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第11話:カウントダウン
――『技術詳細の秘匿化に関する覚書』。
彼女はこの技術を、あえて特許申請しないことを選んだ。
申請すれば、技術の内容が公開されてしまう。
代わりに、その製造工程における核心部分――薬品の配合比率と温度管理のデータ――を、すべて自分の頭の中と、この手元の手帳だけに留めることにしたのだ。
工場に残されたマニュアルには、不完全なものだけを残しておく。
今の職人たちはロザリンドの口頭指示で動いているため問題ないが、彼女がいなくなれば、マニュアル通りに作っても不良品しか生まれなくなるだろう。
(私が持ち出すのは、お金ではありません。この頭脳と技術です)
ロザリンドは、淡々と書類を整理し、鞄に詰めていく。
罪悪感は微塵もなかった。
これは窃盗ではない。
彼女自身の才能の回収だ。
これまで無償で提供してきた知恵という資産を、正当な持ち主の元へ戻すだけのこと。
その時、コンコン、と控えめなノック音が響いた。
ロザリンドは素早く書類を鞄にしまい、机の引き出しに隠した。
表情を従順な妻の仮面に切り替え、鍵を開ける。
「はい」
入ってきたのは、古株の執事だった。
彼は困り果てた顔をしていた。
「奥様、お忙しいところ申し訳ございません。……その、また業者からの請求書が届いておりまして」
執事が差し出したのは、ミエルが勝手に注文したドレスや宝石の請求書だった。
桁が一つ多い。
以前なら、ロザリンドはヴィンセントに直談判し、返品の手続きに奔走していただろう。
だが、今の彼女は優雅に微笑んだ。
「あら、こんなに。ミエルさんはお洒落がお好きね」
「は、はい。ですが、今月の予算では到底……。旦那様に相談しようとしたのですが、『ロザリンドに任せてある』の一点張りで……」
「わかりました。支払っておいてください」
「えっ? しかし、資金が……」
「予備費を取り崩しましょう。それでも足りなければ、来月分の修繕費を回して」
執事はぎょっとした顔をした。
工場の修繕費は、安全管理上、絶対に手を付けてはいけない聖域だ。
それをロザリンド自身が一番よく知っているはずなのに。
「奥様、正気ですか!? そんなことをすれば、万が一機械が故障した時に――」
「大丈夫よ。旦那様が『私の言う通りにすればいい』とおっしゃったのですもの。それに、ミエルさんの笑顔を守ることが、今のこの家にとって最優先事項でしょう?」
ロザリンドは、問いかけるように首を傾げた。
その瞳は、底知れぬほど静かだった。
執事は、背筋に冷たいものが走るのを感じたのだろう。
彼はそれ以上何も言えず、震える手で請求書を受け取り、深々と頭を下げた。
「……か、畏まりました」
執事が出て行くと、ロザリンドは再び椅子に座った。
修繕費の流用。
それは、工場の寿命を縮める行為だ。
だが、計算上、致命的な故障が起きる確率は、あと一ヶ月ほどは低い。
そして一ヶ月後には、ロザリンドはこの屋敷にはいない。
彼女は机のカレンダーに目をやった。
バツ印がついた日付が、今日でまた一つ増える。
Xデーまで、あと二十五日。
次の新作発表会の翌日。
ヴィンセントたちが祝賀旅行に出発する日が、決行の日だ。
「……準備は順調ね」
ロザリンドは、独り言を呟いた。
その声は、研究室で実験の成功を確認した時と同じ、無機質で、確信に満ちた響きを持っていた。
夕暮れの光が、彼女のプラチナブロンドを赤く染める。
それは、来るべき破滅の色に似ていたが、ロザリンドにとっては自由への夜明けの色に見えていた。
彼女はこの技術を、あえて特許申請しないことを選んだ。
申請すれば、技術の内容が公開されてしまう。
代わりに、その製造工程における核心部分――薬品の配合比率と温度管理のデータ――を、すべて自分の頭の中と、この手元の手帳だけに留めることにしたのだ。
工場に残されたマニュアルには、不完全なものだけを残しておく。
今の職人たちはロザリンドの口頭指示で動いているため問題ないが、彼女がいなくなれば、マニュアル通りに作っても不良品しか生まれなくなるだろう。
(私が持ち出すのは、お金ではありません。この頭脳と技術です)
ロザリンドは、淡々と書類を整理し、鞄に詰めていく。
罪悪感は微塵もなかった。
これは窃盗ではない。
彼女自身の才能の回収だ。
これまで無償で提供してきた知恵という資産を、正当な持ち主の元へ戻すだけのこと。
その時、コンコン、と控えめなノック音が響いた。
ロザリンドは素早く書類を鞄にしまい、机の引き出しに隠した。
表情を従順な妻の仮面に切り替え、鍵を開ける。
「はい」
入ってきたのは、古株の執事だった。
彼は困り果てた顔をしていた。
「奥様、お忙しいところ申し訳ございません。……その、また業者からの請求書が届いておりまして」
執事が差し出したのは、ミエルが勝手に注文したドレスや宝石の請求書だった。
桁が一つ多い。
以前なら、ロザリンドはヴィンセントに直談判し、返品の手続きに奔走していただろう。
だが、今の彼女は優雅に微笑んだ。
「あら、こんなに。ミエルさんはお洒落がお好きね」
「は、はい。ですが、今月の予算では到底……。旦那様に相談しようとしたのですが、『ロザリンドに任せてある』の一点張りで……」
「わかりました。支払っておいてください」
「えっ? しかし、資金が……」
「予備費を取り崩しましょう。それでも足りなければ、来月分の修繕費を回して」
執事はぎょっとした顔をした。
工場の修繕費は、安全管理上、絶対に手を付けてはいけない聖域だ。
それをロザリンド自身が一番よく知っているはずなのに。
「奥様、正気ですか!? そんなことをすれば、万が一機械が故障した時に――」
「大丈夫よ。旦那様が『私の言う通りにすればいい』とおっしゃったのですもの。それに、ミエルさんの笑顔を守ることが、今のこの家にとって最優先事項でしょう?」
ロザリンドは、問いかけるように首を傾げた。
その瞳は、底知れぬほど静かだった。
執事は、背筋に冷たいものが走るのを感じたのだろう。
彼はそれ以上何も言えず、震える手で請求書を受け取り、深々と頭を下げた。
「……か、畏まりました」
執事が出て行くと、ロザリンドは再び椅子に座った。
修繕費の流用。
それは、工場の寿命を縮める行為だ。
だが、計算上、致命的な故障が起きる確率は、あと一ヶ月ほどは低い。
そして一ヶ月後には、ロザリンドはこの屋敷にはいない。
彼女は机のカレンダーに目をやった。
バツ印がついた日付が、今日でまた一つ増える。
Xデーまで、あと二十五日。
次の新作発表会の翌日。
ヴィンセントたちが祝賀旅行に出発する日が、決行の日だ。
「……準備は順調ね」
ロザリンドは、独り言を呟いた。
その声は、研究室で実験の成功を確認した時と同じ、無機質で、確信に満ちた響きを持っていた。
夕暮れの光が、彼女のプラチナブロンドを赤く染める。
それは、来るべき破滅の色に似ていたが、ロザリンドにとっては自由への夜明けの色に見えていた。
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