殿下が婚約破棄してくれたおかげで泥船から脱出できました。さて、私がいなくなったあと、そちらは大丈夫なのでしょうか?

水上

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第23話:下水道の支配者

 地獄の納涼船事件から一夜明けた王都は、お通夜のような静けさに包まれていました。
 いえ、静かというよりは、誰もが口を開く気力もないほど衰弱していた、と言うべきでしょうか。

 参加した貴族の多くが、謎の腹痛と発熱(おそらく急性胃腸炎と精神的ショック)で寝込み、王宮の医務室は野戦病院のような有様だと聞いています。
 ジェラルド殿下も例外ではなく、高熱にうなされながら「臭い……、臭い……」と譫言を繰り返しているとか。

 そんな中、アークライト商会王都本店に、青白い顔をした一団が駆け込んできました。
 王都の公衆衛生を管轄する、衛生省の役人たちです。

「アークライト様! 助けてください! 王都が……、王都が腐ってしまいます!」

 貴賓室に通された衛生大臣(子爵)は、プライドも何もかもかなぐり捨てて、テーブルに額を擦り付けんばかりに頭を下げました。

「川の悪臭が風に乗って市街地に広がり、市民からの苦情が殺到しております。それに、下水が詰まって逆流し、井戸水まで汚染され始めて……。このままでは疫病が蔓延します!」

「それは大変ですわね。ですが、下水道の浚渫工事は国の管轄でしょう? 人手を集めてドブさらいをなさればよろしいのでは?」

 私が冷たく返すと、大臣は泣きそうな顔で首を振りました。

「無理なのです! あの悪臭に耐えられる作業員がいません! 皆、現場に近づくだけで嘔吐して逃げ出してしまうのです。高給を提示しても、誰もやりたがりません!」

 なるほど。
 お金で解決できないレベルまで環境が悪化したわけですね。

 これぞ、インフラ軽視の末路。
 私はゆっくりとカップを置き、隣に控えていたレイモンド様に目配せしました。
 彼が分厚い契約書をテーブルに置きます。

「解決策なら、ここにありますわ」

「ほ、本当ですか!?」

「ええ。我が領地で開発した浄化スライムを使えば、王都中の下水管を三日でピカピカにできます。彼らは汚物が大好物ですから、文句一つ言わずに食べてくれますわ」

 大臣の顔に光明が差しました。

「おお……。ぜひ! ぜひそのスライムをお譲りください! 予算ならいくらでも……」

「お断りします」

 私はピシャリと言い放ちました。

「……え?」

「スライムのいたしません。彼らはデリケートな生き物です。素人が管理して逃げ出したり、死なせたりしたら大変ですもの」

 私は契約書の表紙を指差しました。
 そこには、王都下水道・一括管理業務委託契約書と書かれています。

「私が提案するのは、サービスの提供です。今後五〇年間、王都の下水道および河川の清掃・管理権限を、すべてアークライト商会に委託していただきます」

「ご、五〇年!? それに、管理権限すべてとなると……」

「嫌なら結構です。どうぞ、ご自分でドブ川に潜って掃除してくださいませ」

 私は席を立つふりをしました。
 大臣は慌てて引き止めました。

「ま、待ちたまえ! わ、分かった! サインする! 背に腹は代えられん!」

 震える手で署名された契約書。
 これにより、王都の排泄機能は、完全に私の掌中に収まりました。

 もし王家が私に逆らえば、明日からスライムを引き上げ、王都を再び汚物の海に沈めることができる。
 つまり、私は王都の首根っこを押さえたも同然なのです。

 契約成立から一時間後。

 王都の至る所にあるマンホールや排水口に、アークライト商会の作業員たちが配置されました。
 彼らが持つ瓶から、プルプルとした水色のスライムたちが次々と地下へと放たれていきます。

「行っておいで。お腹いっぱいお食べ」

 私も、裏路地のマンホールに一匹のスライムを落としました。
 地下からは、スライムたちの嬉しそうな捕食音が微かに聞こえてきます。

 効果は劇的でした。
 夕方になる頃には、街を覆っていた腐敗臭が消え失せ、ドブ川の水が透き通り始めたのです。

「おい、見ろよ! 川の底が見えるぞ!」

「臭くない! 空気が美味しい!」

 窓を開け放ち、深呼吸をする市民たち。
 広場では……。

「アークライト商会万歳!」

「エリーゼ様は衛生の女神だ!」

 という歓声が自然と巻き起こりました。

 その様子を、私はルーカス殿下と共に屋根の上から眺めていました。

「……恐ろしいな。たった一日で、王都民の心を掌握しちまった」

「人は、不潔に弱いものです。清潔で快適な生活を与えてくれる支配者を、誰が拒めるでしょう?」

 私は綺麗になった川面を見下ろしました。
 そこには、夕日が美しく反射しています。
 昨日の地獄絵図が嘘のようです。

「これで、王都の地下は私たちのものです。次は地上……、通信と情報の網を張り巡らせましょうか」

 ジェラルド殿下が腹痛でトイレに籠もっている間に、彼の足元の地面は、すべて私の色に塗り替えられてしまったのです。
 トイレの水を流すたびに、私にチャリンと管理費が入る仕組みになっているとも知らずに。

 さあ、綺麗な空気の中で、次のビジネスを始めましょう。

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