33 / 34
第33話:言語化された愛の証明
しおりを挟む
季節は巡り、ヴォルガード辺境伯領に再び春が訪れようとしていた。
雪解け水が小川となって流れ出し、大地からは新芽が顔を覗かせる。
領主館の執務室で、エレノアは一枚の書類と睨めっこをしていた。
それは、一年前に交わした婚姻契約書だった。
「……契約期間満了まで、あと三日ですか」
エレノアは独りごちて、眼鏡の位置を直した。
この契約書には、互いの利害が一致する期間における白い結婚の維持と、その後の契約更新または破棄についての条項が記されている。
先日、バルコニーで不可逆であることを確認し合った二人だ。
今さら関係が終わるとは思っていない。
だが、エレノアの几帳面な性格が、この書類上の手続きを曖昧にすることを許さなかった。
(契約更新の手続きが必要です。条件面の見直し、および期間の延長……。いえ、無期限契約への移行を提案すべきですね)
彼女は羽ペンを取り、新しい契約書の草案を作成し始めた。
項目1:当事者甲(アレクセイ)は乙(エレノア)に対し、今後も継続的な栄養管理と安全保障を提供する。
項目2:乙は甲に対し、領地経営に関する技術提供と、精神的安寧を提供する。
「……これでよし。極めて合理的なウィンウィンの関係です」
満足げに頷いた時、ドアがノックされ、アレクセイが入ってきた。
彼はなぜか、正装に近い恰好をしていた。
襟の詰まった軍服風の上着に、整えられた髪。
その表情は真剣で、硬い。
「……エレノア。少し、時間を取れるか」
「はい、閣下。ちょうど私も、契約更新の話をしようと……」
「そのことだ」
アレクセイはエレノアの言葉を遮り、彼女のデスクの前まで大股で歩み寄った。
そして、エレノアが手に持っていた古い契約書を、ひったくるように取り上げた。
「あっ、閣下? それは重要書類で……」
乾いた音が響いた。
エレノアの目の前で、アレクセイは契約書を真っ二つに破り捨てたのだ。
「――!?」
エレノアが目を見開き、フリーズする。
「……閣下。これは、どういう意図でしょうか。契約の破棄を望まれると?」
動揺を押し殺し、震える声で問う。
アレクセイは破り捨てた紙片をゴミ箱に投げ捨てると、机に両手をつき、エレノアの顔を覗き込んだ。
「違う。……こんな紙切れ一枚で定義される関係は、もう終わりだと言っている」
彼の金色の瞳が、揺るぎない熱を持ってエレノアを射抜く。
「利害の一致? 領地経営のパートナー? そんな建前はもういらん。俺が望むのは、そんなドライな関係じゃない」
「で、では……、何を……」
「俺は、お前を妻にしたい。契約上の妻じゃない。心からの、真実の妻にだ」
アレクセイは深く息を吸い込み、少し顔を赤らめながらも、はっきりと告げた。
「愛している、エレノア。……これ以上の言葉が見つからない」
ストレートな愛の告白。
不器用な彼が、飾り気のない言葉で紡いだ、魂の叫び。
エレノアの時が止まった。
愛している。
その五文字の音声信号が、鼓膜を通じて脳幹を揺さぶり、大脳辺縁系を焼き尽くす。
普段なら「愛とは脳内物質の分泌現象です」と切り返すところだ。
だが、今は声が出ない。
「……」
「……何か言ってくれ。断られると、さすがの俺も立ち直れん」
不安げに眉を下げるアレクセイ。
その表情を見て、エレノアはようやく再起動した。
彼女は椅子から立ち上がり、机を回り込んで、アレクセイの目の前に立った。
「……失礼します」
エレノアは真顔で、アレクセイの首筋に手を伸ばした。
人差し指と中指を、彼の頸動脈に当てる。
「お、おい? エレノア?」
「静かに。計測中です」
彼女はもう片方の手で、彼の瞼を軽く持ち上げ、瞳孔の大きさを確認する。
さらに、彼の頬に手を当て、皮膚温と発汗の状態をチェックした。
「……心拍数、平常時の1.5倍に上昇。瞳孔散大を確認。皮膚温の上昇と、微量の発汗……」
