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第3話:張り詰めていた糸が切れる時
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ロザリンドの足が、勝手に動いていた。
壇上に歩み寄り、震える声で告げる。
「お待ちください。そのようにピンを刺しては、撥水機能が損なわれます。今すぐ外して、繊維を修復しなければ……」
正論だった。
技術者として、当然の指摘だった。
だが、会場の空気が凍りついた。
ミエルが目を丸くし、次の瞬間、大粒の涙を浮かべた。
「ひどぉい……。私、ただヴィンセントのお手伝いがしたかっただけなのにぃ……。ロザリンドさん、私のこと嫌いだからって、皆の前でそんなにいじめなくても……っ」
「いじめ? いいえ、私は事実を――」
「いい加減にしたまえ、ロザリンド!」
鋭い声が、鞭のようにロザリンドを打った。
見上げると、ヴィンセントが冷ややかな瞳で彼女を見下ろしていた。
先ほどまでの、聴衆に向けた温厚な表情はどこにもない。
そこにあるのは、面倒な部下を叱責する上司の顔だった。
「君はいつもそうだ。数字だの機能だの、理屈ばかり並べ立てて。人の心がわからないのか?」
「ですが、これは商品の品質に関わる問題です。お客様に不良品を――」
「その可愛げのなさが、君の欠点だと言っているんだ」
ヴィンセントは吐き捨てるように言った。
低い声で、ロザリンドの心臓を確実に貫くように。
「彼女を見てごらん。あの純粋な思いやりが、今の君には欠けている。だから君は、私がいないと何もできないんだよ」
ヴィンセントは泣きじゃくるミエルの肩を抱き寄せ、優しく慰め始めた。
「可哀想に。怖かったね、ミエル。私の妻が不調法ですまない」
「ううん、いいのぉ。ヴィンセントがわかってくれればぁ……」
会場からは、同情的な視線がミエルに、そして非難めいた視線がロザリンドに向けられる。
「あの奥様、嫉妬深いのかしら」「せっかくの成功を台無しにして」という囁きが聞こえる。
ロザリンドは立ち尽くしていた。
半年間の不眠不休。
荒れた指先。
薬品の匂いが染み付いた髪。
それら全てが、今、目の前で可愛げのないゴミとして掃き捨てられた。
彼女の中で、ピンと張り詰めていた糸が、音もなく切れた。
怒りでも、悲しみでもない。
もっと静かで、冷たく、底のない感覚。
それは失望が飽和点を超え、絶対零度で凍りつく瞬間だった。
(ああ、そうか)
ロザリンドの脳裏に、数式のように冷徹な結論が浮かび上がる。
この男に、期待するだけ無駄なのだ。
彼はロザリンドが作った土台の上で踊っているだけに過ぎない。
それなのに、その土台を自ら破壊し、彼女を否定することでしか自尊心を満たせない。
理解など、永遠に訪れない。
心臓が冷えていく。
ドク、ドク、と波打つたびに、感情という不純物が濾過され、ただの機能的な臓器になっていくようだった。
楽だ、と彼女は思った。
理解を求めようとするから苦しいのだ。
愛されようと願うから辛いのだ。
ならば、求められた通りにして差し上げましょう。
貴方が望む、可愛げのある、あるいは何も言わない都合の良い人形になりましょう。
ロザリンドはゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは、すでに光も熱も消え失せている。
彼女は口角の筋肉だけを正確に収縮させ、完璧なカーブを描く微笑みを作った。
「……申し訳ございません、旦那様」
その声は、鈴の音のように美しく、そして氷のように冷たかった。
「私が未熟でございました。ミエルさんの素晴らしい感性を理解できず、無粋な真似をいたしましたこと、深くお詫び申し上げます」
深々と頭を下げる。
その所作は、王宮の侍女よりも洗練されていた。
ヴィンセントは一瞬、妻の急激な変化に戸惑ったように眉を動かしたが、すぐに満足げに頷いた。
自分の言葉で妻が反省したのだと解釈したのだ。
「わかればいいんだよ、ロザリンド。さあ、下がって。これからはもっとミエルを見習うといい」
「はい。仰せのままに」
ロザリンドはもう一度微笑み、静かに一歩下がった。
その微笑みは、夫への服従の証ではない。
それは、バークリー伯爵家という組織に対する、最終的な絶縁状の封蝋だった。
彼女の頭の中では、すでに新しい計算式が回り始めていた。
――撤退までの期間、推定三十日。
――持ち出すべき資産、特許権、そして人材のリストアップ。
スポットライトを浴びて笑う夫と、その横で勝ち誇った顔をする女を、ロザリンドは遠い異国の風景のように眺めていた。
