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第6話:ゴミとなる努力と苦労の結晶
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深夜の執務室は、インクと古い紙の匂いが充満していた。
ロザリンドは、最後の一行を書き終え、ペンを置いた。
ずしりと重いその書類の束は、単なる報告書ではない。
バークリー家の未来そのものだった。
「……できた」
『王立陸軍制服・新素材採用に関する事業計画書』
先日開発した撥水絹の技術を応用し、耐久性と防汚性に優れた軍用制服を提案するものだ。
もしこれが採用されれば、今後十年にわたって工場は安泰となる。
家計簿上の赤字は、ヴィンセントの散財と、ミエルの思いつきによる無駄な設備投資で膨れ上がっていた。
ロザリンドは強張った肩を回し、窓の外を見た。
空が白み始めている。
また徹夜をしてしまった。
けれど、これで文句は言わせない。
ヴィンセントも、さすがにこの金額規模の契約を見れば、ロザリンドの仕事を認めざるを得ないはずだ。
翌朝。
ロザリンドは、朝食の席にその計画書を持ち込んだ。
マナー違反であることは承知している。
だが、ヴィンセントは午後からミエルを連れて観劇に出かける予定だ。
話をするなら今しかなかった。
「ヴィンセント様。工場の資金繰りについて、重要なお話がございます」
ロザリンドが切り出すと、ヴィンセントは不機嫌そうに新聞を畳んだ。
「朝から金の話か。君は本当に風情がないね。せっかくの食事が台無しだ」
「工場の支払いが迫っております。ですが、この計画書をご覧ください。軍部へのコネクションを持つ商会と提携し、大口の受注を取り付ける算段がつきました」
ロザリンドは、分厚い書類をテーブルの上に広げた。
緻密なコスト計算、生産ラインの工程表、そして予想される利益。
それらは、彼女の知性と努力の結晶だった。
ヴィンセントが気だるげに手を伸ばそうとした、その時だった。
「わぁっ! なにこれぇ、字がいっぱい!」
隣に座っていたミエルが、横から覗き込んできた。
彼女の手には、なみなみと注がれたミルクコーヒーのカップが握られている。
「ロザリンドさん、またこんな難しいこと考えてるんですかぁ? 眉間にシワ、寄っちゃいますよぉ」
ミエルはくすくすと笑いながら、ロザリンドの顔を指差そうと身を乗り出した。
その拍子だった。
彼女の肘が、カップに当たった。
鈍い音と共に、褐色の液体がテーブルの上に広がった。
それは無慈悲な奔流となって、ロザリンドの計画書を飲み込んでいく。
「あ……っ!」
ロザリンドは悲鳴を上げ、慌てて書類を救い出そうとした。
だが、遅かった。
安価な紙に吸い込まれたコーヒーは、瞬く間にインクを滲ませ、緻密な計算式を黒い染みへと変えていく。
徹夜の結晶が。
家の未来が。
ただの汚れた紙束に変わった。
「な……、何を、して……」
ロザリンドの声が震えた。血の気が引き、指先が冷たくなる。
ミエルは口元を手で覆い、目を白黒させていた。
「あ、あれぇ? こぼれちゃった……。ごめんなさいぃ、カップが勝手に倒れてぇ……」
勝手に倒れるわけがない。
彼女が不注意に腕を振り回したからだ。
ロザリンドの中で、何かが弾けた。
ロザリンドは、最後の一行を書き終え、ペンを置いた。
ずしりと重いその書類の束は、単なる報告書ではない。
バークリー家の未来そのものだった。
「……できた」
『王立陸軍制服・新素材採用に関する事業計画書』
先日開発した撥水絹の技術を応用し、耐久性と防汚性に優れた軍用制服を提案するものだ。
もしこれが採用されれば、今後十年にわたって工場は安泰となる。
家計簿上の赤字は、ヴィンセントの散財と、ミエルの思いつきによる無駄な設備投資で膨れ上がっていた。
ロザリンドは強張った肩を回し、窓の外を見た。
空が白み始めている。
また徹夜をしてしまった。
けれど、これで文句は言わせない。
ヴィンセントも、さすがにこの金額規模の契約を見れば、ロザリンドの仕事を認めざるを得ないはずだ。
翌朝。
ロザリンドは、朝食の席にその計画書を持ち込んだ。
マナー違反であることは承知している。
だが、ヴィンセントは午後からミエルを連れて観劇に出かける予定だ。
話をするなら今しかなかった。
「ヴィンセント様。工場の資金繰りについて、重要なお話がございます」
ロザリンドが切り出すと、ヴィンセントは不機嫌そうに新聞を畳んだ。
「朝から金の話か。君は本当に風情がないね。せっかくの食事が台無しだ」
「工場の支払いが迫っております。ですが、この計画書をご覧ください。軍部へのコネクションを持つ商会と提携し、大口の受注を取り付ける算段がつきました」
ロザリンドは、分厚い書類をテーブルの上に広げた。
緻密なコスト計算、生産ラインの工程表、そして予想される利益。
それらは、彼女の知性と努力の結晶だった。
ヴィンセントが気だるげに手を伸ばそうとした、その時だった。
「わぁっ! なにこれぇ、字がいっぱい!」
隣に座っていたミエルが、横から覗き込んできた。
彼女の手には、なみなみと注がれたミルクコーヒーのカップが握られている。
「ロザリンドさん、またこんな難しいこと考えてるんですかぁ? 眉間にシワ、寄っちゃいますよぉ」
ミエルはくすくすと笑いながら、ロザリンドの顔を指差そうと身を乗り出した。
その拍子だった。
彼女の肘が、カップに当たった。
鈍い音と共に、褐色の液体がテーブルの上に広がった。
それは無慈悲な奔流となって、ロザリンドの計画書を飲み込んでいく。
「あ……っ!」
ロザリンドは悲鳴を上げ、慌てて書類を救い出そうとした。
だが、遅かった。
安価な紙に吸い込まれたコーヒーは、瞬く間にインクを滲ませ、緻密な計算式を黒い染みへと変えていく。
徹夜の結晶が。
家の未来が。
ただの汚れた紙束に変わった。
「な……、何を、して……」
ロザリンドの声が震えた。血の気が引き、指先が冷たくなる。
ミエルは口元を手で覆い、目を白黒させていた。
「あ、あれぇ? こぼれちゃった……。ごめんなさいぃ、カップが勝手に倒れてぇ……」
勝手に倒れるわけがない。
彼女が不注意に腕を振り回したからだ。
ロザリンドの中で、何かが弾けた。
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