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第7話:妻の納得
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「ふざけないでください! これがどれほど重要な書類か、わかっているのですか!?」
初めて、ロザリンドは声を荒らげた。
激昂した彼女の剣幕に、ミエルはびくりと肩を震わせ、次の瞬間、目から大粒の涙を溢れさせた。
「ひ、ひぃっ……! ごめんなさい、ごめんなさいぃ……! そんなに怒鳴らなくてもぉ……、わざとじゃないのにぃ……」
ミエルは過呼吸気味にヒックヒックとしゃくり上げ、ヴィンセントの腕にしがみついた。
「ヴィンセントぉ、怖いよぉ……。ロザリンドさんがぁ……」
ロザリンドは期待した。
いくらなんでも、今回ばかりはヴィンセントも状況を理解するはずだ。
重要な契約書が台無しにされたのだから。
しかし、ヴィンセントの口から出た言葉は、ロザリンドの予想を遥かに超えるものだった。
「……いい加減にしろ、ロザリンド!」
ダン、とテーブルが叩かれた。
ヴィンセントは、涙に濡れるミエルを庇うように立ち上がり、ロザリンドを睨みつけていた。
「たかが紙切れ一枚で、か弱い少女をそこまで追い詰める必要があるのか!」
「たかが、紙切れ……?」
ロザリンドは耳を疑った。
「これは工場の、いえ、バークリー家の存続がかかった計画書です! 私は何日も徹夜をして……!」
「だからなんだと言うんだ!」
ヴィンセントの声が、食堂に響き渡った。
「君のその努力とやらは、人の心を傷つけてまで優先されるべきものなのか? ミエルはわざとやったわけじゃない。事故だ。それなのに君は、鬼の首を取ったように喚き散らして……。なんて心の狭い女なんだ」
心の、狭い。
ロザリンドは立ち尽くした。
汚れた書類から、コーヒーの滴がポタポタと床に落ちる音が聞こえる。
ヴィンセントは、ロザリンドの手から濡れた書類の束を乱暴に奪い取った。
「こんなものがあるから、君は傲慢になるんだ。数字ばかり見て、人間としての優しさを忘れるから、こんなことになる」
彼は、その書類を丸めると、部屋の隅にあるゴミ箱へと投げ捨てた。
ドサッ、という乾いた音が、ロザリンドの理性の最期を告げる音のように聞こえた。
「あ……」
ロザリンドの手が、虚空を掴む。
「書き直せばいいだろう。君が得意な計算なんだから。……ただし、頭を冷やしてからな」
ヴィンセントは冷たく言い放ち、泣きじゃくるミエルの背中を優しくさすった。
「行こう、ミエル。こんな殺伐とした空気の中で食事はできない。外で食べよう」
「う、うん……。グスッ……、ヴィンセント、優しい……」
二人はロザリンドを残し、食堂を出て行った。
残されたのは、ロザリンドと、床に散らばったコーヒーの染み、そしてゴミ箱の中の未来だけ。
使用人たちが、気まずそうに遠巻きにしている。
ロザリンドは、動けなかった。
怒りではない。
悲しみでもない。
ただ、急速に納得が広がっていく感覚があった。
ああ、そうか。
この人には、言葉は通じないのだ。
論理も、献身も、未来への責任も、彼にとってはミエルの涙の前では塵芥に等しいのだ。
ロザリンドが守ろうとしていたものは、彼自らがゴミ箱に捨てたのだ。
ならば。
もう、守る必要はない。
ロザリンドの瞳から、光が消えた。
熱を持っていた感情が、急速に冷却され、絶対零度の固体へと変わる。
彼女はゆっくりとゴミ箱に近づき、汚れた書類を見下ろした。
拾おうとはしなかった。
それは、彼女の愛の死骸そのものだったからだ。
(承知いたしました、ヴィンセント様)
心の中で、冷ややかに呟いた。
(書き直せとおっしゃいましたね。ええ、書き直しましょう。ただし、それはバークリー家のための計画書ではありません。私が、私のためだけに生きるための、完璧な脱出計画書として……)
ロザリンドは顔を上げた。
その表情は、不気味なほど穏やかだった。
涙一滴こぼさず、ただ静かに、業務的に、彼女は使用人に向かって口を開いた。
