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第34話:遅すぎたラブレター
雨が雪へと変わり、底冷えのする夜だった。
ヴィンセントは、震える手で安物のペンを握りしめていた。
薄暗いランプの灯りの下、テーブルの上には皺だらけの便箋が置かれている。
それは、彼が市場でパンを買うのを我慢して買った、一番安い紙だった。
「……拝啓、ロザリンド」
インクが滲む。
手が悴んで、思うように文字が書けない。
かつて、彼のサイン一つで何百枚もの金貨が動いていた頃、彼が使うのは最高級の羊皮紙と、滑らかな万年筆だった。
だが今、彼が綴ろうとしているのは、事業の決裁書類ではない。
人生で初めて書く、妻への謝罪文だった。
『私が間違っていた。君が正しかった』
書き出しだけで、涙が溢れて止まらなかった。
認めたくなかった言葉。
プライドが邪魔をして、決して口にできなかった言葉。
それを文字にすることで、ヴィンセントは自分の愚かさを改めて直視させられていた。
『君がいなくなって、ようやく分かったんだ。この家の明かりを灯していたのは、私ではなく君だったということを』
彼は思い返していた。
「君は可愛げがない」と罵ったあの日。
「私の指導のおかげだ」と手柄を奪ったあの日。
彼女は何も言わず、ただ静かに微笑んで耐えていた。
あれは、従順だったのではない。
彼女が少しずつ、心を殺していたのだ。
『寒くて、寂しくて、どうしようもないんだ。君の淹れてくれた紅茶が飲みたい。君の整えてくれたベッドで眠りたい。……いや、違う』
ヴィンセントはペンを止めた。
これではただの不便さの訴えだ。
また彼女を利用しようとしているだけだ。
彼は紙をくしゃりと丸めて捨てようとしたが、予備の紙はない。
彼は皺を伸ばし、続きを書いた。
『ただ、君に会いたい。ミエルのことなんて、本当はどうでもよかったんだ。私を一番近くで支えてくれていたのは君だけだった。愛している。今さら信じてもらえないかもしれないが、本当に愛しているんだ』
愛している。
結婚してから三年間、一度も言わなかった言葉。
言わなくても分かるだろうと驕り、言う必要もないと軽んじていた言葉。
それが、こんなにも重く、そして虚しいものだとは知らなかった。
『もう一度、やり直したい。私が変わるから。君の言うことを何でも聞くから。だから、どうか……、戻ってきてほしい』
ヴィンセントは封筒に手紙を入れ、なけなしのコインを貼った。
宛先は、ヴァルモア商会。
先日、彼女に追い返された場所だ。
直接会いに行く勇気はない。
警備員に摘み出されるのがオチだ。
だが、手紙なら。
彼女も一人の夜にこれを読めば、昔の情を思い出してくれるかもしれない。
彼女は優しい人だった。
困っている人を放っておけない人だった。
きっと、この惨めな文字を見れば、心が揺らぐはずだ。
そんな浅ましくも縋るような希望を胸に、ヴィンセントは雪の中、ポストへと走った。
それから、三日が過ぎた。
ヴィンセントはアパートの入り口で、郵便配達員が来るのを毎日待ち続けた。
寒さで指先の感覚がなくなり、咳が止まらなくなっても、彼は動かなかった。
返事が来るはずだ。
ロザリンドからの、「迎えに来てください」という手紙が。
そして四日目の朝。
配達員が、一通の封筒をヴィンセントに差し出した。
「あんたかい? これ、戻ってきたよ」
「……え?」
ヴィンセントは凍りついた手でそれを受け取った。
それは、彼が出した手紙そのものだった。
封は切られていない。
中身は読まれていない。
そして、宛名の上には、赤いインクで無慈悲なスタンプが押されていた。
『宛先不明(転居先不開示)』
「な……、なんだ、これは……?」
「ああ、商会の人に聞いたけどね、その宛先の人はもう国内にはいないらしいよ」
配達員は事務的に告げた。
「なんでも、隣国の本社へ栄転したとかで、昨日、船で発ったそうだ」
船で、発った。
