王太子から婚約破棄され、彼の新たな婚約者に努力の結晶を盗まれましたが、それが王都崩壊のきっかけでした。

水上

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第34話:安定同位体、あるいは幸福な食卓

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 数年の月日が流れた。
 ヴォルガード辺境伯領は、今や大陸有数の先進都市へと変貌を遂げていた。

 街路は清潔に舗装され、上下水道が完備されている。

 市場にはヴォルガード・ブランドの石鹸、洗剤、化粧品、そして最高級の羊毛製品が並び、他国からの商人でごった返している。

 領主館の執務室。
 エレノアは、窓から活気に満ちた街を見下ろしていた。

 その顔立ちは、数年前よりも少しだけふっくらとし、柔らかさを増している。
 だが、眼鏡の奥で光る知性は、変わることなく鋭いままだ。

「……人口増加率、経済成長率ともに予測通り。公衆衛生レベルも高水準を維持していますね」

 彼女は満足げに頷き、デスクの上のある報告書に目を落とした。
 それは、王都からの定期報告だった。

『元王太子ウィリアム・アークライト、および元男爵令嬢カレン・ベリーに関する追跡調査』

 数年前の騒動の後、王家は失墜した権威を取り戻すため、ウィリアムを廃嫡し、辺鄙な修道院へ幽閉した。

 彼は今、来る日も来る日も畑を耕し、自分の犯した罪と、エレノアという逃した魚の大きさを噛み締めながら、誰とも言葉を交わさずに暮らしているという。

 一方、カレンは多額の賠償金を背負い、救済措置として厳しい規律で知られる修道女会へ送られた。
 化粧もドレスも奪われ、荒れた手で洗濯や掃除に明け暮れる日々を送っているそうだ。

「……因果応報。作用・反作用の法則は、人間社会にも適用されるようです」

 エレノアは淡々と呟き、その報告書を書類の山の一番下へとしまった。

 彼らのことは、もうどうでもいい。
 今の彼女には、過去の失敗データにかまけている暇などないのだから。

「ママ! ママ!」

 不意に、執務室のドアが勢いよく開いた。
 飛び込んできたのは、三歳になる男の子だ。

 アレクセイ譲りの黒髪に、エレノアと同じアイスブルーの瞳を持つ、愛らしい息子――レオだ。

「レオ。開閉の運動エネルギーが過剰です。ヒンジの摩耗を早めますよ」

「……でも、パパが『ご飯できたぞ』って!」

 レオは元気いっぱいに叫ぶと、エレノアの足元に抱きついた。

「今日の料理、すごいんだよ! お野菜がいっぱい溶けてて、粘度が高いの!」

 三歳児の口から飛び出した粘度という単語に、エレノアは思わず口元を緩めた。
 英才教育の成果は順調に出ているようだ。

「それは楽しみですね。行きましょうか」

 エレノアは息子を抱き上げ、廊下へと歩き出した。

 その足取りは、かつて王宮を去った時のような孤独な響きではなく、幸せな家庭の音を立てていた。

 ダイニングルームには、食欲をそそる温かな香りが満ちていた。
 テーブルには、色とりどりの料理が並んでいる。

 新鮮な野菜のサラダ、川魚の香草焼き、そしてメインの特製シチュー。

「お、来たか。腹が減っただろう」

 エプロン姿のアレクセイが、鍋を持って現れた。

 数年経ってもその巨体と強面は健在だが、目尻には深い笑い皺が刻まれ、以前のような人を寄せ付けない威圧感は消えている。
 
 代わりに漂うのは、頼りがいのある家長としての風格だ。

「今日はまた一段と豪華ですね」

「今日は結婚記念日だからな。……忘れていたのか?」

「いいえ。記憶領域の最優先事項として保存してあります」

 エレノアは微笑み、席に着いた。
 アレクセイが甲斐甲斐しくシチューを取り分け、レオの口元を拭いてやる。

「パパの料理、おいしい!」

「そうかそうか。たくさん食え。大きくなるにはタンパク質とカルシウムが必要だぞ」

「うん! 骨密度をあげる!」

 親子の会話に、エレノアは小さく吹き出した。

「……ふふっ」

「なんだ、急に笑って」

「いえ。……ただ、完璧な平衡状態だと思いまして」

 エレノアはスプーンを置き、愛する夫と息子、そして湯気を立てる料理を見渡した。

 出会った頃は、激しい化学反応の連続だった。
 衝突し、熱を発し、形を変えながら混ざり合った。

 けれど今は、その激動を経て、何よりも強固で、穏やかな状態に落ち着いている。

「私たちは、安定同位体になりましたね」

「あんてい……、なんだって?」

 アレクセイが首を傾げる。レオも真似して首を傾げる。
 エレノアは、幸せそうに目を細めて解説した。

「原子番号――つまり本質的な部分は変わりませんが、長い時間をかけてエネルギー的に最も安定した状態になったということです。もう、外部からの干渉で崩壊することもなければ、毒を出すこともない。……ただそこに在り続ける、永続的な結合です」

 少し難しい比喩だったかもしれない。
 だが、アレクセイはすぐにその意味を汲み取ったようだ。

 彼は優しく笑い、テーブル越しにエレノアの手を握った。

「……つまり、ずっと一緒だってことだな」

「はい。物理的寿命が尽きるその時まで、この結合は解けません」

 エレノアも、その手を強く握り返す。
 かつて冷え切っていた彼女の手は、今ではアレクセイの体温と、家族の愛によって、常に温かい。

「愛しているよ、エレノア」

「私もです、アレクセイ様」

 科学的な定義も、理屈っぽい証明も、今は必要ない。

 ただ、美味しい食事と、愛する家族がいれば、それが彼女にとっての世界の全てだった。
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