エレノアはぶつぶつと観測データを口にする。
そして、彼から離れると、満足げに眼鏡を押し上げた。
「言葉は記号に過ぎませんが……、閣下の行動、心拍数、瞳孔の開き具合、ホルモンバランスの全てが、その言葉の真実性を証明しています」
彼女なりの、精一杯の照れ隠しであり、そして最大の信頼の証だった。
科学者である彼女にとって、口先だけの甘い言葉よりも、制御できない生理反応こそが、嘘偽りのない証拠なのだ。
「……お前なぁ。ここで脈を測る女がどこにいる」
アレクセイが呆れたように、しかし安堵の息を吐いて笑った。
「で? 分析結果は真実だったわけだが……、お前の返答は?」
今度は、アレクセイがエレノアの手を取った。
逃がさないように、けれど優しく包み込む。
エレノアは俯き、自分の胸に手を当てた。
そこにある心臓は、アレクセイに負けないくらい激しく脈打っている。
「……私の脳内も、貴方という因子で埋め尽くされています」
彼女は顔を上げ、潤んだ瞳で彼を見つめ返した。
「研究のこと、領地のこと、明日の天気のことを考えている時でも……、バックグラウンド処理で、常に貴方のことが思考を占有しています。これはもはや、バグと言ってもいいレベルです」
「バグか。ひどい言われようだな」
「ええ。ですが……」
エレノアは、アレクセイの胸に飛び込んだ。
計算も、理論も、今はどうでもよかった。
ただ、この温かい腕の中にいたい。
「このバグを修正するつもりはありません。……私も、貴方を愛しています、アレクセイ様」
初めて呼んだ、役職抜きの名前。
アレクセイは目を見開き、次の瞬間、エレノアを強く抱きしめた。
「ああ……。一生、大事にする。誓うよ」
「はい」
言葉以上の証明など、もう必要なかった。
二人の唇が重なる。
それは、契約という名の殻を破り、本物の夫婦として生まれ変わった瞬間だった。
雪解け水が小川となって流れ出し、大地からは新芽が顔を覗かせる。
領主館の執務室で、エレノアは一枚の書類と睨めっこをしていた。
それは、一年前に交わした婚姻契約書だった。
「……契約期間満了まで、あと三日ですか」
エレノアは独りごちて、眼鏡の位置を直した。
この契約書には、互いの利害が一致する期間における白い結婚の維持と、その後の契約更新または破棄についての条項が記されている。
先日、バルコニーで不可逆であることを確認し合った二人だ。
今さら関係が終わるとは思っていない。
だが、エレノアの几帳面な性格が、この書類上の手続きを曖昧にすることを許さなかった。
(契約更新の手続きが必要です。条件面の見直し、および期間の延長……。いえ、無期限契約への移行を提案すべきですね)
彼女は羽ペンを取り、新しい契約書の草案を作成し始めた。
項目1:当事者甲(アレクセイ)は乙(エレノア)に対し、今後も継続的な栄養管理と安全保障を提供する。
項目2:乙は甲に対し、領地経営に関する技術提供と、精神的安寧を提供する。
「……これでよし。極めて合理的なウィンウィンの関係です」
満足げに頷いた時、ドアがノックされ、アレクセイが入ってきた。
彼はなぜか、正装に近い恰好をしていた。
襟の詰まった軍服風の上着に、整えられた髪。
その表情は真剣で、硬い。
「……エレノア。少し、時間を取れるか」
「はい、閣下。ちょうど私も、契約更新の話をしようと……」
「そのことだ」
アレクセイはエレノアの言葉を遮り、彼女のデスクの前まで大股で歩み寄った。
そして、エレノアが手に持っていた古い契約書を、ひったくるように取り上げた。
「あっ、閣下? それは重要書類で……」
乾いた音が響いた。
エレノアの目の前で、アレクセイは契約書を真っ二つに破り捨てたのだ。
「――!?」
エレノアが目を見開き、フリーズする。
「……閣下。これは、どういう意図でしょうか。契約の破棄を望まれると?」
動揺を押し殺し、震える声で問う。
