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第4話:息が詰まる食卓
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帰りの馬車の中でも、ヴィンセントの上機嫌は続いていた。
彼は窓の外を流れる王都の夜景を眺めながら、鼻歌交じりに革の手袋を外す。
向かいの席には、遊び疲れて眠るミエルの姿があった。
彼女は無防備にヴィンセントの外套にくるまり、子供のような寝息を立てている。
ロザリンドは、その光景をただ静かに見つめていた。
かつてなら、胸が張り裂けるような嫉妬を覚えたかもしれない。
あるいは、夫が自分には見せない安らかな表情をミエルに向けていることに、惨めさを噛み締めていただろう。
けれど今、彼女の胸にあるのは、凪いだ湖面のような静寂だけだった。
痛みがないわけではない。
ただ、その痛みが他人事のように遠いのだ。
(……不思議ね。あんなに熱かった感情が、こんなにも冷たくなるなんて)
ロザリンドは自分の手を膝の上で組んだ。
指先は氷のように冷えていたが、不思議と心地よかった。
屋敷に戻ると、遅い夕食が用意されていた。
本来なら使用人たちを休ませる時間だが、ヴィンセントが「成功祝いだ」と言って急遽準備させたのだ。
テーブルには、冷えた白ワインと、フルーツを使った華やかな料理が並んでいる。
ミエルは眠い目をこすりながらも、「お腹すいたぁ」と席につき、マナーも忘れてパンをかじり始めた。
ヴィンセントはワイングラスを傾け、満足げにロザリンドを見た。
「今日は良い日だった。あのアクア・シルク、すでに数件の注文が入っているそうだ。私の見立て通りだったな」
カチャン、とロザリンドがナイフを置く音が、静寂に響いた。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
もう期待しないと決めたはずだった。
けれど、長年の習慣というのは恐ろしいものだ。
あるいは、これが最後の確認作業だったのかもしれない。
「……ヴィンセント様。あのアクア・シルクの配合比率ですが、特許の申請書類には私の名前が――」
「またその話か」
ヴィンセントの眉が、不快そうに歪んだ。
彼はワイングラスを置き、深いため息をついた。
まるで、聞き分けのない子供を前にした父親のような、大仰な仕草だった。
「ロザリンド。君は、どうしてそう自分のことばかりなんだ?」
「自分のこと、ではありません。開発者としての正当な権利の話をしております。あの技術は私が半年かけて……」
「その環境を与えたのは誰だと思っている?」
ヴィンセントは穏やかな、しかし絶対的な響きを含んだ声で遮った。
「君に研究室を与え、高価な薬品を買い与え、生活の面倒を見ていたのは私だ。私が君を管理し、君を働かせた。だから、あれは私の成果なんだよ。君は私の手足となって動いただけだ」
ロザリンドは言葉を失った。
確かに薬品の購入費は家計から出ている。
だが、その家計を黒字化したのはロザリンドの経営手腕だ。
研究室も、元は物置だった場所を彼女が自力で片付けたものだ。
反論しようと口を開きかけた時、ヴィンセントが哀れむような目を向けた。
「君は社会を知らないから、勘違いをしてしまうんだね。君のような世間知らずの女性が、一人で何かを成し遂げたと主張するのは、とても恥ずかしいことなんだよ」
彼のその言葉を聞いて、ロザリンドは息が詰まるような感覚がした。
彼は窓の外を流れる王都の夜景を眺めながら、鼻歌交じりに革の手袋を外す。
向かいの席には、遊び疲れて眠るミエルの姿があった。
彼女は無防備にヴィンセントの外套にくるまり、子供のような寝息を立てている。
ロザリンドは、その光景をただ静かに見つめていた。
かつてなら、胸が張り裂けるような嫉妬を覚えたかもしれない。
あるいは、夫が自分には見せない安らかな表情をミエルに向けていることに、惨めさを噛み締めていただろう。
けれど今、彼女の胸にあるのは、凪いだ湖面のような静寂だけだった。
痛みがないわけではない。
ただ、その痛みが他人事のように遠いのだ。
(……不思議ね。あんなに熱かった感情が、こんなにも冷たくなるなんて)
ロザリンドは自分の手を膝の上で組んだ。
指先は氷のように冷えていたが、不思議と心地よかった。
屋敷に戻ると、遅い夕食が用意されていた。
本来なら使用人たちを休ませる時間だが、ヴィンセントが「成功祝いだ」と言って急遽準備させたのだ。
テーブルには、冷えた白ワインと、フルーツを使った華やかな料理が並んでいる。
ミエルは眠い目をこすりながらも、「お腹すいたぁ」と席につき、マナーも忘れてパンをかじり始めた。
ヴィンセントはワイングラスを傾け、満足げにロザリンドを見た。
「今日は良い日だった。あのアクア・シルク、すでに数件の注文が入っているそうだ。私の見立て通りだったな」
カチャン、とロザリンドがナイフを置く音が、静寂に響いた。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
もう期待しないと決めたはずだった。
けれど、長年の習慣というのは恐ろしいものだ。
あるいは、これが最後の確認作業だったのかもしれない。
「……ヴィンセント様。あのアクア・シルクの配合比率ですが、特許の申請書類には私の名前が――」
「またその話か」
ヴィンセントの眉が、不快そうに歪んだ。
彼はワイングラスを置き、深いため息をついた。
まるで、聞き分けのない子供を前にした父親のような、大仰な仕草だった。
「ロザリンド。君は、どうしてそう自分のことばかりなんだ?」
「自分のこと、ではありません。開発者としての正当な権利の話をしております。あの技術は私が半年かけて……」
「その環境を与えたのは誰だと思っている?」
ヴィンセントは穏やかな、しかし絶対的な響きを含んだ声で遮った。
「君に研究室を与え、高価な薬品を買い与え、生活の面倒を見ていたのは私だ。私が君を管理し、君を働かせた。だから、あれは私の成果なんだよ。君は私の手足となって動いただけだ」
ロザリンドは言葉を失った。
確かに薬品の購入費は家計から出ている。
だが、その家計を黒字化したのはロザリンドの経営手腕だ。
研究室も、元は物置だった場所を彼女が自力で片付けたものだ。
反論しようと口を開きかけた時、ヴィンセントが哀れむような目を向けた。
「君は社会を知らないから、勘違いをしてしまうんだね。君のような世間知らずの女性が、一人で何かを成し遂げたと主張するのは、とても恥ずかしいことなんだよ」
彼のその言葉を聞いて、ロザリンドは息が詰まるような感覚がした。
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