さようなら、ヴィンセント。
貴方は今、貴方を支えていた唯一の柱を、自らの手でへし折ったのです。
壇上に歩み寄り、震える声で告げる。
「お待ちください。そのようにピンを刺しては、撥水機能が損なわれます。今すぐ外して、繊維を修復しなければ……」
正論だった。
技術者として、当然の指摘だった。
だが、会場の空気が凍りついた。
ミエルが目を丸くし、次の瞬間、大粒の涙を浮かべた。
「ひどぉい……。私、ただヴィンセントのお手伝いがしたかっただけなのにぃ……。ロザリンドさん、私のこと嫌いだからって、皆の前でそんなにいじめなくても……っ」
「いじめ? いいえ、私は事実を――」
「いい加減にしたまえ、ロザリンド!」
鋭い声が、鞭のようにロザリンドを打った。
見上げると、ヴィンセントが冷ややかな瞳で彼女を見下ろしていた。
先ほどまでの、聴衆に向けた温厚な表情はどこにもない。
そこにあるのは、面倒な部下を叱責する上司の顔だった。
「君はいつもそうだ。数字だの機能だの、理屈ばかり並べ立てて。人の心がわからないのか?」
「ですが、これは商品の品質に関わる問題です。お客様に不良品を――」
「その可愛げのなさが、君の欠点だと言っているんだ」
ヴィンセントは吐き捨てるように言った。
低い声で、ロザリンドの心臓を確実に貫くように。
「彼女を見てごらん。あの純粋な思いやりが、今の君には欠けている。だから君は、私がいないと何もできないんだよ」
ヴィンセントは泣きじゃくるミエルの肩を抱き寄せ、優しく慰め始めた。
「可哀想に。怖かったね、ミエル。私の妻が不調法ですまない」
「ううん、いいのぉ。ヴィンセントがわかってくれればぁ……」
会場からは、同情的な視線がミエルに、そして非難めいた視線がロザリンドに向けられる。
「あの奥様、嫉妬深いのかしら」「せっかくの成功を台無しにして」という囁きが聞こえる。
ロザリンドは立ち尽くしていた。
半年間の不眠不休。
荒れた指先。
薬品の匂いが染み付いた髪。
それら全てが、今、目の前で可愛げのないゴミとして掃き捨てられた。
彼女の中で、ピンと張り詰めていた糸が、音もなく切れた。
怒りでも、悲しみでもない。
もっと静かで、冷たく、底のない感覚。
それは失望が飽和点を超え、絶対零度で凍りつく瞬間だった。
(ああ、そうか)
ロザリンドの脳裏に、数式のように冷徹な結論が浮かび上がる。
この男に、期待するだけ無駄なのだ。
彼はロザリンドが作った土台の上で踊っているだけに過ぎない。
それなのに、その土台を自ら破壊し、彼女を否定することでしか自尊心を満たせない。
理解など、永遠に訪れない。
心臓が冷えていく。
ドク、ドク、と波打つたびに、感情という不純物が濾過され、ただの機能的な臓器になっていくようだった。
楽だ、と彼女は思った。
理解を求めようとするから苦しいのだ。
愛されようと願うから辛いのだ。
ならば、求められた通りにして差し上げましょう。
貴方が望む、可愛げのある、あるいは何も言わない都合の良い人形になりましょう。
ロザリンドはゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは、すでに光も熱も消え失せている。
彼女は口角の筋肉だけを正確に収縮させ、完璧なカーブを描く微笑みを作った。
「……申し訳ございません、旦那様」
その声は、鈴の音のように美しく、そして氷のように冷たかった。
「私が未熟でございました。ミエルさんの素晴らしい感性を理解できず、無粋な真似をいたしましたこと、深くお詫び申し上げます」
深々と頭を下げる。
その所作は、王宮の侍女よりも洗練されていた。
ヴィンセントは一瞬、妻の急激な変化に戸惑ったように眉を動かしたが、すぐに満足げに頷いた。
自分の言葉で妻が反省したのだと解釈したのだ。
「わかればいいんだよ、ロザリンド。さあ、下がって。これからはもっとミエルを見習うといい」
「はい。仰せのままに」
ロザリンドはもう一度微笑み、静かに一歩下がった。
その微笑みは、夫への服従の証ではない。
それは、バークリー伯爵家という組織に対する、最終的な絶縁状の封蝋だった。
彼女の頭の中では、すでに新しい計算式が回り始めていた。
――撤退までの期間、推定三十日。
――持ち出すべき資産、特許権、そして人材のリストアップ。
スポットライトを浴びて笑う夫と、その横で勝ち誇った顔をする女を、ロザリンドは遠い異国の風景のように眺めていた。
さようなら、ヴィンセント。
貴方は今、貴方を支えていた唯一の柱を、自らの手でへし折ったのです。
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