ヴィンセントの脳裏に、先日見た新聞記事が蘇った。
ヴィンセントは、震える手で安物のペンを握りしめていた。
薄暗いランプの灯りの下、テーブルの上には皺だらけの便箋が置かれている。
それは、彼が市場でパンを買うのを我慢して買った、一番安い紙だった。
「……拝啓、ロザリンド」
インクが滲む。
手が悴んで、思うように文字が書けない。
かつて、彼のサイン一つで何百枚もの金貨が動いていた頃、彼が使うのは最高級の羊皮紙と、滑らかな万年筆だった。
だが今、彼が綴ろうとしているのは、事業の決裁書類ではない。
人生で初めて書く、妻への謝罪文だった。
『私が間違っていた。君が正しかった』
書き出しだけで、涙が溢れて止まらなかった。
認めたくなかった言葉。
プライドが邪魔をして、決して口にできなかった言葉。
それを文字にすることで、ヴィンセントは自分の愚かさを改めて直視させられていた。
『君がいなくなって、ようやく分かったんだ。この家の明かりを灯していたのは、私ではなく君だったということを』
彼は思い返していた。
「君は可愛げがない」と罵ったあの日。
「私の指導のおかげだ」と手柄を奪ったあの日。
彼女は何も言わず、ただ静かに微笑んで耐えていた。
あれは、従順だったのではない。
彼女が少しずつ、心を殺していたのだ。
『寒くて、寂しくて、どうしようもないんだ。君の淹れてくれた紅茶が飲みたい。君の整えてくれたベッドで眠りたい。……いや、違う』
ヴィンセントはペンを止めた。
これではただの不便さの訴えだ。
また彼女を利用しようとしているだけだ。
彼は紙をくしゃりと丸めて捨てようとしたが、予備の紙はない。
彼は皺を伸ばし、続きを書いた。
『ただ、君に会いたい。ミエルのことなんて、本当はどうでもよかったんだ。私を一番近くで支えてくれていたのは君だけだった。愛している。今さら信じてもらえないかもしれないが、本当に愛しているんだ』
愛している。
結婚してから三年間、一度も言わなかった言葉。
言わなくても分かるだろうと驕り、言う必要もないと軽んじていた言葉。
それが、こんなにも重く、そして虚しいものだとは知らなかった。
『もう一度、やり直したい。私が変わるから。君の言うことを何でも聞くから。だから、どうか……、戻ってきてほしい』
ヴィンセントは封筒に手紙を入れ、なけなしのコインを貼った。
宛先は、ヴァルモア商会。
先日、彼女に追い返された場所だ。
直接会いに行く勇気はない。
警備員に摘み出されるのがオチだ。
だが、手紙なら。
彼女も一人の夜にこれを読めば、昔の情を思い出してくれるかもしれない。
彼女は優しい人だった。
困っている人を放っておけない人だった。
きっと、この惨めな文字を見れば、心が揺らぐはずだ。
そんな浅ましくも縋るような希望を胸に、ヴィンセントは雪の中、ポストへと走った。
それから、三日が過ぎた。
ヴィンセントはアパートの入り口で、郵便配達員が来るのを毎日待ち続けた。
寒さで指先の感覚がなくなり、咳が止まらなくなっても、彼は動かなかった。
返事が来るはずだ。
ロザリンドからの、「迎えに来てください」という手紙が。
そして四日目の朝。
配達員が、一通の封筒をヴィンセントに差し出した。
「あんたかい? これ、戻ってきたよ」
「……え?」
ヴィンセントは凍りついた手でそれを受け取った。
それは、彼が出した手紙そのものだった。
封は切られていない。
中身は読まれていない。
そして、宛名の上には、赤いインクで無慈悲なスタンプが押されていた。
『宛先不明(転居先不開示)』
「な……、なんだ、これは……?」
「ああ、商会の人に聞いたけどね、その宛先の人はもう国内にはいないらしいよ」
配達員は事務的に告げた。
「なんでも、隣国の本社へ栄転したとかで、昨日、船で発ったそうだ」
船で、発った。
ヴィンセントの脳裏に、先日見た新聞記事が蘇った。
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