殿下、婚約破棄は承りましたので、戻ってと懇願されても知りませんよ?~白い結婚の契約内容に溺愛は含まれていなかったと思うのですが~

水上

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第36話:契約

「……はい、分かっております旦那様。契約の件ですね」

 セレフィーナは、震えそうになる声を意志の力で抑え込んだ。

「私の役目は終わりました。これより直ちに荷造りを開始し、明日の朝には……」

「は?」

 グレイグが眉間のしわを深くした。

「何を言っている。荷造りだと?」

「はい。私たちの白い結婚は、領地経営のためのパートナー契約でした。問題が解消された以上、契約終了となるのが論理的帰結です」

 セレフィーナは早口でまくし立てた。
 そうしないと、目頭が熱くなって、視界が滲んでしまいそうだったからだ。

 物理的な摩擦は制御できても、この胸の痛みだけは、どんな数式でも制御できない。

「短い間でしたが、有意義なデータがたくさん取れました。貴方様のような素晴らしい方と過ごせた時間は、私の人生における最大の……」

「待て待て待て」

 グレイグが大きな手で、セレフィーナの口を塞いだ。
 物理的な強制停止。

「お前の思考回路はどうなってるんだ。……誰が終わらせると言った?」

「むぐ……?(え?)」

 グレイグは手を離すと、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
 それは、二人が最初に交わした契約書だった。

 彼はそれを、セレフィーナの目の前でビリビリと破り捨てた。

「ああっ! 何をするのですか! 公文書の破棄は……!」

「こんな紙切れはもういらん。……俺がしたいのは、契約の更新じゃない」

 グレイグは一歩踏み出し、セレフィーナとの距離をゼロにした。
 彼の体温が、息遣いが、直接伝わってくる。

「新規契約だ」

「し、新規……?」

「ああ。期間は無期限。業務内容は領地経営の補佐に加え、俺の人生のパートナーとしての全権限を委譲する」

 グレイグは、セレフィーナの左手を取り、薬指に嵌められたダイヤモンドの指輪に、そっと口づけた。

「報酬は、俺の愛すべてだ。……どうだ、条件は悪くないはずだが」

 セレフィーナは、瞬きを忘れてグレイグを見つめた。
 思考回路がショート寸前だ。

 白い結婚の終了。
 それは、関係の終わりではなく、色をつけるための始まりだという意味なのか。

「……条件確認を」

 セレフィーナの声が震えた。

「その契約には、寝室の共有も含まれますか?」

「当然だ。クマのぬいぐるみはリストラだ。今後は俺が抱き枕になる」

「……栄養管理と、定期的な頭部への撫では継続されますか?」

「俺が死ぬまで、毎日やってやる」

 グレイグは、悪戯っぽく笑った。

「それと、俺からの要望も一つある」

「な、何でしょうか。可能な限り対応しますが……」

「……俺の名前を呼べ。いつまでも旦那様じゃ他人行儀だ」

 セレフィーナは息を呑んだ。

 名前。
 ただの呼称記号。

 だが、それを呼ぶことは、彼を主としてではなく、個として受け入れるということ。

 彼女は深呼吸をし、肺の中の空気を入れ替えた。
 そして、目の前の愛おしい熱源を見上げた。

「……グレイグ様」

 名前を呼んだ瞬間、胸の奥で何かが溶けた気がした。
 それは、長い間彼女を縛っていた理屈という名の殻かもしれない。

「条件を受諾します。……グレイグ様との永久契約を」

「交渉成立だな」

 グレイグが満足げに笑い、セレフィーナの腰を引き寄せた。

 二人の唇が重なる。

 互いの存在を確認し、温度を共有し、魂を溶け合わせるためのキス。

(……ああ)

 セレフィーナは閉じた瞼の裏で、これまでの価値観が崩れ去っていくのを感じた。

 接触面から伝わる熱量は計算不能。
 心拍数は測定限界を突破、脳内物質は幸福感で飽和状態。

 どんな高度な論文よりも、どんな完璧な実験データよりも。
 今、この瞬間が、世界で一番正しい現象であると、彼女の本能が理解していた。

 唇が離れた時、セレフィーナの顔は夕日よりも赤く染まっていた。
 グレイグもまた、耳まで真っ赤にしている。

「……悪くない熱量だったな」

「……はい。摩擦熱とは異なる、非常に心地よいエネルギー交換でした」

 二人は顔を見合わせ、プッと吹き出した。

 そして、強く抱きしめ合う。
 焦げ付いた過去は捨て去られた。

 ここから始まるのは、二人で火加減を調整しながら、じっくりと煮込んでいく、温かくて甘い愛という名の料理だ。

「帰りましょう、グレイグ様。……お腹が空きました」

「ああ。今日はとびきりの肉料理を作ってやる。……明日の朝まで寝かせないくらいのエネルギーをつけてやるからな」

「……!? それは、どういう意味でのエネルギーでしょうか……?」

「想像に任せる」

 手を繋いだセレフィーナとグレイグが、ゆっくりと歩を進める。

 幸せな二人の新しい人生が、これから始まろうとしていた。

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