捨てられた地味な王宮修復師(実は有能)、強面辺境伯の栄養管理で溺愛され、辺境を改革する ~王都の貴重な物が失われても知りませんよ?~

水上

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第1話:さようなら、カビ臭い王宮

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 その部屋は、甘ったるい花の香りで満ちていた。
 王宮の執務室において、これほど濃厚な香水の匂いは不適切だ。
 そう指摘すべき立場にあったリディア・クロワは、しかし、静かに口を閉ざしていた。

「リディア、貴様との婚約を破棄する!」

 王太子アルフレッドの声が、高い天井に反響した。
 彼の隣には、男爵令嬢のミナがしなだれかかっている。
 彼女が扇子を仰ぐたびに、ジャコウとバラを煮詰めたような強烈な香りが、波のように押し寄せてきた。

「理由はわかるな? 貴様には華がない。愛想もない。王太子の婚約者としての自覚もなければ、ミナのような慈悲の心もない。ただ古臭い美術品やカビの生えた本と睨めっこをしているだけの、陰気な女だ!」

 アルフレッドは美しい金髪を揺らし、自らの正義に酔いしれた表情で宣告した。
 リディアは、分厚い眼鏡の奥の瞳を、わずかに細めた。
 悲しみはなかった。
 あるのは、職業病とも言える冷徹な分析思考だけだ。

(……ミナ様がお使いの香水、揮発性の溶剤が含まれていますね)

 リディアの視線は、アルフレッドの背後にある執務机に向けられていた。
 そこには、隣国との条約原本や、数百年前に記された重要文化財クラスの古文書が無造作に置かれている。
 アルフレッドが「陰気な趣味」と蔑むリディアの知識では、あの時代のインクは酸に弱い。
 そして、この部屋に充満している香水の成分は、空気中の水分と反応し、微弱ながらも酸性のガスを発生させる。

 ――あと数週間もすれば、あの無造作に置かれた書類の文字は滲み、判読不能になるだろう。

 だが、リディアはそれを口にしなかった。
 彼女はこれまで、美術品の保存環境について、湿度の管理について、光の当て方について、何度も何度も進言してきた。

 そのたびに「小言がうるさい」「神経質すぎる」「ミナへの嫉妬か?」と一蹴されてきたのだ。

「……謹んで、お受けいたします」

 リディアは深く頭を下げた。
 カビ臭い王宮。
 知識のない者たちが、過去の遺産を食い潰していく場所。
 ここにはもう、自分が守るべきものは残されていない。

「貴様には、辺境伯ジェラルド・ファン・ベルクへの嫁入りを命じる。あの皆から恐れられる男と地味な貴様なら、嫌われもの同士でお似合いだ。精々、雪に埋もれて暮らすがいい!」

 捨て台詞のように投げつけられた言葉にも、リディアは無表情のまま一礼した。
 背を向けた瞬間、背後でミナが「怖いです、辺境なんて人が住む場所じゃありませんわ」と甘える声が聞こえた。

 リディアは心の中で、静かに王宮に別れを告げた。
 崩壊のカウントダウンは、もう既に始まっている……。

 王都から北へ馬車で十日。
 窓の外の景色は、豊かな緑から荒涼とした岩肌へ、そして白銀の世界へと変わっていった。

 リディアの体調は最悪だった。
 元々食が細い上に、婚約破棄の騒動に伴う引き継ぎ業務、実家からの絶縁宣言、そして長旅の疲労。
 胃は鉛を飲み込んだように重く、固形物を受け付けなくなっていた。
 ここ数日は水しか口にしていない。

(……辺境伯、ジェラルド様)

 薄れゆく意識の中で、リディアは新しい主人のことを反芻した。
 噂によれば、身長は二メートル近く、顔には大きな傷があり、笑うと子供が泣き叫ぶという。
 冷酷無比な軍人であり、貴族の社交界には一切顔を出さない変わり者。

 きっと、恐ろしい人なのだろう。
 けれど、今のリディアには恐怖を感じる気力さえ残っていなかった。
 ただ、静かに消えてしまいたい。
 誰にも邪魔されず、誰にも罵られず、土に還るように眠りたい。