アレクセイは破り捨てた紙片をゴミ箱に投げ捨てると、机に両手をつき、エレノアの顔を覗き込んだ。
「違う。……こんな紙切れ一枚で定義される関係は、もう終わりだと言っている」
彼の金色の瞳が、揺るぎない熱を持ってエレノアを射抜く。
「利害の一致? 領地経営のパートナー? そんな建前はもういらん。俺が望むのは、そんなドライな関係じゃない」
「で、では……、何を……」
「俺は、お前を妻にしたい。契約上の妻じゃない。心からの、真実の妻にだ」
アレクセイは深く息を吸い込み、少し顔を赤らめながらも、はっきりと告げた。
「愛している、エレノア。……これ以上の言葉が見つからない」
ストレートな愛の告白。
不器用な彼が、飾り気のない言葉で紡いだ、魂の叫び。
エレノアの時が止まった。
愛している。
その五文字の音声信号が、鼓膜を通じて脳幹を揺さぶり、大脳辺縁系を焼き尽くす。
普段なら「愛とは脳内物質の分泌現象です」と切り返すところだ。
だが、今は声が出ない。
「……」
「……何か言ってくれ。断られると、さすがの俺も立ち直れん」
不安げに眉を下げるアレクセイ。
その表情を見て、エレノアはようやく再起動した。
彼女は椅子から立ち上がり、机を回り込んで、アレクセイの目の前に立った。
「……失礼します」
エレノアは真顔で、アレクセイの首筋に手を伸ばした。
人差し指と中指を、彼の頸動脈に当てる。
「お、おい? エレノア?」
「静かに。計測中です」
彼女はもう片方の手で、彼の瞼を軽く持ち上げ、瞳孔の大きさを確認する。
さらに、彼の頬に手を当て、皮膚温と発汗の状態をチェックした。
「……心拍数、平常時の1.5倍に上昇。瞳孔散大を確認。皮膚温の上昇と、微量の発汗……」
エレノアはぶつぶつと観測データを口にする。
そして、彼から離れると、満足げに眼鏡を押し上げた。
「言葉は記号に過ぎませんが……、閣下の行動、心拍数、瞳孔の開き具合、ホルモンバランスの全てが、その言葉の真実性を証明しています」
彼女なりの、精一杯の照れ隠しであり、そして最大の信頼の証だった。
科学者である彼女にとって、口先だけの甘い言葉よりも、制御できない生理反応こそが、嘘偽りのない証拠なのだ。
「……お前なぁ。ここで脈を測る女がどこにいる」
アレクセイが呆れたように、しかし安堵の息を吐いて笑った。
「で? 分析結果は真実だったわけだが……、お前の返答は?」
今度は、アレクセイがエレノアの手を取った。
逃がさないように、けれど優しく包み込む。
エレノアは俯き、自分の胸に手を当てた。
そこにある心臓は、アレクセイに負けないくらい激しく脈打っている。
「……私の脳内も、貴方という因子で埋め尽くされています」
彼女は顔を上げ、潤んだ瞳で彼を見つめ返した。
「研究のこと、領地のこと、明日の天気のことを考えている時でも……、バックグラウンド処理で、常に貴方のことが思考を占有しています。これはもはや、バグと言ってもいいレベルです」
「バグか。ひどい言われようだな」
「ええ。ですが……」
エレノアは、アレクセイの胸に飛び込んだ。
計算も、理論も、今はどうでもよかった。
ただ、この温かい腕の中にいたい。
「このバグを修正するつもりはありません。……私も、貴方を愛しています、アレクセイ様」
初めて呼んだ、役職抜きの名前。
アレクセイは目を見開き、次の瞬間、エレノアを強く抱きしめた。
「ああ……。一生、大事にする。誓うよ」
「はい」
言葉以上の証明など、もう必要なかった。
二人の唇が重なる。
それは、契約という名の殻を破り、本物の夫婦として生まれ変わった瞬間だった。
43
あなたにおすすめの小説
報われなかった姫君に、弔いの白い薔薇の花束を
さくたろう
恋愛
その国の王妃を決める舞踏会に招かれたロザリー・ベルトレードは、自分が当時の王子、そうして現王アルフォンスの婚約者であり、不遇の死を遂げた姫オフィーリアであったという前世を思い出す。
