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第4話:捨てられた計算機
王都を出て半日。
石畳の立派な道は途切れ、馬車の揺れが少し大きくなってきた頃、私はセバスチャンに停車を命じました。
「ここですわ」
窓の外に見えるのは、王都と地方の境界線にある宿場町。
華やかな貴族街とは無縁の、行商人や冒険者たちが安酒を煽るための店が並ぶ、少し治安の悪いエリアです。
「お嬢様、本当にこのような場所に、宝があるのですか?」
「ええ。ダイヤモンドは石炭の中に埋もれているものですから」
私はフードを目深に被り、あえて目立たない外套を羽織って馬車を降りました。
向かったのは、酔いどれ豚亭という、名前からしてアルコール臭漂う酒場です。
錆びついた蝶番を鳴らして扉を開けると、鼻を突く安いエールの匂いと、男たちの怒号が渦巻いていました。
そんな喧騒の中、私は迷わず店の奥へと進みます。
カウンターの隅、腐った木の柱の影に、その人物はいました。
猫背で、瓶底のような分厚い眼鏡をかけ、ボロボロのローブを纏った男。
彼はジョッキを片手に、ブツブツと何かを呟いていました。
「……税収減に対する補填率が、……いや、しかし第三倉庫の備蓄が……」
周囲の酔っ払いたちは彼を気味悪がって避けていますが、私にはその呟きが心地よいBGMのように聞こえました。
私は彼の隣の席に、スッと腰を下ろしました。
「相変わらず、お酒よりも数字に酔っていらっしゃるのね」
男の肩がビクリと跳ねました。
彼は恐る恐る顔を上げ、分厚いレンズの奥にある焦茶色の瞳で私を見つめました。
「だ、誰だ……。あんた」
「初めまして、レイモンド様。元・王宮筆頭書記官補佐にして、王国一の計算狂いさん」
レイモンド。
王太子ジェラルド殿下の元側近の一人。
彼は一度見た数字を写真のように記憶し、複雑な財政計算を暗算でこなす天才です。
しかし、そのあまりに正確すぎる指摘、たとえば……。
「殿下、その予算では破綻します」
「殿下、その事業の成功率は0.02%です」
といった諫言が疎まれ、一週間前に、暗くて縁起が悪いという理由だけで解雇されたのです。
「……ふん。俺を笑いに来たのか? 陰気な計算機が、ついに乞食に落ちぶれたって」
レイモンドは自嘲気味に笑い、エールを煽りました。
「王宮じゃ、俺の報告書は誰も読まなかった。俺が徹夜で弾き出した赤字の警告も、シュレッダーの餌だ。俺は……、俺の数字は、ゴミだったんだよ」
彼の目には、深い絶望と、それ以上に深い渇望がありました。
欲求5段階説で言うところの第四段階、承認欲求の欠乏。
ええ、素晴らしい。
飢えている人間ほど、餌を与えた時の忠誠心は高いものです。
私は懐から、先ほど殿下に叩きつけたものとは別の、もう一つの書類束を取り出しました。
「ゴミ、ですか。では、このゴミの計算も、貴方には無意味かしら?」
ドン、とカウンターに置かれたのは、我がアークライト領の過去三カ年分の財務諸表と、これからの開発計画書(未完成)です。
「なんだ、これは……」
「私の領地の帳簿です。まだ未完成で、穴だらけ。特に、新規事業における減価償却費の計算が甘い気がして、夜も眠れませんの」
レイモンドの目が、無意識に書類へと吸い寄せられました。
職業病ですね。
目の前に数字があれば、計算せずにはいられない。
彼は震える手でページをめくり始めました。
最初は面倒くさそうに、しかし次第にその目は鋭くなり、背筋が伸びていきます。
「……おい、なんだこの、地下水脈利用計画の予算組みは。甘すぎる。岩盤掘削のコスト係数を掛け忘れてるぞ」
「あら、やはり?」
「それだけじゃない。この、特産品開発の損益分岐点……、輸送コストを馬車で計算しているが、鉄道を使えば利益率は一五%跳ね上がる。なぜそれを加味しない?」
「鉄道はまだ開通しておりませんもの」
「作ればいいだろう! この地形なら、ここに迂回ルートを敷けば……」
