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第3話:凍りつく心
これは怒りではない。
失望だ。
底のない、深淵のような失望。
セシリアは彼を愛していたはずだった。
元々は政略結婚だったが、彼の優しさに触れ、支えたいと思った。
彼が苦手な決断や事務処理は自分が引き受け、彼が笑顔でいられるように努めてきた。
その結果が、これだ。
彼はセシリアを便利なパートナーとしてしか見ておらず、一人の女性として、一人の人間としての感情があることなど、想像すらしていない。
「……申し訳ございません、殿下」
セシリアは、張り付いたような笑みをさらに深くした。
反論はしない。
説明もしない。
彼には理解できないのだから、言葉を尽くすだけ無駄だ。
時間と労力の浪費でしかない。
「アリス嬢も、驚かせてしまってごめんなさいね。私の不徳の致すところだわ」
「ううん、いいんですぅ。私も不注意でしたから……。セシリア様、怒ってないならよかったですぅ」
アリスはすぐにケロリとした様子でテオドールの腕にすがりついた。
その変わり身の早さに、セシリアは恐怖すら覚えた。
「さあ、行こうアリス。少し休憩して、甘いものでも食べるといい。セシリア、君もあまり根を詰めすぎるなよ。……もう少し、女性らしい柔らかさを持つといい」
捨て台詞のように残された助言に、セシリアは無言で頭を下げた。
二人の足音が遠ざかり、扉が閉まる。
静寂が戻った実験室に、再びビーカーの煮える音だけが響く。
セシリアはゆっくりと顔を上げた。
近くにあった鏡に映る自分の顔は、能面のように無表情だった。
目元だけが、泣き出す寸前のように少し赤いが、涙は一滴も出ていない。
彼女は泣かない。
泣いても事態は好転しないことを、幼い頃から学んできたから。
「……女性らしい柔らかさ、ね」
セシリアは、先ほどまで調整していたルージュの残りを掬い取った。
そして、鏡の中の自分に向かって、唇に紅を引く。
鮮烈な赤。
それは、誰かに媚びるための色ではない。
これを塗るのは、自分を奮い立たせるための儀式だ。
唇を引き結び、完成した色味を確認する。
完璧だ。
滲まない、落ちない。
そして、彼女の本音を何一つ漏らさない、強固な鉄壁。
「記録」
セシリアは万年筆を取り、淡々とした声で独り言ちた。
「試作品番号一〇四、安定性を確認。……および、テオドール殿下への期待値、修正」
ノートの隅に書かれた文字は、インクの滲みもなく、冷徹なほど整っていた。
彼女の心は今、完全に凍りついた。
もう二度と、彼のために心が揺れ動くことはないだろう。
セシリアは真っ赤な唇のまま、再び顕微鏡を覗き込んだ。
失望だ。
底のない、深淵のような失望。
セシリアは彼を愛していたはずだった。
元々は政略結婚だったが、彼の優しさに触れ、支えたいと思った。
彼が苦手な決断や事務処理は自分が引き受け、彼が笑顔でいられるように努めてきた。
その結果が、これだ。
彼はセシリアを便利なパートナーとしてしか見ておらず、一人の女性として、一人の人間としての感情があることなど、想像すらしていない。
「……申し訳ございません、殿下」
セシリアは、張り付いたような笑みをさらに深くした。
反論はしない。
説明もしない。
彼には理解できないのだから、言葉を尽くすだけ無駄だ。
時間と労力の浪費でしかない。
「アリス嬢も、驚かせてしまってごめんなさいね。私の不徳の致すところだわ」
「ううん、いいんですぅ。私も不注意でしたから……。セシリア様、怒ってないならよかったですぅ」
アリスはすぐにケロリとした様子でテオドールの腕にすがりついた。
その変わり身の早さに、セシリアは恐怖すら覚えた。
「さあ、行こうアリス。少し休憩して、甘いものでも食べるといい。セシリア、君もあまり根を詰めすぎるなよ。……もう少し、女性らしい柔らかさを持つといい」
捨て台詞のように残された助言に、セシリアは無言で頭を下げた。
二人の足音が遠ざかり、扉が閉まる。
静寂が戻った実験室に、再びビーカーの煮える音だけが響く。
セシリアはゆっくりと顔を上げた。
近くにあった鏡に映る自分の顔は、能面のように無表情だった。
目元だけが、泣き出す寸前のように少し赤いが、涙は一滴も出ていない。
彼女は泣かない。
泣いても事態は好転しないことを、幼い頃から学んできたから。
「……女性らしい柔らかさ、ね」
セシリアは、先ほどまで調整していたルージュの残りを掬い取った。
そして、鏡の中の自分に向かって、唇に紅を引く。
鮮烈な赤。
それは、誰かに媚びるための色ではない。
これを塗るのは、自分を奮い立たせるための儀式だ。
唇を引き結び、完成した色味を確認する。
完璧だ。
滲まない、落ちない。
そして、彼女の本音を何一つ漏らさない、強固な鉄壁。
「記録」
セシリアは万年筆を取り、淡々とした声で独り言ちた。
「試作品番号一〇四、安定性を確認。……および、テオドール殿下への期待値、修正」
ノートの隅に書かれた文字は、インクの滲みもなく、冷徹なほど整っていた。
彼女の心は今、完全に凍りついた。
もう二度と、彼のために心が揺れ動くことはないだろう。
セシリアは真っ赤な唇のまま、再び顕微鏡を覗き込んだ。
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