殿下が婚約破棄してくれたおかげで泥船から脱出できました。さて、私がいなくなったあと、そちらは大丈夫なのでしょうか?

水上

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第3話:優雅なる撤退

 ──少し時は遡り。
 
 私が馬車に乗る前のこと……。
 
 バタン、と重厚な扉が閉ざされる音が、背後で響きました。
 それと同時に、会場内のざわめきも遮断され、廊下には静寂が戻ります。

 私は一つだけ大きく息を吐き出し、強張らせていた肩の力を抜きました。
 ふう。
 大見得を切るのは気持ちが良いものですが、カロリー消費も馬鹿になりませんわね。

「……おや? 今のファンファーレは」

 その時、閉ざされた扉の向こうから、先ほどまでとは違う種類のどよめきと、重々しいラッパの音が微かに聞こえてきました。
 続いて、国王陛下、ご到着、という衛兵の張り上げた声が漏れ聞こえます。

 私は懐中時計を取り出し、チラリと針を確認しました。
 現在時刻は二〇時四五分。
 国王陛下が執務室を出てから会場に到着するまでの平均移動時間を考慮すると……、誤差はわずか三〇秒。

「完璧なタイミングでしたわね」

 あと一分でも長居していれば、陛下と鉢合わせになり、面倒な事情聴取に巻き込まれるところでした。
 陛下は話のわかる方ですが、今は感情的になっているジェラルド殿下と物理的な距離を取ることが最優先です。
 冷却期間を置く。
 交渉の基本ですね。

「参りましょう、セバスチャン。長居は無用です」

「御意。馬車は裏口に回してあります」

 私たちは衛兵たちが慌ただしく動き始めた回廊を、何食わぬ顔で通り抜けました。

 誰一人として、今まさに国を揺るがす大騒動を起こした張本人が、ここにいるとは気づいていません。

 裏口を出ると、そこには我がアークライト家の紋章が入った漆黒の馬車が待機していました。
 御者が扉を開け、私は滑り込むようにして座席に身を沈めます。

「出してちょうだい。行き先は我が領地よ」

「かしこまりました」

 鞭の音が響き、馬車がガタゴトと動き出します。
 王宮の灯りが遠ざかっていくのを窓越しに眺めながら、私はようやく肩に入っていた力を抜きました。

「……あーあ、喉が渇きましたわ」

「こちらに、ご所望のものを」

 対面に座ったセバスチャンが、手際よくサイドボードからボトルを取り出しました。
 一〇年物のヴィンテージワイン。
 私が王太子妃教育の合間に、こっそりと投資して買い集めていたコレクションの一つです。

 注がれた真紅の液体をグラスの中で揺らし、私はその香りを深く吸い込みました。
 そして、一口。
 芳醇な葡萄の香りと、程よい渋みが口の中に広がります。

「……自由の味がしますわ」

「それは重畳。しかしお嬢様、よろしいのですか? あのような捨て台詞を残して」

 セバスチャンが苦笑しながら尋ねます。

「構いませんわ。どうせ沈む船ですもの。ネズミより先に逃げ出しただけのことです」

「沈む、ですか」

「ええ。財務諸表を見れば一目瞭然です。今の王国の財政は、最悪の一言。それなのに殿下は、外面を良くすることにばかり予算を割く」

 私はグラスを傾け、月明かりに透かしました。

「このままでは五年以内に破綻します。私はその巻き添えを食うつもりはありません」

「なるほど。それで、以前から領地でのを進めておられたのですね」

 セバスチャンの問いに、私はニヤリと口角を上げました。

 そうです。
 私はただ婚約破棄されるのを待っていたわけではありません。
 いつか来るこの日のために、実家の辺境領で様々な実験と仕込みを行ってきました。

「セバスチャン。人間の体は、腐った部分を切り落とさなければ全体が死んでしまいます。国も同じですわ」

「では、お嬢様は執刀医になると?」

「いいえ。私はただの、治療費を請求する患者の家族……、かしら?」

 私はクスクスと笑い、残りのワインを飲み干しました。

「さあ、忙しくなりますわよ。まずは領地に戻り、人材の確保です。実は道中で、どうしても拾っておきたい、落とし物があるのです」

「落とし物、でございますか?」

「ええ。王都のゴミ捨て場に捨てられた、計算機よりも正確な頭脳を持つ男……。彼を確保しないことには、私の計画は始まりませんから」

 私の頭の中には、すでにこれからのロードマップが描かれています。

 まずは、不当解雇された元書記官の確保。
 次に、隣国との極秘通商条約の締結。
 そして、王太子領の水源コントロール。

 やるべきことは山積みです。
 ですが、不思議と心は軽やかでした。
 なぜなら、これからの選択はすべて、誰のためでもない、私自身のためにあるのですから。

「見ていらっしゃい、ジェラルド殿下。貴方が捨てたものが、どれほど価値あるものだったか……。骨の髄まで教えて差し上げますわ」

 夜道を駆ける馬車の中で、私は一人、楽しげに呟きました。

 それは復讐の誓いというよりは、これから始まる壮大なゲームへの、開戦の合図でした。

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