殿下、婚約破棄は承りましたので、戻ってと懇願されても知りませんよ?~白い結婚の契約内容に溺愛は含まれていなかったと思うのですが~

水上

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第30話:絶縁宣言

「殿下。物理学には不可逆過程という概念があります」

「ふ、不可逆……?」

「熱いお湯が冷めることはあっても、冷めた水が勝手に熱くなることはありません。割れたガラスが元の形に戻ることもありません。……そして」

 セレフィーナは、ルーカスの顔を真っ直ぐに見据えた。

「一度焼き付いて破損した部品は、二度と元には戻りません。表面を磨こうが、油を差そうが、内部組織が破壊されているのです」

「な、何を言って……」

「貴方が私を捨て、フェリシア様を選んだあの夜。私と貴方の間には、決定的な凝着摩耗が発生しました。信頼という潤滑油が切れ、関係性は焼き付き、破断したのです」

 セレフィーナは静かに、明確な拒絶を込めて告げた。

「殿下、私たちの関係は修理不可能です。……どうぞ、お引き取りください」

 その言葉は、どんな罵倒よりも重く、ルーカスの心臓を打ち抜いた。
 論理的であるがゆえに、反論の余地がない。

 感情的な喧嘩なら仲直りもできるかもしれない。
 だが、物理的に壊れていると判定されたものは、捨てるしかないのだ。

「そ、そんな……。私は王太子だぞ!? 命令だ、戻れ!」

 錯乱したルーカスが叫ぶ。
 その時、グレイグがセレフィーナの肩を抱き寄せた。

「聞こえなかったのか? 妻は『無理だ』と言った。……それとも、辺境伯軍を敵に回してでも、彼女を連れて行くつもりか?」

 周囲の護衛たちが一斉に剣の柄に手をかけた。
 領民たちも睨みつけている。

 この地において、セレフィーナはただの貴族令嬢ではない。
 彼らの生活を支え、豊かにしてくれた恩人なのだ。

「ひっ……、う、うう……」

 ルーカスは圧倒的なアウェーの空気に呑まれ、膝から崩れ落ちた。
 足の激痛と、心の絶望が、彼を地面に縛り付ける。

「あ、ああ……、私の足が……、国が……」

 地面に這いつくばる王太子。
 その姿を見下ろしながら、セレフィーナは無感情にグレイグに言った。

「旦那様。行きましょう。ここに長居すると、負のオーラでこちらの精神衛生まで腐食されそうです」

「ああ、そうだな。……おい、この男を王都へ送り返せ」

「はっ!」

 兵士たちに両脇を抱えられ、引きずられていくルーカス。

「セレフィーナァァァ!」という悲痛な叫び声が遠ざかっていく。

 セレフィーナは一度も振り返らなかった。
 彼女はグレイグの方を向き、ふわりと微笑んだ。

「……空気が綺麗になりましたね」

「お前、本当に容赦ないな」

「事実を申し上げたまでです。……それに」

 セレフィーナはグレイグの腕に自分の腕を絡ませた。

「私にはもう、最高のパートナーがおりますので。他の部品が入る隙間など、1ミクロンもありませんわ」

 その言葉に、グレイグは耳まで真っ赤にして咳払いをした。

「……帰ったら、美味い茶でも淹れてやる」

「はい。糖分補給が必要です。……あの騒音のせいで、少しカロリーを消費しましたから」

 二人は寄り添い、光の満ちる屋敷へと歩き出した。

 背後には春の風が吹き抜け、愚かな王太子の痕跡を消し去っていった。

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