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第32話:化学反応と爆発的な結合
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元婚約者である王太子ウィリアムを、物理的かつ論理的に排除した後。
ヴォルガード辺境伯邸には、いつもの静寂が戻っていた。
夜、執務室の窓から続くバルコニー。
エレノアとアレクセイは、並んで手すりに寄りかかり、満天の星を見上げていた。
北の夜風は冷たいが、今の二人には、頭を冷やすのにちょうど良かった。
「……本当に、良かったのか?」
ぽつりと、アレクセイが問いかけた。
彼は手の中のグラス――中身は強い蒸留酒だ――を揺らしながら、視線を星空に固定している。
「何がでしょうか?」
「王太子の申し出だ。……あいつは愚かだが、腐っても次期国王だ。あいつと寄りを戻せば、お前はいずれ王妃となり、国の中枢でその知識を振るうことができたはずだ」
アレクセイの声には、わずかな迷いと、隠しきれない不安が滲んでいた。
彼は知っている。
エレノアの知識が、辺境の片田舎に留まるには惜しいほど高レベルであることを。
彼女が望めば、国全体の歴史を変えるような偉業さえ成し遂げられることを。
「こんな雪と獣しかいない辺境で、無愛想な武人を夫にするより……、もっと輝かしい未来があったんじゃないか?」
それは、彼なりの誠実さと、劣等感の裏返しだった。
自分は彼女を縛り付けているのではないか。
彼女の翼を折っているのではないか。
エレノアは、きょとんと目を瞬かせた。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「閣下。前提条件が間違っています」
「……何?」
「輝かしい未来、と仰いましたが、王宮での生活は私にとって高ストレス・低効率の劣悪な環境でしかありません。あそこで私が得られるのは、無意味な派閥争いと、非科学的な精神論への対処だけです」
エレノアは夜空に手を伸ばし、星を指でなぞるような仕草をした。
「それに……、私はすでに、ここで最大の化学反応を経験しました」
「化学反応?」
アレクセイが怪訝な顔でこちらを見る。
エレノアは彼に向き直り、その金色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ええ。アレクセイ・ヴォルガードという物質と、エレノア・ヴァレンタインという物質。本来なら交わるはずのなかった二つの異なる要素が、契約結婚という触媒によって接触しました」
彼女は一歩、彼に近づく。
夜風に髪がなびき、シャンプーの良い香りがふわりと漂う。
「その結果、どうなったと思いますか?」
「……どうなったんだ?」
「爆発的なエネルギーが発生し、劇的な変化が起こりました。私の日常は彩られ、貴方の領地は豊かになり、互いの欠落していた部分が完全に埋まりました」
エレノアは、アレクセイの空いている方の手を、そっと両手で包み込んだ。
かつてマントの中で温めてもらった、大きくて温かい手だ。
「この反応に伴う熱量は計り知れません。そして、重要なことが一つあります」
「……なんだ」
「この化学反応は、不可逆であるということです」
不可逆。
一度反応が進んだら、もう元の状態には戻らない、戻せない変化。
生卵がゆで卵になったら、もう生には戻らないように。
燃え尽きた灰が、薪には戻らないように。
「私はもう、貴方を知らなかった頃のただの伯爵令嬢には戻れません。貴方の料理の味を知り、貴方の不器用な優しさに触れ、貴方の隣で研究する喜びを知ってしまいました」
エレノアは少しだけ照れたように視線を逸らしたが、しっかりと言葉を紡いだ。
「反応は完了しました。今の私は、貴方と結合して新しい物質になったのです。……今さら分離しようとしても、エネルギー的に不可能です」
論理的で、理屈っぽくて、けれどこれ以上ないほど情熱的な告白。
アレクセイは目を大きく見開き、それから……、ゆっくりと、破顔した。
不安も迷いも吹き飛ばすような、快活で、心からの笑顔だった。
「……ははっ。そうか、不可逆か」
彼はグラスをバルコニーの手すりに置き、空いた腕でエレノアを力強く引き寄せた。
「つまり、もう二度と離れられないってことだな?」
「はい。物理的拘束力がなくとも、分子間力よりも強い結合エネルギーで結びついていますから」
エレノアは彼の胸板に顔を埋め、その鼓動を聞いた。
規則正しく、力強いリズム。
それが自分の鼓動と重なっていくのを感じる。
「……俺たちの相性は、抜群だと思わないか?」
「ええ。理論値以上です」
アレクセイの腕に力がこもる。
それが心地よい。
「なら、覚悟しておけ。俺ももう、お前を手放す気はない。……たとえ王が軍を率いて奪いに来ても、お前だけは渡さん」
「頼もしいですね。ですが、軍隊相手なら私も新型の発煙筒や催涙ガスで応戦しますので、共同戦線を張りましょう」
色気のない返答に、アレクセイは喉を鳴らして笑った。
そして、そっとエレノアの顎を持ち上げ、月明かりの下で彼女の顔を見つめた。
「……ずっと、一緒だ」
「はい。安定同位体になるまで……つまり、半永久的に」
二人の影が重なる。
