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第23話:歯車を支えていた軸
棚には、数冊の分厚いファイルが並んでいた。
『製造工程管理表』
『保守点検マニュアル』
背表紙には、ロザリンドの幾帳面な文字が並んでいる。
ヴィンセントはそれをひったくり、ページをめくった。
――そこには、暗号が並んでいた。
いや、文字は読める。
数字も読める。
だが、肝心な箇所が空白か、あるいは別紙参照となっていた。
『※ギアBの噛み合わせ調整値については、湿度と気温に基づき補正係数αを適用すること(係数表は管理者保管)』
『※洗浄溶剤の配合比率は、特別混合液Aを使用する(配合レシピは金庫内)』
「なんだこれは……! 肝心なことが何も書いてないじゃないか!」
ヴィンセントはページをめくり続けたが、どこを見ても同じだった。
基本的な操作手順は書いてある。
だが、トラブルが起きた時の対処法や、繊細な調整に必要な数値だけが、ことごとく欠落していた。
これを書いたのはロザリンドだ。
彼女は、あえて書かなかったのか?
いや、違う。
彼女自身が現場に来て、その都度職人たちに直接、その状況に応じた指示を出していたからだ。
正解は状況ごとに変わり、彼女の頭の中にだけ、その正解があったのだ。
「奥様がいなくなってから、誰もその数値をわからねえんだよ」
いつの間にか、職長が入り口に立っていた。
「あんた、知らなかったのか? この工場が回ってたのは、奥様が毎日現場に来て、気温に合わせて機械を調整してたからだぞ。俺たちは奥様の指示通りに動いてただけだ」
ヴィンセントの手から、ファイルが滑り落ちた。
バサリ、と床に落ちたその音は、バークリー伯爵家の心臓が止まる音に聞こえた。
「う、嘘だ……。あいつは、私の指示で動いていただけだ。あいつにそんな専門知識があるはずがない……」
「へっ、寝言は寝て言え。あんたはここで新聞読んでただけだろうが」
職長は、ヴィンセントに最後通告を突きつけた。
「直せねえよ、これ。メーカーを呼んでオーバーホールするしかねえ。……金、あるんだろうな?」
金。
ヴィンセントの顔色が土気色になった。
修理費などない。
それどころか、職人たちの給料すら払える見込みがない。
事務所の金庫を開けたが、そこにあったのは埃だけだった。
「あ、明日だ! 明日になれば、銀行から融資が降りる!」
ヴィンセントは後ずさりしながら、嘘を吐いた。
「今日はとりあえず解散だ! 修理の手配は私がする!」
彼は逃げた。
職人たちの「逃げる気か!」「ふざけんな!」という怒号を背に、ミエルの手を引いて、転がるように工場を飛び出した。
背後には、動かないピンク色の残骸と、殺気に満ちた男たちが残された。
馬車の中で、ヴィンセントは震える手を膝の上で握りしめた。
歯車が狂ったのではない。
歯車そのものが、最初からロザリンドという軸だけで支えられていたのだ。
その軸を引き抜いた今、残されたのは、ただの重たい金属のゴミだけだった。
「ヴィンセントぉ、どうするのぉ? 私、新しいドレス欲しいのにぃ」
空気の読めないミエルの声が、鼓膜を逆撫でする。
「黙ってろ!!」
初めて、ヴィンセントはミエルを怒鳴りつけた。
ミエルが驚いて口をつぐむ。
ヴィンセントは窓の外を睨みつけた。
まだだ、まだ終わっていない。
そうだ、あのアクア・シルクがある。
あれの注文さえ入れば、一発逆転できるはずだ。
彼は縋るように、そう思い込むしかなかった。
だが彼は忘れていた。
あのアクア・シルクの品質を維持していたのもまた、ロザリンドの見えない調整だったことを……。
『製造工程管理表』
『保守点検マニュアル』
背表紙には、ロザリンドの幾帳面な文字が並んでいる。
ヴィンセントはそれをひったくり、ページをめくった。
――そこには、暗号が並んでいた。
いや、文字は読める。
数字も読める。
だが、肝心な箇所が空白か、あるいは別紙参照となっていた。
『※ギアBの噛み合わせ調整値については、湿度と気温に基づき補正係数αを適用すること(係数表は管理者保管)』
『※洗浄溶剤の配合比率は、特別混合液Aを使用する(配合レシピは金庫内)』
「なんだこれは……! 肝心なことが何も書いてないじゃないか!」
ヴィンセントはページをめくり続けたが、どこを見ても同じだった。
基本的な操作手順は書いてある。
だが、トラブルが起きた時の対処法や、繊細な調整に必要な数値だけが、ことごとく欠落していた。
これを書いたのはロザリンドだ。
彼女は、あえて書かなかったのか?
いや、違う。
彼女自身が現場に来て、その都度職人たちに直接、その状況に応じた指示を出していたからだ。
正解は状況ごとに変わり、彼女の頭の中にだけ、その正解があったのだ。
「奥様がいなくなってから、誰もその数値をわからねえんだよ」
いつの間にか、職長が入り口に立っていた。
「あんた、知らなかったのか? この工場が回ってたのは、奥様が毎日現場に来て、気温に合わせて機械を調整してたからだぞ。俺たちは奥様の指示通りに動いてただけだ」
ヴィンセントの手から、ファイルが滑り落ちた。
バサリ、と床に落ちたその音は、バークリー伯爵家の心臓が止まる音に聞こえた。
「う、嘘だ……。あいつは、私の指示で動いていただけだ。あいつにそんな専門知識があるはずがない……」
「へっ、寝言は寝て言え。あんたはここで新聞読んでただけだろうが」
職長は、ヴィンセントに最後通告を突きつけた。
「直せねえよ、これ。メーカーを呼んでオーバーホールするしかねえ。……金、あるんだろうな?」
金。
ヴィンセントの顔色が土気色になった。
修理費などない。
それどころか、職人たちの給料すら払える見込みがない。
事務所の金庫を開けたが、そこにあったのは埃だけだった。
「あ、明日だ! 明日になれば、銀行から融資が降りる!」
ヴィンセントは後ずさりしながら、嘘を吐いた。
「今日はとりあえず解散だ! 修理の手配は私がする!」
彼は逃げた。
職人たちの「逃げる気か!」「ふざけんな!」という怒号を背に、ミエルの手を引いて、転がるように工場を飛び出した。
背後には、動かないピンク色の残骸と、殺気に満ちた男たちが残された。
馬車の中で、ヴィンセントは震える手を膝の上で握りしめた。
歯車が狂ったのではない。
歯車そのものが、最初からロザリンドという軸だけで支えられていたのだ。
その軸を引き抜いた今、残されたのは、ただの重たい金属のゴミだけだった。
「ヴィンセントぉ、どうするのぉ? 私、新しいドレス欲しいのにぃ」
空気の読めないミエルの声が、鼓膜を逆撫でする。
「黙ってろ!!」
初めて、ヴィンセントはミエルを怒鳴りつけた。
ミエルが驚いて口をつぐむ。
ヴィンセントは窓の外を睨みつけた。
まだだ、まだ終わっていない。
そうだ、あのアクア・シルクがある。
あれの注文さえ入れば、一発逆転できるはずだ。
彼は縋るように、そう思い込むしかなかった。
だが彼は忘れていた。
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