついていれば、溺死は免れますわ」
「ろ、六時間……!?」
「水温は低いので、低体温症にはお気をつけて。……ああ、それと」
私はシルヴィア様に視線を向けました。
「シルヴィア様。そのドレス、素敵ですわよ。本物の人魚のように、水がお似合いです」
「イヤァァァ! 助けてぇ! ドレスが、ドレスが脱げないのぉ!」
「さあ、出航です! マックス様、櫓をお願いします!」
「了解した」
マックス様が力強く漕ぎ出し、ゴンドラは浸水する離宮を離れました。
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