そこにはもう、契約書も、理屈も必要なかった。
ただ、惹かれ合い、混ざり合い、一つになった夫婦がいるだけだった。
ヴォルガード辺境伯邸には、いつもの静寂が戻っていた。
夜、執務室の窓から続くバルコニー。
エレノアとアレクセイは、並んで手すりに寄りかかり、満天の星を見上げていた。
北の夜風は冷たいが、今の二人には、頭を冷やすのにちょうど良かった。
「……本当に、良かったのか?」
ぽつりと、アレクセイが問いかけた。
彼は手の中のグラス――中身は強い蒸留酒だ――を揺らしながら、視線を星空に固定している。
「何がでしょうか?」
「王太子の申し出だ。……あいつは愚かだが、腐っても次期国王だ。あいつと寄りを戻せば、お前はいずれ王妃となり、国の中枢でその知識を振るうことができたはずだ」
アレクセイの声には、わずかな迷いと、隠しきれない不安が滲んでいた。
彼は知っている。
エレノアの知識が、辺境の片田舎に留まるには惜しいほど高レベルであることを。
彼女が望めば、国全体の歴史を変えるような偉業さえ成し遂げられることを。
「こんな雪と獣しかいない辺境で、無愛想な武人を夫にするより……、もっと輝かしい未来があったんじゃないか?」
それは、彼なりの誠実さと、劣等感の裏返しだった。
自分は彼女を縛り付けているのではないか。
彼女の翼を折っているのではないか。
エレノアは、きょとんと目を瞬かせた。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「閣下。前提条件が間違っています」
「……何?」
「輝かしい未来、と仰いましたが、王宮での生活は私にとって高ストレス・低効率の劣悪な環境でしかありません。あそこで私が得られるのは、無意味な派閥争いと、非科学的な精神論への対処だけです」
エレノアは夜空に手を伸ばし、星を指でなぞるような仕草をした。
「それに……、私はすでに、ここで最大の化学反応を経験しました」
「化学反応?」
アレクセイが怪訝な顔でこちらを見る。
エレノアは彼に向き直り、その金色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ええ。アレクセイ・ヴォルガードという物質と、エレノア・ヴァレンタインという物質。本来なら交わるはずのなかった二つの異なる要素が、契約結婚という触媒によって接触しました」
彼女は一歩、彼に近づく。
夜風に髪がなびき、シャンプーの良い香りがふわりと漂う。
「その結果、どうなったと思いますか?」
「……どうなったんだ?」
「爆発的なエネルギーが発生し、劇的な変化が起こりました。私の日常は彩られ、貴方の領地は豊かになり、互いの欠落していた部分が完全に埋まりました」
エレノアは、アレクセイの空いている方の手を、そっと両手で包み込んだ。
かつてマントの中で温めてもらった、大きくて温かい手だ。
「この反応に伴う熱量は計り知れません。そして、重要なことが一つあります」
「……なんだ」
「この化学反応は、不可逆であるということです」
不可逆。
一度反応が進んだら、もう元の状態には戻らない、戻せない変化。
生卵がゆで卵になったら、もう生には戻らないように。
燃え尽きた灰が、薪には戻らないように。
「私はもう、貴方を知らなかった頃のただの伯爵令嬢には戻れません。貴方の料理の味を知り、貴方の不器用な優しさに触れ、貴方の隣で研究する喜びを知ってしまいました」
エレノアは少しだけ照れたように視線を逸らしたが、しっかりと言葉を紡いだ。
「反応は完了しました。今の私は、貴方と結合して新しい物質になったのです。……今さら分離しようとしても、エネルギー的に不可能です」
論理的で、理屈っぽくて、けれどこれ以上ないほど情熱的な告白。
アレクセイは目を大きく見開き、それから……、ゆっくりと、破顔した。
不安も迷いも吹き飛ばすような、快活で、心からの笑顔だった。
「……ははっ。そうか、不可逆か」
彼はグラスをバルコニーの手すりに置き、空いた腕でエレノアを力強く引き寄せた。
「つまり、もう二度と離れられないってことだな?」
「はい。物理的拘束力がなくとも、分子間力よりも強い結合エネルギーで結びついていますから」
エレノアは彼の胸板に顔を埋め、その鼓動を聞いた。
規則正しく、力強いリズム。
それが自分の鼓動と重なっていくのを感じる。
「……俺たちの相性は、抜群だと思わないか?」
「ええ。理論値以上です」
アレクセイの腕に力がこもる。
それが心地よい。
「なら、覚悟しておけ。俺ももう、お前を手放す気はない。……たとえ王が軍を率いて奪いに来ても、お前だけは渡さん」
「頼もしいですね。ですが、軍隊相手なら私も新型の発煙筒や催涙ガスで応戦しますので、共同戦線を張りましょう」
色気のない返答に、アレクセイは喉を鳴らして笑った。
そして、そっとエレノアの顎を持ち上げ、月明かりの下で彼女の顔を見つめた。
「……ずっと、一緒だ」
「はい。安定同位体になるまで……つまり、半永久的に」
二人の影が重なる。
そこにはもう、契約書も、理屈も必要なかった。
ただ、惹かれ合い、混ざり合い、一つになった夫婦がいるだけだった。
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