レイモンドは懐から使い古したペンを取り出し、私の大切な計画書に猛烈な勢いで書き込みを始めました。
赤字、修正、再計算。
彼の世界から、酒場の喧騒は消え去っていました。
そこにあるのは、純粋な論理と数字の交響曲だけ。
十分後。
彼はハッと我に返り、青ざめた顔でペンを落としました。
「あ、ああ、すまない……。俺はまた、勝手に……。どうせ俺の数字なんて、誰も聞きたくなんて……」
「素晴らしいわ」
私は彼の手を取り、強く握りしめました。
「貴方は、私が三日かかっても見抜けなかった穴を、たった十分で塞いでくださった」
「……え?」
「レイモンド様。私は貴方の笑顔も、お世辞も、社交性も求めていません。私が欲しいのは、その美しく残酷なまでの計算能力だけです」
私は彼の目を見据え、微笑みました。
「殿下は貴方の数字を、雑音と呼びましたが、私には音楽に聞こえます。……どうかしら? 私の専属財務顧問として、その指揮棒(ペン)を振るっていただけない?」
提示したのは、王宮時代の三倍の年俸。
しかし、彼を動かしたのは金銭ではありませんでした。
「……俺の数字が、役に立つのか?」
「ええ。貴方が弾き出す数字が、私の剣となり盾となるのです。一緒に、この腐った国を数字で殴り倒してやりましょう?」
レイモンドの眼鏡の奥から、涙が一筋こぼれ落ちました。
彼は汚れた袖でそれを乱暴に拭うと、ニヤリと不敵に笑いました。
それは、卑屈な酔っ払いの顔ではなく、かつて天才と呼ばれた男の顔でした。
「……いいでしょう。ただし、俺は厳しいですよ? 一ゴールドの誤差も許しません」
「望むところですわ」
こうして、私は最初にして最強の武器を手に入れました。
捨てられた計算機は、今日から私の戦略的スーパーコンピューターとして再起動したのです。
「セバスチャン、彼を馬車へ。……ああ、それと」
私は店を出る際、彼が飲みかけだったエールの代金として、金貨を一枚カウンターに置きました。
「お釣りはいりません。彼をここまで熟成させてくれた、保管料ですわ」
石畳の立派な道は途切れ、馬車の揺れが少し大きくなってきた頃、私はセバスチャンに停車を命じました。
「ここですわ」
窓の外に見えるのは、王都と地方の境界線にある宿場町。
華やかな貴族街とは無縁の、行商人や冒険者たちが安酒を煽るための店が並ぶ、少し治安の悪いエリアです。
「お嬢様、本当にこのような場所に、宝があるのですか?」
「ええ。ダイヤモンドは石炭の中に埋もれているものですから」
私はフードを目深に被り、あえて目立たない外套を羽織って馬車を降りました。
向かったのは、酔いどれ豚亭という、名前からしてアルコール臭漂う酒場です。
錆びついた蝶番を鳴らして扉を開けると、鼻を突く安いエールの匂いと、男たちの怒号が渦巻いていました。
そんな喧騒の中、私は迷わず店の奥へと進みます。
カウンターの隅、腐った木の柱の影に、その人物はいました。
猫背で、瓶底のような分厚い眼鏡をかけ、ボロボロのローブを纏った男。
彼はジョッキを片手に、ブツブツと何かを呟いていました。
「……税収減に対する補填率が、……いや、しかし第三倉庫の備蓄が……」
周囲の酔っ払いたちは彼を気味悪がって避けていますが、私にはその呟きが心地よいBGMのように聞こえました。
私は彼の隣の席に、スッと腰を下ろしました。
「相変わらず、お酒よりも数字に酔っていらっしゃるのね」
男の肩がビクリと跳ねました。
彼は恐る恐る顔を上げ、分厚いレンズの奥にある焦茶色の瞳で私を見つめました。
「だ、誰だ……。あんた」
「初めまして、レイモンド様。元・王宮筆頭書記官補佐にして、王国一の計算狂いさん」
レイモンド。
王太子ジェラルド殿下の元側近の一人。
彼は一度見た数字を写真のように記憶し、複雑な財政計算を暗算でこなす天才です。
しかし、そのあまりに正確すぎる指摘、たとえば……。
「殿下、その予算では破綻します」
「殿下、その事業の成功率は0.02%です」
といった諫言が疎まれ、一週間前に、暗くて縁起が悪いという理由だけで解雇されたのです。
