殿下、婚約破棄は承りましたので、戻ってと懇願されても知りませんよ?~白い結婚の契約内容に溺愛は含まれていなかったと思うのですが~

水上

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第35話:焦げ付いた鍋の底

 辺境伯領の境界線付近。

 護送用の馬車――サスペンションなど存在しない、鉄格子のついた箱馬車――が、ガタゴトと重苦しい音を立てて停車していた。

「いやだ……、いやだぁ……! 私は次期王妃になるはずだったのよ! なんで私が修道院なんかに行かなきゃいけないの!」

「離せ! 私は王太子だぞ! この縄を解け!」

 馬車の中からは、往生際の悪い叫び声が漏れ聞こえてくる。
 フェリシアは詐欺罪および公金横領罪、ルーカスは王家への背任行為による廃嫡と幽閉。

 王都の華やかな生活から一転、彼らを待っているのは冷たい石壁と、終わりのない償いの日々だ。

 セレフィーナとグレイグは、少し離れた場所からその様子を見送っていた。

「……エネルギーの無駄遣いですね。叫んだところで、拘束具の強度が変わるわけでもないのに」

 セレフィーナが淡々と呟く。
 彼女の中には、もう彼らに対する怒りも悲しみもなかった。

 あるのは処理済みの案件という事務的な認識だけだ。
 グレイグがふん、と鼻を鳴らした。

「全くだ。……見ろあの顔を」

 グレイグが顎でしゃくった先、鉄格子の隙間から、絶望に染まったルーカスとフェリシアの顔が見えた。
 真っ黒に汚れ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、精気のない土気色をしている。

「焦げ付いた鍋の底みたいな顔をしてやがる」

 グレイグは辛辣な比喩を投げかけた。

「火加減を間違えたのはあいつらだ。何でも強火でガンガン焚けばいいってもんじゃない。……一度焦げ付いた料理は、もう食えたもんじゃないからな」

 その言葉は、二人の耳に届いたかどうか定かではない。
 御者が鞭を振るい、馬車が動き出す。

 摩擦係数の高い車軸の音が、彼らの悲鳴をかき消しながら、夕闇の向こうへと消えていった。

「……行きましたね」

「ああ。これで少しは静かになる」

 グレイグは大きく伸びをし、それからセレフィーナに向き直った。
 夕日が彼の背中を照らし、長い影を落としている。

「さて、セレフィーナ。……話がある」

 グレイグの声色が、少し変わった。
 セレフィーナの心臓が、トクンと跳ねた。

(……来ましたか)

 彼女は冷静を装いながら、内心で覚悟を決めた。
 ルーカスたちが退場し、領地の問題も解決した。

 井戸は水を汲み上げ、風車は回り、工場は稼働し、物流はスムーズに流れている。
 つまり、彼女の技術顧問としての役割は完了したのだ。

 契約書には『領地の経営再建が軌道に乗るまで』という条項があったはずだ。
 その条件は、既に満たされている。

 これからするのは、決して避けては通れない、契約の話だ。

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