少しずつ蘇るオフィーリアの記憶に翻弄されながらも、17年前から今世まで続く因縁に、ロザリーは絡め取られていく。一方でアルフォンスもロザリーの存在から目が離せなくなり、やがて二人は再び惹かれ合うようになるが――。
20話です。小説家になろう様でも公開中です。
巻き戻される運命 ~私は王太子妃になり誰かに突き落とされ死んだ、そうしたら何故か三歳の子どもに戻っていた~
アキナヌカ
恋愛
私(わたくし)レティ・アマンド・アルメニアはこの国の第一王子と結婚した、でも彼は私のことを愛さずに仕事だけを押しつけた。そうして私は形だけの王太子妃になり、やがて側室の誰かにバルコニーから突き落とされて死んだ。でも、気がついたら私は三歳の子どもに戻っていた。
【1話完結】あなたの恋人は毎夜わたしのベッドで寝てますよ。
ariya
ファンタジー
ソフィア・ラテットは、婚約者アレックスから疎まれていた。
彼の傍らには、いつも愛らしい恋人リリアンヌ。
婚約者の立場として注意しても、アレックスは聞く耳を持たない。
そして迎えた学園卒業パーティー。
ソフィアは公衆の面前で婚約破棄を言い渡される。
ガッツポーズを決めるリリアンヌ。
そのままアレックスに飛び込むかと思いきや――
彼女が抱きついた先は、ソフィアだった。
悪意には悪意で
12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。
私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。
ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。
【完結】元サヤに戻りましたが、それが何か?
ノエル
恋愛
王太子の婚約者エレーヌは、完璧な令嬢として誰もが認める存在。
だが、王太子は子爵令嬢マリアンヌと親交を深め、エレーヌを蔑ろにし始める。
自分は不要になったのかもしれないと悩みつつも、エレーヌは誇りを捨てずに、婚約者としての矜持を守り続けた。
やがて起きた事件をきっかけに、王太子は失脚。二人の婚約は解消された。
悪役令嬢の涙
拓海のり
恋愛
公爵令嬢グレイスは婚約者である王太子エドマンドに卒業パーティで婚約破棄される。王子の側には、癒しの魔法を使え聖女ではないかと噂される子爵家に引き取られたメアリ―がいた。13000字の短編です。他サイトにも投稿します。
婚約破棄寸前、私に何をお望みですか?
みこと。
恋愛
男爵令嬢マチルダが現れてから、王子ベイジルとセシリアの仲はこじれるばかり。
婚約破棄も時間の問題かと危ぶまれる中、ある日王宮から、公爵家のセシリアに呼び出しがかかる。
なんとベイジルが王家の禁術を用い、過去の自分と精神を入れ替えたという。
(つまり今目の前にいる十八歳の王子の中身は、八歳の、私と仲が良かった頃の殿下?)
ベイジルの真意とは。そしてセシリアとの関係はどうなる?
※他サイトにも掲載しています。
【完】まさかの婚約破棄はあなたの心の声が聞こえたから
えとう蜜夏
恋愛
伯爵令嬢のマーシャはある日不思議なネックレスを手に入れた。それは相手の心が聞こえるという品で、そんなことを信じるつもりは無かった。それに相手とは家同士の婚約だけどお互いに仲も良く、上手くいっていると思っていたつもりだったのに……。よくある婚約破棄のお話です。
※他サイトに自立も掲載しております
21.5.25ホットランキング入りありがとうございました( ´ ▽ ` )ノ
Unauthorized duplication is a violation of applicable laws.
ⓒえとう蜜夏(無断転載等はご遠慮ください)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる