3 / 37
第3話:張り詰めていた糸が切れる時
ロザリンドの足が、勝手に動いていた。
壇上に歩み寄り、震える声で告げる。
「お待ちください。そのようにピンを刺しては、撥水機能が損なわれます。今すぐ外して、繊維を修復しなければ……」
正論だった。
技術者として、当然の指摘だった。
だが、会場の空気が凍りついた。
ミエルが目を丸くし、次の瞬間、大粒の涙を浮かべた。
「ひどぉい……。私、ただヴィンセントのお手伝いがしたかっただけなのにぃ……。ロザリンドさん、私のこと嫌いだからって、皆の前でそんなにいじめなくても……っ」
「いじめ? いいえ、私は事実を――」
「いい加減にしたまえ、ロザリンド!」
鋭い声が、鞭のようにロザリンドを打った。
見上げると、ヴィンセントが冷ややかな瞳で彼女を見下ろしていた。
先ほどまでの、聴衆に向けた温厚な表情はどこにもない。
そこにあるのは、面倒な部下を叱責する上司の顔だった。
「君はいつもそうだ。数字だの機能だの、理屈ばかり並べ立てて。人の心がわからないのか?」
「ですが、これは商品の品質に関わる問題です。お客様に不良品を――」
「その可愛げのなさが、君の欠点だと言っているんだ」
ヴィンセントは吐き捨てるように言った。
低い声で、ロザリンドの心臓を確実に貫くように。
「彼女を見てごらん。あの純粋な思いやりが、今の君には欠けている。だから君は、私がいないと何もできないんだよ」
ヴィンセントは泣きじゃくるミエルの肩を抱き寄せ、優しく慰め始めた。
「可哀想に。怖かったね、ミエル。私の妻が不調法ですまない」
「ううん、いいのぉ。ヴィンセントがわかってくれればぁ……」
会場からは、同情的な視線がミエルに、そして非難めいた視線がロザリンドに向けられる。
「あの奥様、嫉妬深いのかしら」「せっかくの成功を台無しにして」という囁きが聞こえる。
ロザリンドは立ち尽くしていた。
半年間の不眠不休。
荒れた指先。
薬品の匂いが染み付いた髪。
それら全てが、今、目の前で可愛げのないゴミとして掃き捨てられた。
彼女の中で、ピンと張り詰めていた糸が、音もなく切れた。
怒りでも、悲しみでもない。
もっと静かで、冷たく、底のない感覚。
それは失望が飽和点を超え、絶対零度で凍りつく瞬間だった。
(ああ、そうか)
ロザリンドの脳裏に、数式のように冷徹な結論が浮かび上がる。
この男に、期待するだけ無駄なのだ。
彼はロザリンドが作った土台の上で踊っているだけに過ぎない。
それなのに、その土台を自ら破壊し、彼女を否定することでしか自尊心を満たせない。
理解など、永遠に訪れない。
心臓が冷えていく。
ドク、ドク、と波打つたびに、感情という不純物が濾過され、ただの機能的な臓器になっていくようだった。
楽だ、と彼女は思った。
理解を求めようとするから苦しいのだ。
愛されようと願うから辛いのだ。
ならば、求められた通りにして差し上げましょう。
貴方が望む、可愛げのある、あるいは何も言わない都合の良い人形になりましょう。
ロザリンドはゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは、すでに光も熱も消え失せている。
彼女は口角の筋肉だけを正確に収縮させ、完璧なカーブを描く微笑みを作った。
「……申し訳ございません、旦那様」
その声は、鈴の音のように美しく、そして氷のように冷たかった。
「私が未熟でございました。ミエルさんの素晴らしい感性を理解できず、無粋な真似をいたしましたこと、深くお詫び申し上げます」
深々と頭を下げる。
その所作は、王宮の侍女よりも洗練されていた。
ヴィンセントは一瞬、妻の急激な変化に戸惑ったように眉を動かしたが、すぐに満足げに頷いた。
自分の言葉で妻が反省したのだと解釈したのだ。
「わかればいいんだよ、ロザリンド。さあ、下がって。これからはもっとミエルを見習うといい」
「はい。仰せのままに」
ロザリンドはもう一度微笑み、静かに一歩下がった。
その微笑みは、夫への服従の証ではない。
それは、バークリー伯爵家という組織に対する、最終的な絶縁状の封蝋だった。
彼女の頭の中では、すでに新しい計算式が回り始めていた。
――撤退までの期間、推定三十日。
――持ち出すべき資産、特許権、そして人材のリストアップ。
スポットライトを浴びて笑う夫と、その横で勝ち誇った顔をする女を、ロザリンドは遠い異国の風景のように眺めていた。
さようなら、ヴィンセント。
貴方は今、貴方を支えていた唯一の柱を、自らの手でへし折ったのです。
壇上に歩み寄り、震える声で告げる。
「お待ちください。そのようにピンを刺しては、撥水機能が損なわれます。今すぐ外して、繊維を修復しなければ……」
正論だった。
技術者として、当然の指摘だった。
だが、会場の空気が凍りついた。
ミエルが目を丸くし、次の瞬間、大粒の涙を浮かべた。
「ひどぉい……。私、ただヴィンセントのお手伝いがしたかっただけなのにぃ……。ロザリンドさん、私のこと嫌いだからって、皆の前でそんなにいじめなくても……っ」
「いじめ? いいえ、私は事実を――」
「いい加減にしたまえ、ロザリンド!」