「到着しました、リディア様」

 御者の声で、リディアは重い瞼を持ち上げた。
 馬車を降りると、そこは氷の城かと思うほど冷厳な石造りの屋敷の前だった。

 突き刺すような寒風が、リディアの薄い身体を容赦なく叩く。
 足がもつれた。
 地面が、ぐらりと傾く。

「――おい」

 地響きのような低い声が聞こえた直後、視界が反転した。
 硬い感触を予想していたリディアの身体は、しかし、驚くほど安定した温かいものに支えられていた。

「……あ」

 見上げると、岩山のような男がいた。
 黒い髪、鋭い眼光。左の頬には噂通りの古傷が走っている。

 その形相は、確かに夜道で出会えば悲鳴を上げてしまうほどの迫力があった。
 けれど、リディアを抱き止めるその腕は、壊れ物を扱うように慎重だった。

「……軽すぎる。羽毛布団でも詰まっているのか?」

 男――ジェラルド・ファン・ベルク辺境伯は、眉間に深い皺を寄せたまま、リディアを見下ろして言った。
 怒鳴られる、とリディアは身を縮こまらせる。
 しかし、彼が次に発したのは、予想外の言葉だった。

「顔色があまりにも悪いな。脈拍も弱い。……王都の連中は貴重な技術者に対して、どんな管理をしてやがった」

 悪態をつきながら、ジェラルドはリディアを軽々と抱き上げた。
 いわゆるお姫様抱っこだが、そこに甘い雰囲気は微塵もない。
 傷病兵を搬送する衛生兵のような、無駄のない動作だった。

 目が覚めると、暖炉の火が爆ぜる音が聞こえた。

 ふかふかのベッドの上だ。
 身体を起こそうとすると、すぐに大きな手がそれを制した。

「寝ていろ。今の君は、生まれたての赤ん坊より軟弱だ」

 ベッドの脇に、ジェラルドが椅子に座って腕を組んでいた。
 その威圧感にリディアは息を呑む。
 だが、部屋の中に漂う香りが、彼女の警戒心を少しだけ和らげた。

 それは、王宮で嗅いだような人工的な花の香りではない。
 もっと根源的で、生命力を刺激するような、芳醇な香り。

「……なんだか、いい匂いです」

「当然だ。三日煮込んだ」

 ジェラルドはぶっきらぼうに言うと、サイドテーブルから湯気の立つボウルを手に取った。
 黄金色の液体が、ランプの光を反射して輝いている。
 一切の濁りがない、完璧に澄み切ったコンソメスープだった。

「食欲がないのはわかっている。固形物は入れるな。今の君の胃壁はただの粘膜だと思え」

 彼はスプーンをスープに浸し、ふう、と冷ましてから、リディアの口元へ差し出した。

「……あの、自分で」

「手が震えているだろう。こぼせばシーツの洗濯が増える。非効率だ。口を開けろ」

 反論の余地を与えない、論理的な(?)命令だった。
 リディアはおずおずと口を開く。
 温かい液体が、舌の上を滑り落ちた。

 ――衝撃だった。

 味が、濃い。
 塩気が強いという意味ではない。
 鶏と香味野菜の命そのものを凝縮したような、強烈な旨味だ。 

 なのに、喉越しは驚くほど滑らかで、抵抗なく胃の腑へと落ちていく。
 空っぽだった胃袋に熱が灯り、それが血液に乗って、凍えていた指先までじんわりと広がっていくのがわかった。

「……あ」

 無意識のうちに、リディアの瞳から涙がこぼれ落ちた。
 悲しいわけではない。
 身体の細胞の一つ一つが、歓喜の声を上げて泣いているような感覚だった。

「……鶏ガラを一度焼き、香味野菜と共に低温で時間をかけて抽出した。濁りが出る脂とアクは、卵白を使って全て吸着させた」

 ジェラルドが淡々と、まるで化学実験のレポートのように解説を述べる。

「弱った内臓に負担をかけず、かつ最短でエネルギーに変換されるよう計算してある。……泣く暇があるなら飲め。これらの栄養は、君を再生させるための資材だ」

 資材。
 人間を修理対象のように言うその言葉が、なぜかリディアには心地よかった。

 王宮では「役立たず」「地味な女」と罵られ、誰からも顧みられなかった自分の身体。
 それを、この強面の辺境伯は、手間暇をかけて修理しようとしてくれている。

「……はい」

 リディアは涙を拭うのも忘れ、二口目をねだった。
 ジェラルドはわずかに口角を上げ、スプーンを動かし続けた。

 黄金のスープが、空っぽだったリディアの心と身体を、ゆっくりと満たしていく。

 王都の貴重な書類が腐り始めていくのとは対照的に、辺境の地で、一人の少女の再生が始まろうとしていた。
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