「……床を拭いてちょうだい。シミになるといけないから」
その声には、人間らしい揺らぎは一切含まれていなかった。
初めて、ロザリンドは声を荒らげた。
激昂した彼女の剣幕に、ミエルはびくりと肩を震わせ、次の瞬間、目から大粒の涙を溢れさせた。
「ひ、ひぃっ……! ごめんなさい、ごめんなさいぃ……! そんなに怒鳴らなくてもぉ……、わざとじゃないのにぃ……」
ミエルは過呼吸気味にヒックヒックとしゃくり上げ、ヴィンセントの腕にしがみついた。
「ヴィンセントぉ、怖いよぉ……。ロザリンドさんがぁ……」
ロザリンドは期待した。
いくらなんでも、今回ばかりはヴィンセントも状況を理解するはずだ。
重要な契約書が台無しにされたのだから。
しかし、ヴィンセントの口から出た言葉は、ロザリンドの予想を遥かに超えるものだった。
「……いい加減にしろ、ロザリンド!」
ダン、とテーブルが叩かれた。
ヴィンセントは、涙に濡れるミエルを庇うように立ち上がり、ロザリンドを睨みつけていた。
「たかが紙切れ一枚で、か弱い少女をそこまで追い詰める必要があるのか!」
「たかが、紙切れ……?」
ロザリンドは耳を疑った。
「これは工場の、いえ、バークリー家の存続がかかった計画書です! 私は何日も徹夜をして……!」
「だからなんだと言うんだ!」
ヴィンセントの声が、食堂に響き渡った。
「君のその努力とやらは、人の心を傷つけてまで優先されるべきものなのか? ミエルはわざとやったわけじゃない。事故だ。それなのに君は、鬼の首を取ったように喚き散らして……。なんて心の狭い女なんだ」
心の、狭い。
ロザリンドは立ち尽くした。
汚れた書類から、コーヒーの滴がポタポタと床に落ちる音が聞こえる。
ヴィンセントは、ロザリンドの手から濡れた書類の束を乱暴に奪い取った。
「こんなものがあるから、君は傲慢になるんだ。数字ばかり見て、人間としての優しさを忘れるから、こんなことになる」
彼は、その書類を丸めると、部屋の隅にあるゴミ箱へと投げ捨てた。
ドサッ、という乾いた音が、ロザリンドの理性の最期を告げる音のように聞こえた。
「あ……」
ロザリンドの手が、虚空を掴む。
「書き直せばいいだろう。君が得意な計算なんだから。……ただし、頭を冷やしてからな」
ヴィンセントは冷たく言い放ち、泣きじゃくるミエルの背中を優しくさすった。
「行こう、ミエル。こんな殺伐とした空気の中で食事はできない。外で食べよう」
「う、うん……。グスッ……、ヴィンセント、優しい……」
二人はロザリンドを残し、食堂を出て行った。
残されたのは、ロザリンドと、床に散らばったコーヒーの染み、そしてゴミ箱の中の未来だけ。
使用人たちが、気まずそうに遠巻きにしている。
ロザリンドは、動けなかった。
怒りではない。
悲しみでもない。
ただ、急速に納得が広がっていく感覚があった。
ああ、そうか。
この人には、言葉は通じないのだ。
論理も、献身も、未来への責任も、彼にとってはミエルの涙の前では塵芥に等しいのだ。
ロザリンドが守ろうとしていたものは、彼自らがゴミ箱に捨てたのだ。
ならば。
もう、守る必要はない。
ロザリンドの瞳から、光が消えた。
熱を持っていた感情が、急速に冷却され、絶対零度の固体へと変わる。
彼女はゆっくりとゴミ箱に近づき、汚れた書類を見下ろした。
拾おうとはしなかった。
それは、彼女の愛の死骸そのものだったからだ。
(承知いたしました、ヴィンセント様)
心の中で、冷ややかに呟いた。
(書き直せとおっしゃいましたね。ええ、書き直しましょう。ただし、それはバークリー家のための計画書ではありません。私が、私のためだけに生きるための、完璧な脱出計画書として……)
ロザリンドは顔を上げた。
その表情は、不気味なほど穏やかだった。
涙一滴こぼさず、ただ静かに、業務的に、彼女は使用人に向かって口を開いた。
「……床を拭いてちょうだい。シミになるといけないから」
その声には、人間らしい揺らぎは一切含まれていなかった。
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