王太子から婚約破棄され、彼の新たな婚約者に努力の結晶を盗まれましたが、それが王都崩壊のきっかけでした。

水上

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第33話:言語化された愛の証明

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 季節は巡り、ヴォルガード辺境伯領に再び春が訪れようとしていた。
 雪解け水が小川となって流れ出し、大地からは新芽が顔を覗かせる。

 領主館の執務室で、エレノアは一枚の書類と睨めっこをしていた。
 それは、一年前に交わした婚姻契約書だった。

「……契約期間満了まで、あと三日ですか」

 エレノアは独りごちて、眼鏡の位置を直した。

 この契約書には、互いの利害が一致する期間における白い結婚の維持と、その後の契約更新または破棄についての条項が記されている。

 先日、バルコニーで不可逆であることを確認し合った二人だ。
 今さら関係が終わるとは思っていない。

 だが、エレノアの几帳面な性格が、この書類上の手続きを曖昧にすることを許さなかった。

(契約更新の手続きが必要です。条件面の見直し、および期間の延長……。いえ、無期限契約への移行を提案すべきですね)

 彼女は羽ペンを取り、新しい契約書の草案を作成し始めた。

 項目1:当事者甲(アレクセイ)は乙(エレノア)に対し、今後も継続的な栄養管理と安全保障を提供する。

 項目2:乙は甲に対し、領地経営に関する技術提供と、精神的安寧を提供する。

「……これでよし。極めて合理的なウィンウィンの関係です」

 満足げに頷いた時、ドアがノックされ、アレクセイが入ってきた。

 彼はなぜか、正装に近い恰好をしていた。
 襟の詰まった軍服風の上着に、整えられた髪。

 その表情は真剣で、硬い。

「……エレノア。少し、時間を取れるか」

「はい、閣下。ちょうど私も、契約更新の話をしようと……」

「そのことだ」

 アレクセイはエレノアの言葉を遮り、彼女のデスクの前まで大股で歩み寄った。
 そして、エレノアが手に持っていた古い契約書を、ひったくるように取り上げた。

「あっ、閣下? それは重要書類で……」

 乾いた音が響いた。
 エレノアの目の前で、アレクセイは契約書を真っ二つに破り捨てたのだ。

「――!?」

 エレノアが目を見開き、フリーズする。

「……閣下。これは、どういう意図でしょうか。契約の破棄を望まれると?」

 動揺を押し殺し、震える声で問う。
 アレクセイは破り捨てた紙片をゴミ箱に投げ捨てると、机に両手をつき、エレノアの顔を覗き込んだ。

「違う。……こんな紙切れ一枚で定義される関係は、もう終わりだと言っている」

 彼の金色の瞳が、揺るぎない熱を持ってエレノアを射抜く。

「利害の一致? 領地経営のパートナー? そんな建前はもういらん。俺が望むのは、そんなドライな関係じゃない」 

「で、では……、何を……」

「俺は、お前を妻にしたい。契約上の妻じゃない。心からの、真実の妻にだ」

 アレクセイは深く息を吸い込み、少し顔を赤らめながらも、はっきりと告げた。

「愛している、エレノア。……これ以上の言葉が見つからない」

 ストレートな愛の告白。
 不器用な彼が、飾り気のない言葉で紡いだ、魂の叫び。

 エレノアの時が止まった。

 愛している。
 その五文字の音声信号が、鼓膜を通じて脳幹を揺さぶり、大脳辺縁系を焼き尽くす。

 普段なら「愛とは脳内物質の分泌現象です」と切り返すところだ。
 だが、今は声が出ない。

「……」

「……何か言ってくれ。断られると、さすがの俺も立ち直れん」

 不安げに眉を下げるアレクセイ。
 その表情を見て、エレノアはようやく再起動した。

 彼女は椅子から立ち上がり、机を回り込んで、アレクセイの目の前に立った。

「……失礼します」

 エレノアは真顔で、アレクセイの首筋に手を伸ばした。
 人差し指と中指を、彼の頸動脈に当てる。

「お、おい? エレノア?」

「静かに。計測中です」

 彼女はもう片方の手で、彼の瞼を軽く持ち上げ、瞳孔の大きさを確認する。
 さらに、彼の頬に手を当て、皮膚温と発汗の状態をチェックした。

「……心拍数、平常時の1.5倍に上昇。瞳孔散大を確認。皮膚温の上昇と、微量の発汗……」

 エレノアはぶつぶつと観測データを口にする。
 そして、彼から離れると、満足げに眼鏡を押し上げた。

「言葉は記号に過ぎませんが……、閣下の行動、心拍数、瞳孔の開き具合、ホルモンバランスの全てが、その言葉の真実性を証明しています」

 彼女なりの、精一杯の照れ隠しであり、そして最大の信頼の証だった。

 科学者である彼女にとって、口先だけの甘い言葉よりも、制御できない生理反応こそが、嘘偽りのない証拠なのだ。

「……お前なぁ。ここで脈を測る女がどこにいる」

 アレクセイが呆れたように、しかし安堵の息を吐いて笑った。

「で? 分析結果は真実だったわけだが……、お前の返答は?」

 今度は、アレクセイがエレノアの手を取った。
 逃がさないように、けれど優しく包み込む。

 エレノアは俯き、自分の胸に手を当てた。
 そこにある心臓は、アレクセイに負けないくらい激しく脈打っている。

「……私の脳内も、貴方という因子で埋め尽くされています」

 彼女は顔を上げ、潤んだ瞳で彼を見つめ返した。

「研究のこと、領地のこと、明日の天気のことを考えている時でも……、バックグラウンド処理で、常に貴方のことが思考を占有しています。これはもはや、バグと言ってもいいレベルです」

「バグか。ひどい言われようだな」

「ええ。ですが……」

 エレノアは、アレクセイの胸に飛び込んだ。
 計算も、理論も、今はどうでもよかった。

 ただ、この温かい腕の中にいたい。

「このバグを修正するつもりはありません。……私も、貴方を愛しています、アレクセイ様」

 初めて呼んだ、役職抜きの名前。
 アレクセイは目を見開き、次の瞬間、エレノアを強く抱きしめた。

「ああ……。一生、大事にする。誓うよ」

「はい」

 言葉以上の証明など、もう必要なかった。

 二人の唇が重なる。
 それは、契約という名の殻を破り、本物の夫婦として生まれ変わった瞬間だった。
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