殿下、婚約破棄は承りましたので、戻ってと懇願されても知りませんよ?~白い結婚の契約内容に溺愛は含まれていなかったと思うのですが~

水上

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第28話:逃した魚

 王太子ルーカスは、長い廊下を歩きながら、顔を歪めていた。

「……痛い」

 一歩踏み出すたびに、足の裏に激痛が走る。
 彼は思わず立ち止まり、壁に手をついた。

「くそっ、なんだこの靴は……。拷問器具か?」

 彼が履いているのは、最新流行の革靴だ。
 先端が鋭く尖り、エナメルの光沢が美しい。

 フェリシアが「ルーカス様に絶対似合うわ!」と選んだ一足である。

 だが、その機能性は皆無だった。
 革は板のように硬く、靴底は薄い。

(……以前は、こんな痛みはなかったはずだ)

 ルーカスの脳裏に、ふと、地味な眼鏡をかけた元婚約者の姿が浮かんだ。

『殿下、貴方様の足は扁平足気味で、着地時の衝撃吸収能力が低下しています』

 かつてセレフィーナは、そう言ってルーカスの靴をすべて回収し、中敷きを自作していた。
 コルクとラテックスを組み合わせ、足のアーチを支える形状に成形された特製インソール。

 さらに、革の硬い部分には柔軟剤を塗り込み、踵の摩擦を防ぐためのパッドまで仕込んでいた。

『見た目は変わりませんが、これで歩行時の疲労度は40%軽減されます』

 当時は「余計なお世話だ」「貧乏くさい中敷きなんて入れるな」と疎ましく思っていた。
 だが、彼女がいなくなった今、ルーカスの足は悲鳴を上げていた。

 中敷きのない靴の中で、足の指は圧迫され、踵は擦り剥け、足底筋膜炎のような痛みがふくらはぎまで上がってきている。

「……足元をすくわれる、とはこのことか」

 ルーカスは自嘲気味に呟き、痛む足を引きずって執務室に入った。
 机の上には、未処理の書類が山のように積まれている。

『製粉水車の崩壊による食料価格の高騰』

『繊維工場の火災による輸出停止と失業者増加』

『時計塔の故障による市民の混乱』

『豪華馬車の事故による修理費請求』

 そして今日、新たに届いた報告書。

『王都の下水道ポンプ、焼き付きにより停止。汚水が逆流する恐れあり』

「……またか」

 ルーカスはドサリと椅子に沈み込んだ。
 全てのトラブルの原因が、摩擦と摩耗と潤滑不足に起因している。

 それはまさに、セレフィーナが専門としていた領域だ。

「まさか、彼女が……、国を回していたのか?」

 認めたくなかった。
 地味で、可愛げがなく、理屈ばかりこねる女。

 フェリシアのような華やかさも、甘い言葉もない。
 だが、彼女はまさに油だった。

 目に見えない場所で、巨大な国家という機械の摩擦を消し、熱を冷まし、滑らかに動かしていた、必要不可欠な潤滑油。

 それを拭い去ってしまった今、この国はギシギシと音を立てて自壊しようとしている。

「ルーカス様ぁ~!」

 扉が乱暴に開かれ、フェリシアが入ってきた。
 彼女は鼻をつまみ、不満げに叫んだ。

「王都中がなんだか臭いのよぉ! 下水道が溢れてるんじゃない? 私のドレスが汚れちゃうから、なんとかしてよ!」

「……」

「それにぃ、最近ご飯も美味しくないし、パンも硬いし! ねえ聞いてるの!? 私、もっと美味しいお魚が食べたい! 北の辺境伯領では、すごいご馳走を食べてるって噂よ?」

 フェリシアの甲高い声が、頭痛の種のように響く。
 かつては天使のさえずりに聞こえたその声が、今はただのノイズにしか聞こえない。

「……黙ってくれ」

「え?」

「今、考え事をしているんだ。……下がってくれ」

 ルーカスの低い声に、フェリシアは「なによ、つまんない男!」と吐き捨てて出て行った。

 バタンと閉まる扉の音。
 蝶番の油が切れかけているのか、少しだけ嫌な音がした。

 ルーカスは痛む足をさすりながら、窓の外の雨空を見上げた。
 国中の歯車が狂い始めている。

 そして、その修理ができる唯一の技師は、もう二度と戻らない場所に行ってしまったのだという絶望感が、冷たい雨と共に彼を濡らしていった。

「セレフィーナは今……、どんな人生を歩んでいるのだろうか」

 その問いに答える者はいない。

 ただ、遠く離れた北の地で、彼女が温かい料理と愛に包まれていることだけは、皮肉にも確かな事実だった

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