鋭い声が、鞭のようにロザリンドを打った。
見上げると、ヴィンセントが冷ややかな瞳で彼女を見下ろしていた。
先ほどまでの、聴衆に向けた温厚な表情はどこにもない。
そこにあるのは、面倒な部下を叱責する上司の顔だった。
「君はいつもそうだ。数字だの機能だの、理屈ばかり並べ立てて。人の心がわからないのか?」
「ですが、これは商品の品質に関わる問題です。お客様に不良品を――」
「その可愛げのなさが、君の欠点だと言っているんだ」
ヴィンセントは吐き捨てるように言った。
低い声で、ロザリンドの心臓を確実に貫くように。
「彼女を見てごらん。あの純粋な思いやりが、今の君には欠けている。だから君は、私がいないと何もできないんだよ」
ヴィンセントは泣きじゃくるミエルの肩を抱き寄せ、優しく慰め始めた。
「可哀想に。怖かったね、ミエル。私の妻が不調法ですまない」
「ううん、いいのぉ。ヴィンセントがわかってくれればぁ……」
会場からは、同情的な視線がミエルに、そして非難めいた視線がロザリンドに向けられる。
「あの奥様、嫉妬深いのかしら」「せっかくの成功を台無しにして」という囁きが聞こえる。
ロザリンドは立ち尽くしていた。
半年間の不眠不休。
荒れた指先。
薬品の匂いが染み付いた髪。
それら全てが、今、目の前で可愛げのないゴミとして掃き捨てられた。
彼女の中で、ピンと張り詰めていた糸が、音もなく切れた。
怒りでも、悲しみでもない。
もっと静かで、冷たく、底のない感覚。
それは失望が飽和点を超え、絶対零度で凍りつく瞬間だった。
(ああ、そうか)
ロザリンドの脳裏に、数式のように冷徹な結論が浮かび上がる。
この男に、期待するだけ無駄なのだ。
彼はロザリンドが作った土台の上で踊っているだけに過ぎない。
それなのに、その土台を自ら破壊し、彼女を否定することでしか自尊心を満たせない。
理解など、永遠に訪れない。
心臓が冷えていく。
ドク、ドク、と波打つたびに、感情という不純物が濾過され、ただの機能的な臓器になっていくようだった。
楽だ、と彼女は思った。
理解を求めようとするから苦しいのだ。
愛されようと願うから辛いのだ。
ならば、求められた通りにして差し上げましょう。
貴方が望む、可愛げのある、あるいは何も言わない都合の良い人形になりましょう。
ロザリンドはゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは、すでに光も熱も消え失せている。
彼女は口角の筋肉だけを正確に収縮させ、完璧なカーブを描く微笑みを作った。
「……申し訳ございません、旦那様」
その声は、鈴の音のように美しく、そして氷のように冷たかった。
「私が未熟でございました。ミエルさんの素晴らしい感性を理解できず、無粋な真似をいたしましたこと、深くお詫び申し上げます」
深々と頭を下げる。
その所作は、王宮の侍女よりも洗練されていた。
ヴィンセントは一瞬、妻の急激な変化に戸惑ったように眉を動かしたが、すぐに満足げに頷いた。
自分の言葉で妻が反省したのだと解釈したのだ。
「わかればいいんだよ、ロザリンド。さあ、下がって。これからはもっとミエルを見習うといい」
「はい。仰せのままに」
ロザリンドはもう一度微笑み、静かに一歩下がった。
その微笑みは、夫への服従の証ではない。
それは、バークリー伯爵家という組織に対する、最終的な絶縁状の封蝋だった。
彼女の頭の中では、すでに新しい計算式が回り始めていた。
――撤退までの期間、推定三十日。
――持ち出すべき資産、特許権、そして人材のリストアップ。
スポットライトを浴びて笑う夫と、その横で勝ち誇った顔をする女を、ロザリンドは遠い異国の風景のように眺めていた。
さようなら、ヴィンセント。
貴方は今、貴方を支えていた唯一の柱を、自らの手でへし折ったのです。
あなたにおすすめの小説
【完結】貴方の後悔など、聞きたくありません。
なか
恋愛
学園に特待生として入学したリディアであったが、平民である彼女は貴族家の者には目障りだった。
追い出すようなイジメを受けていた彼女を救ってくれたのはグレアルフという伯爵家の青年。
優しく、明るいグレアルフは屈託のない笑顔でリディアと接する。
誰にも明かさずに会う内に恋仲となった二人であったが、
リディアは知ってしまう、グレアルフの本性を……。
全てを知り、死を考えた彼女であったが、
とある出会いにより自分の価値を知った時、再び立ち上がる事を選択する。
後悔の言葉など全て無視する決意と共に、生きていく。
【完】愛人に王妃の座を奪い取られました。
112
恋愛
クインツ国の王妃アンは、王レイナルドの命を受け廃妃となった。
愛人であったリディア嬢が新しい王妃となり、アンはその日のうちに王宮を出ていく。
実家の伯爵家の屋敷へ帰るが、継母のダーナによって身を寄せることも敵わない。
アンは動じることなく、継母に一つの提案をする。
「私に娼館を紹介してください」
娼婦になると思った継母は喜んでアンを娼館へと送り出して──
【完結】新婚生活初日から、旦那の幼馴染も同居するってどういうことですか?