「……ふん。俺を笑いに来たのか? 陰気な計算機が、ついに乞食に落ちぶれたって」
レイモンドは自嘲気味に笑い、エールを煽りました。
「王宮じゃ、俺の報告書は誰も読まなかった。俺が徹夜で弾き出した赤字の警告も、シュレッダーの餌だ。俺は……、俺の数字は、ゴミだったんだよ」
彼の目には、深い絶望と、それ以上に深い渇望がありました。
欲求5段階説で言うところの第四段階、承認欲求の欠乏。
ええ、素晴らしい。
飢えている人間ほど、餌を与えた時の忠誠心は高いものです。
私は懐から、先ほど殿下に叩きつけたものとは別の、もう一つの書類束を取り出しました。
「ゴミ、ですか。では、このゴミの計算も、貴方には無意味かしら?」
ドン、とカウンターに置かれたのは、我がアークライト領の過去三カ年分の財務諸表と、これからの開発計画書(未完成)です。
「なんだ、これは……」
「私の領地の帳簿です。まだ未完成で、穴だらけ。特に、新規事業における減価償却費の計算が甘い気がして、夜も眠れませんの」
レイモンドの目が、無意識に書類へと吸い寄せられました。
職業病ですね。
目の前に数字があれば、計算せずにはいられない。
彼は震える手でページをめくり始めました。
最初は面倒くさそうに、しかし次第にその目は鋭くなり、背筋が伸びていきます。
「……おい、なんだこの、地下水脈利用計画の予算組みは。甘すぎる。岩盤掘削のコスト係数を掛け忘れてるぞ」
「あら、やはり?」
「それだけじゃない。この、特産品開発の損益分岐点……、輸送コストを馬車で計算しているが、鉄道を使えば利益率は一五%跳ね上がる。なぜそれを加味しない?」
「鉄道はまだ開通しておりませんもの」
「作ればいいだろう! この地形なら、ここに迂回ルートを敷けば……」
レイモンドは懐から使い古したペンを取り出し、私の大切な計画書に猛烈な勢いで書き込みを始めました。
赤字、修正、再計算。
彼の世界から、酒場の喧騒は消え去っていました。
そこにあるのは、純粋な論理と数字の交響曲だけ。
十分後。
彼はハッと我に返り、青ざめた顔でペンを落としました。
「あ、ああ、すまない……。俺はまた、勝手に……。どうせ俺の数字なんて、誰も聞きたくなんて……」
「素晴らしいわ」
私は彼の手を取り、強く握りしめました。
「貴方は、私が三日かかっても見抜けなかった穴を、たった十分で塞いでくださった」
「……え?」
「レイモンド様。私は貴方の笑顔も、お世辞も、社交性も求めていません。私が欲しいのは、その美しく残酷なまでの計算能力だけです」
私は彼の目を見据え、微笑みました。
「殿下は貴方の数字を、雑音と呼びましたが、私には音楽に聞こえます。……どうかしら? 私の専属財務顧問として、その指揮棒(ペン)を振るっていただけない?」
提示したのは、王宮時代の三倍の年俸。
しかし、彼を動かしたのは金銭ではありませんでした。
「……俺の数字が、役に立つのか?」
「ええ。貴方が弾き出す数字が、私の剣となり盾となるのです。一緒に、この腐った国を数字で殴り倒してやりましょう?」
レイモンドの眼鏡の奥から、涙が一筋こぼれ落ちました。
彼は汚れた袖でそれを乱暴に拭うと、ニヤリと不敵に笑いました。
それは、卑屈な酔っ払いの顔ではなく、かつて天才と呼ばれた男の顔でした。
「……いいでしょう。ただし、俺は厳しいですよ? 一ゴールドの誤差も許しません」
「望むところですわ」
こうして、私は最初にして最強の武器を手に入れました。
捨てられた計算機は、今日から私の戦略的スーパーコンピューターとして再起動したのです。
「セバスチャン、彼を馬車へ。……ああ、それと」
私は店を出る際、彼が飲みかけだったエールの代金として、金貨を一枚カウンターに置きました。
「お釣りはいりません。彼をここまで熟成させてくれた、保管料ですわ」
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