殿下が婚約破棄してくれたおかげで泥船から脱出できました。さて、私がいなくなったあと、そちらは大丈夫なのでしょうか?

水上

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第8話:悪魔の淹れるアイスコーヒー

 トンネル工事と植林事業が軌道に乗り始めたある日の午後。
 アークライト領主館のテラスに、珍しい客人の姿がありました。

「……美味いな。なんだこれは」

 感嘆の声を漏らしたのは、隣国の皇子にして赤船のトップ、ルーカス殿下です。
 彼は上質なリネンのシャツの袖をまくり、グラスに入った漆黒の液体を、氷をカランと鳴らしながら煽っています。

「アイスコーヒーですわ。南方から輸入した豆を深煎りにして、急速冷却しましたの」

「コーヒーだと? あの苦くて泥水みたいな薬か? 冷やすなんざ正気じゃないと思ったが……」

 彼はグラスを光に透かし、その透明感のある黒色を眺めました。

「香ばしい苦味と、キレのある酸味。それにこの冷たさが、暑い現場帰りの体に染みる。……信じられん。あの泥水がこう化けるとはな」

「本来、コーヒーは高温で淹れるものですが、この時期には重すぎます。冷やすことで雑味を抑え、香りを引き立たせる抽出法を開発しましたの」

 私は、自分用のグラスにミルクを注ぎ、白と黒が混ざり合うマーブル模様を楽しみました。

 一般的に、氷は冬場に切り出したものを氷室で保管する貴重品です。
 ですが、我が家にはあります。
 私が魔石の回路を組み替えて作った、試作型魔導冷蔵庫、通称フリーザー・ワンが。

「あんた、本当に何者なんだ? トンネルを掘るかと思えば、山の形を変える植林を始め、今度は新しい食文化まで作り出す」

 ルーカス殿下が、呆れ半分、畏敬半分といった瞳で私を見つめました。

「ただの、多趣味な辺境伯令嬢ですわ」

「嘘をつけ。王都の連中は『本ばかり読んでいる頭でっかち』と噂していたが……、節穴だな。あんたは本を読んでいるんじゃない。未来を読んでいる」

 彼はニヤリと笑い、テーブルの上に置かれた設計図……、現在開発中の缶詰工場のライン設計図を指先で弾きました。

「この缶詰というのもそうだ。軍事用食料として売り込めば、我が国の軍部は言い値で買うぞ。独占販売権を俺にくれ」

「あら、気が早いですわね。まだ試作品ですのに」

「匂いで分かるのさ。金の匂いがな」

 ルーカス殿下は、ビジネスの話をする時、本当に楽しそうな顔をなさいます。
 同じ人種(ワーカーホリック)の匂いがして、私もつい口元が緩んでしまいますわ。

「では、商談と参りましょうか。条件は……、トンネル通行料の五%上乗せでいかが?」

「おいおい、悪魔か? 三%だ」

「四%。これ以上は譲れません。その代わり、このアイスコーヒーのレシピもお付けしますわ」

「……チッ。商売上手な姫様だ。四%で手を打とう」

 私たちはグラスを軽く合わせ、乾杯しました。
 カチン、と涼やかな音が響きます。

「それにしても」

 ルーカス殿下が、ふと真面目な顔になり、南の方角……、王都のある方を見やりました。

「あの植林事業……、エグいな。俺のところの土木技師が顔を青くして報告に来たぞ。『あれは環境保護じゃない、水の強奪だ』ってな」

「人聞きが悪いですわ。私はただ、水を愛する木々を植えただけ。結果として、地下水脈の流れが変わるかもしれませんが、それは自然の摂理ですもの」

「ハッ! 自然の摂理ね。……で、下流の王太子領はどうなってる?」

「さあ? 最近は雨も少ないようですし、少しばかり、お水に苦労なさるかもしれませんわね」

 私は冷たいコーヒーを一口飲みました。
 計算では、そろそろ最初の予兆が現れる頃です。

     *

 (※ジェラルド視点)

 同王都、王太子宮殿の庭園。

「ねえジェラルド様ぁ。この新しい噴水、お水が出てないよ?」

 ミアの甘ったるい声が響いた。
 私は、完成したばかりの大理石の噴水の前で、首を傾げていた。

「おかしいな。職人は『最高傑作だ』と言っていたのだが」

 ミアのために新設させた、愛の女神像を模した噴水。
 本来なら、女神の壺から豊かな水が溢れ出るはずなのだが……、今は、チョロチョロと頼りない水流が滴っているだけだ。
 まるで、締まりきらない蛇口のように。

「故障か? おい、庭師を呼べ!」

 呼びつけられた年老いた庭師は、申し訳なさそうに頭を下げた。

「申し訳ございません、殿下。どうやら、井戸の水位が下がっているようでして……、ポンプの水圧が足りないのです」

「水位が下がった? 馬鹿な。ここは水の都とも呼ばれる豊かな土地だぞ。井戸が枯れるなどあり得ん」

「はあ……、しかし、最近は雨も降りませんし、近隣の農家からも『用水路の水かさが減っている』との報告が……」

「えー、やだぁ。お花の水やりもできないじゃない」

 ミアが頬を膨らませたので、私は慌てて彼女の肩を抱いた。

「心配するな、マイ・エンジェル。たまたま今年の夏が乾燥しているだけだ。すぐに雨も降るさ。それに、水など金を出して買えばいい」

「そうよね! ジェラルド様、さすが!」

 私たち二人は笑い合い、枯れかけた噴水を背に、宮殿へと戻っていった。

 この時の私は気がついていなかった。

 その背後で、庭師だけが、不安そうに空を見上げていたことに……。

     *

「……ふふっ」

 アークライト領のテラスで、私は不意に笑いを漏らしました。
 まるで、遠くで滑稽な喜劇が始まったのを感じ取ったかのように。

「なんだ、急に悪い顔をして」

「いいえ。ただ、風向きが変わったなと思いまして」

 私は空になったグラスを置きました。
 氷はまだ、溶けずに残っています。

「ルーカス殿下。これからのアークライト領は、もっと面白くなりますわよ」

「ああ、期待している。……本当に、あんたが味方でよかったと、心から思っているよ」

 私たちの共犯関係は、この冷たくて苦いコーヒーのように、深く静かに混ざり合っていくのでした。

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