よどら文鳥
恋愛
デザイナーのシェリル=アルブライデと、婚約相手のガルカ=デーギスの結婚式が無事に終わった。
予め購入していた新居に向かうと、そこにはガルカの幼馴染レムが待っていた。
「シェリル、レムと仲良くしてやってくれ。今日からこの家に一緒に住むんだから」
「え!? どういうことです!? 使用人としてレムさんを雇うということですか?」
シェリルは何も事情を聞かされていなかった。
「いや、特にそう堅苦しく縛らなくても良いだろう。自主的な行動ができるし俺の幼馴染だし」
どちらにしても、新居に使用人を雇う予定でいた。シェリルは旦那の知り合いなら仕方ないかと諦めるしかなかった。
「……わかりました。よろしくお願いしますね、レムさん」
「はーい」
同居生活が始まって割とすぐに、ガルカとレムの関係はただの幼馴染というわけではないことに気がつく。
シェリルは離婚も視野に入れたいが、できない理由があった。
だが、周りの協力があって状況が大きく変わっていくのだった。
あなたなんて大嫌い
みおな
恋愛
私の婚約者の侯爵子息は、義妹のことばかり優先して、私はいつも我慢ばかり強いられていました。
そんなある日、彼が幼馴染だと言い張る伯爵令嬢を抱きしめて愛を囁いているのを聞いてしまいます。
そうですか。
私の婚約者は、私以外の人ばかりが大切なのですね。
私はあなたのお財布ではありません。
あなたなんて大嫌い。
幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係
紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。
顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。
※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)
婚約破棄を望むなら〜私の愛した人はあなたじゃありません〜
みおな
恋愛
王家主催のパーティーにて、私の婚約者がやらかした。
「お前との婚約を破棄する!!」
私はこの馬鹿何言っているんだと思いながらも、婚約破棄を受け入れてやった。
だって、私は何ひとつ困らない。
困るのは目の前でふんぞり返っている元婚約者なのだから。
もう愛は冷めているのですが?
希猫 ゆうみ
恋愛
「真実の愛を見つけたから駆け落ちするよ。さよなら」
伯爵令嬢エスターは結婚式当日、婚約者のルシアンに無残にも捨てられてしまう。
3年後。
父を亡くしたエスターは令嬢ながらウィンダム伯領の領地経営を任されていた。
ある日、金髪碧眼の美形司祭マクミランがエスターを訪ねてきて言った。
「ルシアン・アトウッドの居場所を教えてください」
「え……?」
国王の命令によりエスターの元婚約者を探しているとのこと。
忘れたはずの愛しさに突き動かされ、マクミラン司祭と共にルシアンを探すエスター。
しかしルシアンとの再会で心優しいエスターの愛はついに冷め切り、完全に凍り付く。
「助けてくれエスター!僕を愛しているから探してくれたんだろう!?」
「いいえ。あなたへの愛はもう冷めています」
やがて悲しみはエスターを真実の愛へと導いていく……
◇ ◇ ◇
完結いたしました!ありがとうございました!
誤字報告のご協力にも心から感謝申し上げます。
婚約者の王太子が平民と結婚するそうです──どうぞ、ご勝手に【完結保証】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王太子エドモンが平民との“真実の愛“を宣言した日、王国の均衡は崩れた。
エドモンの婚約者である公爵令嬢エヴァは、公衆の面前で婚約破棄され、更には婚約者のいるクラウディオ・レンツ公爵との結婚を命じられる。
──そして舞踏会の夜。
王太子妃になった元平民ナタリーは、王宮の礼儀も政治も知らぬまま混乱を引き起こす。
ナタリーの暴走により、王家はついにエヴァを敵に回した。
王族は焦り、貴族は離反し、反王派は勢力を拡大。
王国は“内乱寸前”へと傾いていく。
そんな中、エヴァの前に跪いたのは王太子の従弟アレクシス・レンツ。
「僕と結婚してほしい。
僕以外が王になれば、この国は沈む」
冷静で聡明な少年は、エヴァを“未来の国母”に据えるためチャンスを求めた。
「3ヶ月以内に、私をその気にさせてご覧なさい」
エヴァは、アレクシスに手を差し伸べた。
それからの2人は──?
⚠️ 本作は AI の生成した文章を一部に使っています。視点が頻繁に変わります。